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今更言うまでもないが、僕は寒いのが苦手だ。暖かなこたつやストーブよりも、冷たい雨や雪の方が大好きな猫がいるなら、お目にかかりたいほどだ。
それだけにあいつにくっついて北海道とやらに行くと決めたものの、内心、僕は少々後悔していた。あいつが仕事帰りに買って来たガイドブックをこっそり覗き込んだところによれば、北海道というのは冬はびっくりするほど雪が多く、夏も普段僕が暮らしている町とは比べものにならない涼しい町だという。
そんなところに行って、凍えてしまわないだろうか。まさか雪が降るようなことはないだろうけど、僕はなにせ冷たい風が吹いただけで、家に取って返してぬくぬくしていたい方なのだ。
だけど、あいつとともに飛行機を降り、電車を乗り継いで札幌の町に降りて、あれ、と僕は思った。寒くない。いやむしろ、吹く風がからりと乾いていることもあって、陽射しは普段、僕が暮らしている町よりも柔らかく僕の毛並みを撫でてゆく。
いいところじゃないか。
公園だろうか。綺麗な花と芝生で整えられただだっ広い場所を歩きながら、僕はそう思った。空気は綺麗だし、陽射しは十分に暖かい。これだったら、あいつさえその気になってくれるなら、ごみごみとしたあの町を引き払って、引っ越してきてもいいほどだ。
「あれっ?」
聞き覚えのある声がした。あいつが凄まじい勢いで顔を背ける暇もなく、すぐそばのベンチに座っていた女性が立ち上がり、「やっぱりそうだ」とにっこりと笑った。
「今年の冬でしたっけ。めるさんに会いに、みやこめっせに来てくださった方ですよね」
「ひ――人違いじゃないですか」
探偵なんぞという稼業をしておきながら、あいつは致命的な欠点がある。とにかく嘘が下手なのだ。
あいつのしどろもどろの返事に、彼女は「またまたぁ」と片手をひらひらさせた。
「もしかして、天狗の会を追っかけてわざわざ来てくださったんですか。めるさん、開場までまだ少し時間があるんで、とうもろこし買いに行っちゃったんですよ。そろそろ戻ってくると思うんで、よかったら一緒に待ちません?」
「あ、いえ。そういうわけには――」
あいつが言い淀んだのは、調査対象であるめるさんなる相手に会うわけにいかないという使命感だけじゃない。先ほどこの公園のようなところに踏みこんだとき、あいつは真っ先に辺りに漂う香ばしい匂いに釣られて、とうもろこし売りのワゴンに真っ先に近寄り、すでに焼きとうもろこしを買い食いしたのだ。
「めるさんのことだから、茹でとうもろこしと焼きとうもろこし、両方買ってくると思うんですよ。天狗の会を追っかけてきてくれたんですから、好きな方、差し上げますよ」
あいつの眉が、片方だけぴくりと動いた。僕は知っている。あいつはさっきとうもろこしのワゴンの前で、茹でと焼き、どちらを買うかをたっぷり三分は悩んでいた。先ほどは買えなかった茹でとうころもしに、こいつはまだ未練があるのだ。
しかたがない。僕はあいつの足元で、にゃあ!と普段では絶対出さない、強い声で鳴いた。そのままくるっと身を翻し、公園をまっすぐ駆けだした。
「あ、こいつめ」
助かった、とばかりの顔で、あいつが僕の後を追ってくる。こんな芝居でもしなきゃ、あの場を逃げ出せないんだから、こいつはもしかして、結構なへっぽこなんじゃないだろうか。
あの女性に怪しまれないよう。僕は公園を行き交う色々な人の足元を縫って、懸命に駆けた。ちらりと振り返れば、あいつははあはあと肩で息をしながら、僕の後を追ってくる。
そろそろ、いいだろうか。僕は植え込みの陰で、足を止めた。それと同時に両手にビニール袋を提げた女の人が、僕とすれ違って、先ほどの女性がいるはずの方角へと歩いていく。鼻先に強い醤油の匂いと、甘いとうもろこしの匂いが漂ってきた。
茹でと焼き。たくさんじゃない。多分、それぞれ一本ずつ。
「おい、いきなり走り出すなよ。迷子になっちまうだろ」
あいつがぶつぶつ言いながら、僕を抱き上げる。
僕はもう一度、小声でにゃあと鳴き、あいつの手を小さく舐めた。指先にはまだ、醤油の味がこびりついている。
あいつは知っているだろうか。つい今さっき、あいつは茹でとうもろこしをくれるはずのめるさんとすれ違ったことを。いや、多分、気づいていないのだろう。対象者であるめるさんの顔を知っていたら、嘘がつけないあいつが今、平然としているわけがない。
「ああ、それにしてもしまったなあ。まさか文フリ京都の時と同じ人が、こっちにも来ているなんて。しかたがない。茹でとうもろこしでも食べて、少し時間を置くとしよう。しばらく様子を見ていれば、あの女性がブースから離れる時もあるだろうし」
なんだ。結局、両方食べるのか。
僕は馬鹿馬鹿しい、と小さく鳴き、もう一度あいつの手を舐めた。焼きとうもろこしの味は、すでに先ほどよりずいぶん薄くなっていた。
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