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新幹線、という奴が嫌いだ。
乗り込むまでは毎回、凄まじい雑踏を潜り抜けなきゃいけないし、乗ったら乗ったでびっくりするほど揺れる。あいつに言わせれば、乗り物としてはとても優れているそうだが、あんなに揺れる新幹線の中でもぐうぐういびきをかいて寝ているような奴の言葉だ。どう考えても信じられない。
ただ、二月ほど前、金沢とやらいう町に行くあいつについて行った時は、少しだけ道中の空気が違った。網棚の上でくんくんと鼻を動かすまでもなく、その理由はすぐに分かった。新しいのだ。ぐおんぐおんとやかましい足音を立てながら走る車中の匂いも、途中、どんどんと乗り込んでくる客たちがまとっている空気も。
新幹線に乗り込むなり、帽子を顔に乗っけてぐうぐういびきをかいていたあいつは、一時間ほどするとむっくりと起き上がり、おもむろにカバンから買ってあったサンドイッチとビールを取り出した。すると、隣の席に座っていた上品そうな老人が、それまで読んでいた文庫本をぱたりと膝の上に伏せ、「ご旅行ですか」と声をかけてきた。
「いえ、仕事です。それにしても金沢まで新幹線で一本で行けるようになるなんて、信じられませんねえ」
「おやおや、金沢まで新幹線が延伸したのはもう四年も前ですよ。では、金沢はお久しぶりということですね」
ええ、とうなずきながら、あいつはツナとレタスのサンドイッチにかぶりついた。
普段、朝飯を食わず、その分、昼飯を馬鹿ほど食うあいつにとっては、到底足りないサイズだ。おおかた金沢で、この間のお客に勧められたカレーを食うつもりだろう。
「じゃあきっと、びっくりなさいますよ。新幹線が来てからというもの、金沢はそれはそれはにぎやかになりましたから」
「そうでしたか。こう言っちゃあなんですが、十五年……いや、二十年ほど前かな。前に仕事で金沢に行ったときは、歴史はあるんでしょうけどおとなしい雰囲気の町に見えましたよ」
二十年も前となれば、僕はもちろん生まれちゃいない。そんな昔から、こいつは同じ仕事をしていたのかとびっくりしたせいで、思わずにゃあと小さな声が口から漏れた。
すると老人は驚いたように頭上に網棚を見上げ、「これはびっくりだ」と笑った。
「面白いお供を連れておいでですね。この季節なら金沢は雪もないですし、あのお供にも寒くはないでしょう。楽しんでください」
「ありがとうございます。失礼ですが、金沢にお住まいですか」
頭上から見下ろしているせいで、老人の表情はよく分からない。けど白い髪が小さく揺れ、ふふっと笑ったような気配がした。
「住んでいたのは、もう五十年も昔です。あの頃の金沢は、それこそ今からは嘘みたいに静かな町でしたよ。駅も線路もあけっぴろげでね。近所の子供が勝手に入り込んでいたものです」
「昔はそんな駅が多かったようですね。わたしはさすがに話に聞いただけですけど。駅員さんもさぞ大変だったことでしょう」
「そうでしょうね。入り込んでいたのは、子供だけじゃなかったですし」
新幹線がぐっと力を込めたように止まった。座席のあちこちからばらばらと人が立ち上がり、それと入れ替わるように、また新しい匂いをまとった客が乗り込んでくる。
老人はしばらくの間、それをぼんやり眺めていた。だが新幹線がまたぐんぐんと力強く走り始めると、「私もね。けっこうよく、駅に入り込んでいたんですよ」とひとりごちるように呟いた。
「こう言っちゃなんですが、当時は私も若くてね。悪い仲間たちと遊び回り、夜は人気のない駅をねぐら代わりにしていたものです」
けどね、と老人はとっくにサンドイッチを食べ終えたあいつから目を放し、窓の方を眺めながら続けた。
「やっぱりそんな暮らしは長く続きません。二、三年もすると一人去り、二人去りでどんどん仲間は減っていき、最後にゃ私と一番仲がよかった男と私の二人っきりになりました」
「親友だったんですね」
あいつのどこか間の抜けた相槌に、老人は「ただの腐れ縁ですよ」と鼻で笑った。
「誰にだって、そういった相手はいるでしょう。別に一緒にいたくないんですけど、どうしても縁が切れないって相手」
僕はきょろりと目を動かし、真下に座るあいつを眺めた。僕とあいつは、老人が言うところの腐れ縁なのだろうか、と思い、「多分違うな」と呟いた。
「ただ、私もあいつも、他に行けるところがなくってね。しかたがないから、人さまに言えないような方法で金を稼ぎながら、駅の片隅で寝起きしていたんですけど。ある日、あいつがいきなり胸をかきむしって、倒れやがりましたね」
老人の口調はいつしか、ひどく下卑たものになっていた。
「お互い、ろくな暮らしをしていなかったから、ろくな死に方はしないと覚悟はしていたんですけどね。けどまあ、あいつがあんなにあっさりくたばるとは」
「じゃあ、お葬式はあなたが出して差し上げたんですか」
馬鹿な、と老人は間髪を入れずに言い放った。
「葬式なんぞ、出しちゃいませんよ。倒れたあいつを放り出して逃げて、それっきりですのさ」
「じゃあ――」
「あの後、通りがかった人にでも助けられ、生きている可能性だってないわけじゃないですけどね。けど、まあ、そんな強運な奴じゃなかったし、やっぱり生きちゃあいないでしょう。だからこれは私なりの、墓参りなんですよ」
新幹線がまたしても、ぐぐっと遅くなる。老人はようやくあいつの方を顧みて、ほら、と言った。
「大きな建物が見てきたでしょう。あいつを見捨てて逃げ出した金沢に新幹線がつながったとき、私はあいつが長い長い歳月を経て、私のところまで追いついてきたように思いましたよ。けどこうやって、それ以来、毎年金沢に来るようになると、あのでっかい建物があいつの墓みたいに見えてきます」
新幹線が止まる。あちこちでばらばらと人が立ち上がる。じゃあ、とあいつに声をかけて通路に半歩踏み出しながら、老人はちらりと僕を仰ぎ見た。
僕はきっと、あいつより先に死ぬ。その後、三十年、四十年も経っても、あいつは僕のことを覚えていてくれるだろうか。腐れ縁だった、と毒づいてくれるだろうか。あの老人みたいに僕がいた場所を訪ねてくれるのだろうか。
新しい駅の匂いが、どっと車内に流れ込んでくる。その中に混じっているはずのかつての駅の匂いを嗅ぎ分けようと、僕はひくひくと鼻を動かした。
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