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どうにも鼻水が止まらないらしい。
僕ではない。猫だって確かに風邪を引くが、外の気温の変化なんかで寝込んだりはしない。今年のはじめから風邪を引き、今もまだぐすぐすやっているのは、あいつの方だ。
そもそもはいくら仕事とはいえ、真冬の京都まで出かけていったのが悪かったらしい。帰り道、みやこめっせとやらで食べ損ねた仇討ちとばかり、駅のカレーショップに飛び込んだあいつは、止せばいいのに激辛なんぞを頼んだのだ。その結果、暑い暑いと上着を脱ぎ、帰路の新幹線では汗をかいたまま熟睡していた。荷物棚の上でぼくが心配したのもむなしく、家に帰りついたときには完全な風邪っひきとなっていたわけだ。
正確には風邪そのものは十日ほどで治ったようだが、今度は花粉症とやらが始まったとかで、結局いまもなおしょっちゅう洟をかんでいる。まったく人間とは面倒なものだ。
「金沢も、カレーが美味しいらしいですよ」
来客用のカウチに腰掛けたお客がショートカットの髪を揺らしてそう言うと、あいつはティッシュ箱に伸ばしかけていた手を止めた。
「千切りキャベツとカツが乗っているんだそうです。わたしは食べたことはないですが」
「カツカレーなんですか。うーん、最近、ちょっと脂っこいものはなあ」
馬鹿を言え。ぼくはちゃんと知ってるぞ。
若い女性のお客の前でかっこつけているけれど、昨日だってこいつは近所のコンビニで唐揚げを買ってきたのだ。冷蔵庫のビールとそれで晩酌をしたせいで、人間にはわからないかもしれないが、この小さな事務所にはまだ油の匂いが漂っている。
「しかし、前回が京都で今回が金沢ですか。そのめるさんって人は、よっぽどカレーが好きなんですかね」
「さあ。わたしもそこまでは教えてもらっていないんで。どうなんでしょうね。今度聞いておきます」
そう首をひねったお客の膝には、この間、あいつが京都で買ってきた薄い本が大事そうに置かれている。どこか同族の気配がある表紙の絵を眺めながら、ぼくはいつ消えるか分からない油の匂いに鼻をひくつかせた。
「あ、でも、金沢はともかく、京都までがカレーの名所ってことはないんじゃないですか」
お客が首をひねるのに、あいつは「そうなんですか」と目を丸くした。
「そうですよ。だって京都といえば抹茶とかラーメンとかなんじゃ」
「あ、確かにそうかもしれませんね。けど駅で食べたカレーは美味しかったなあ」
へえ、と相槌を打ってから、お客さんは「いいなあ」と呟いた。
「わたし、駅でご飯食べるのが苦手なんです。実は小さい頃に、親に連れられて出かけたとき、ちょっと駅で嫌なことがあって」
そのときは駅のホームで家族みんなで駅弁を食べていたんですが、とお客は独り言のように続けた。
「二つ隣のベンチで、女の人がやっぱり駅弁を食べていたんです。髪の長い、綺麗な人。一人旅みたいで、足元にカバンを置いていました。すると突然、男の人がそこに駆け寄ってきて、彼女のお弁当をはたき落としたんです」
彼女は体を硬くして、息を詰めた。まるで、今、目の前でその事件が起きたかのように。
「男の人はそのまま改札を飛び出し、走り去ってしまいました。きっと別れ話がこじれた彼氏が、後を追ってきて腹いせに嫌がらせをしたんでしょう。母が大急ぎでハンカチを持って駆け寄り、大丈夫ですかと声をかけたんですけど、彼女はそれを無視して、真っ逆さまに落ちたお弁当を拾い上げて――」
汚れた唐揚げをそのまま口に入れたんです、と言って、彼女はふうと息をついた。
「それ以来、わたし、人の多いところでご飯を食べるのが苦手で。普通の飲食店はどうにか克服できたんですけど、駅みたいに大勢の人が行きかうところはちょっと」
「そうですか」
とうなずいてから、あれ、とあいつは首をひねった。
「でも、確か、あなたに初めてお会いしたのは、○○駅のスターバックスだった気がするんですけど――」
心底不思議そうなあいつの呟きに、お客の顔がはっきりと強張る。馬鹿、とぼくは小さく啼いた。
忘れたのか。半年前、お前が駅で落ち合ったこの人を連れてきたとき、このお客の髪はとても長くて綺麗だった。それが次に事務所にやってきたときは、ばっさり短い髪になっていて、お前はびっくりしていたじゃないか。
お弁当をひっくりかえされた女性。それは記憶の中の人なんかじゃない。落ちた唐揚げを拾い上げて食べたのが誰か。よくよく考えてみろよ。
昨日あいつが食べた唐揚げの匂いが、人間に感じられないほどに薄くなっていることに、ぼくは心から安心した。
お人よしのあいつはまだ、お客の表情の変化に気づいていないらしい。
「それにしても京都駅のカレーはうまかったですよ。あ、でも次の金沢も楽しみだなあ」
とのんきな声を上げ、くしゅんと小さなくしゃみをした。
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