第5話 マルセイバターサンドの約束

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 僕とあいつの間には、いくつかの決まり事がある。  別に約束を交わしたわけじゃない。僕はあいつの言葉は分かるけど、あいつはこっちが何を言っても、いつも頓珍漢なことばかりをする。そんな中で自然発生したものだけに、決まり事といったって、大したものじゃない。  一つ目、僕の飲み水は必ず常温にすること。夏だからといって、氷なんぞ浮かべられた日にゃ、あっという間におなかを壊してしまう。二つ目、あいつが三日以上遠出をする時は、僕の世話をする人を必ず寄越すこと。以上だ。  一日か二日程度の外出なら、僕はよほどのことがない限り、あいつに付いて行くことにしている。しかし三日以上となると話は別。来る日も来る日も乗り物に乗ったり、知らない場所を連れまわされることは、辛抱がならない。  しかたなく、あの古臭く、その分、だだっ広いあいつの家で一匹で留守番をするわけだが、そうなると問題になってくるのは誰が僕の世話をするか、ということだ。食事だって、三日も出しっぱなしにしていると味が落ちるし、水だって飲み干してしまう。そんなわけであいつが遠出をし、僕が留守番をしている時は、二日に一度ぐらいの割合で、誰かが僕の世話をしにやってくる。あいつが知り合いに頭を下げて、そう手配してゆくのだ。  世話係はその時々でバラバラで、どこで知り合ったのか、探偵志望という女子高生が来たこともあったし、隣のアパートに住んでいるおばあちゃんが来てくれたこともあった。その時は「内緒だよ」と言って、山ほどおやつをくれたので、後からおなかが苦しくなったほどだ。  昨日の朝、あいつは仕事用のカバンに山ほど資料を詰め込んで、大慌てで飛び出して行き、そのまま今日になっても戻ってこない。  さて、これはあいつが帰ってくるのか、それとも誰かが世話を焼きに来てくれるのか。僕はソファの上でバリバリと爪を研ぐと、少しだけ残していた食事を食べた。するとまるでそれを待っていたかのように、玄関の鍵が開く音がした。あいつが帰ってきたわけじゃない。それにしちゃ、足音が軽すぎる。 「黒猫、黒猫ねえ。あいつがまさか猫なんて飼うなんて、思ってもみなかったけど」  ぼやくような声とともに、すらりとした足が目の前に現れた。年はあいつよりほんの少し下だろうか。ひどくスタイルのいい髪の長い女性が、「この子かあ」と呟きながら、僕の前にしゃがみこんだ。 「はじめまして。いい子で留守番していたかな」  慣れない手つきでこちらの頭を撫でようとする彼女に、僕はおや、と鼻を動かした。  この女性に会うのは、間違いなく初めてだ。だけど彼女の匂いには間違いなく、覚えがあったからだ。 「ええっと、餌は、と。――ああ、これか」  それが癖なのだろう。ぶつぶつと独り言を言いながら、彼女はあいつが置いて行った袋から僕のごはんを出し、水を替え、トイレ掃除までしてくれた。それからぐるりと家の中を見回し、「ふうん、綺麗にしているじゃない。あいつ、やればできるのねえ」と笑った。  これまで僕の世話を焼きに来てくれた人たちは、一通りの務めを終えた後は、さっさと引き上げていくか、それとも僕と遊ぼうとするかのどちらかだった。それだけに僕はちょっと拍子抜けした気分で毛づくろいを始めたが、彼女はそれから空のシンクを眺め、冷蔵庫を開け、もう一度、「やればできるんじゃない」と繰り返した。 「最初っからこうだったら、喧嘩別れもせずに済んだのに。それともあたしが甘やかしちゃってたのかなあ」  溜息をつきながら、彼女はダイニングテーブルの脇に置かれた小さな椅子に腰かけた。これまでのお世話係は、みんな来客用のソファに平然と座ったというのに。  僕は毛づくろいをやめると、テーブルに飛び乗った。先ほどの匂いの理由を探るべく、頬杖をついた彼女の肩に身体をこすりつけようとして、ぎょっと足を止めた。  なぜなら、慣れた様子で小椅子に座り、部屋を眺めながら、彼女がぼろぼろと泣いていたからだ。声を出さず、涙も拭かず、彼女はただただ涙をこぼしていた。  どうすればいいのか分からなくなって、僕はみゃう、と小さく鳴いた。すると彼女は素早く指先で涙を拭い、「君のご主人さまは、明日帰ってくるらしいわよ」と言った。 「昔は一度出かけると、もっと長い間帰って来なかったものだけど。二、三泊で切り上げてくるようになったのは、やっぱり君がいるからなのねえ。あたしが待っている時からは、およそ信じられない話だわ」  あ、と僕は思った。この匂いは、そうだ、あいつの持ち物から時々漂ってくる匂いだ。古びたキーケース、洗いざらしたハンカチ。遠くの雨の匂いのように、不意に鼻先に漂ってくる匂いの主こそ、目の前の女性だ。  二、三か月に一度、電話に張り付き、ぼそぼそと言い訳を連ねているあいつの背中が、不意に思い出された。奥さん。そう、奥さんだ。僕が来る少し前に、この家を出て行ったという人。本当は時々、あいつが奥さんと外で会っているのは、言葉の端々から気付いていたけれど、僕自身は会うのは初めてだった。 「あのね、あたし、再婚するの。もう何年も前から時々、猫の世話をしに来てくれないかとあいつに頼まれたことはあったんだけどね。一度ぐらい引き受けてやるかと思ったのは、もうあいつと会うこともなくなっちゃうからだったのよ」  彼女の頬に、また新しい涙が流れた。 「まったく、困っちゃうわよね。これであいつがだらしない生活を送っていれば、ざまあ見ろと思えるし、あたしがいなきゃやっぱり駄目だったんだって自信にもなるのに。こんなに家の中を綺麗にして、可愛い猫まで飼っちゃって」  僕を見る彼女の目が、不意に冷たくなった。綺麗なピンクに塗られた爪が僕の方に伸びて来て――不意に止まる。なにかを堪えるように拳が握られ、そのまま僕に触らないまま、ひっこめられた。 「君のご主人さまはね。もうすぐ、北海道に行くらしいわよ。今回の君のお世話の御礼は、そのお土産のマルセイバターサンドって約束なの。いいわよねえ、北海道。あたしとは行こう行こうって言ってて、そのままになっちゃったのに」  彼女は何かを振り切るように、勢いよく椅子から立ち上がった。強く床を踏み鳴らして玄関まで行き、くるりとこちらを振り返る。  綺麗に掃除された床、洗い物の溜まっていないシンク。散らかし好きで、その癖、しばらくするとぶつぶつ言いながら片付けものを始めるあいつの毎日が、そのまま部屋の中には充満している。 「じゃあね、君。もう会うことはないだろうけど」  鈍い音を立てて、ドアが閉まる。僕は後ろ足で首元を掻くと、彼女が座っていた椅子の上に飛び乗った。  次は北海道か。連れて行ってくれるのだろうか。いや、何があっても付いて行ってやろう。彼女が北海道に一緒に行けなかったのであれば、なおさらだ。  鼻先に漂ってくる彼女の残り香は甘ったるく、僕が知っているこの家の匂いとはずいぶん異なる。早くあいつが帰ってきて窓を開け放ってくれればいいのに、そう思いながら僕は椅子の上で身を丸め、小さなあくびをした。56423007-f41c-455f-9503-4a0e7a32fd42
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