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悪夢はただの、悪夢では終わらなかった。
朝目覚めた時、あいいろちゃんは確かにテレビの横の定位置に戻ってはいたが。その頬は、血なまぐさい赤い塗料に濡れていたのである。ああ、あれはただの塗料だったと信じたい。最初から頭のどこかに塗られていた塗料が、熱か何かで溶け出して流れ出しただけである、と。
だが。
その日、私は会社で、怪我をすることになるのである。
うっかり滑って転んだ時、左手を強打したのだ。おかしな突き方をしてしまったせいで、私は左手首を捻挫してしまうことになる。それは、夢の中であいいろちゃんに掴まれた腕だった。偶然に決まっている――この時もう、私はその“不運”に対し、必死でそう言い聞かせている状態に陥っていたのだった。
悪夢は、続いた。
“あいいろちゃん”は毎晩私の夢に出てくることになるのである。
翌日は、居間にいた。私は恐怖を感じているのに、足が勝手に彼女に近づいていき、名前を呼んでしまうのだ。そして、彼女に脅されるのである。
『騙されないわ、誤魔化されないわ。あんた達があの子を隠してるのよ……!』
声は、最初に聞いた時よりも濁っている。
『返してくれるまで、諦めないわ。あの子が一緒にいないとだめなの。あの子を返してくれるまで何度でも何度でも何度でも何度でも何度でも……っ!』
その晩は、右腕を掴まれた。
そして私はその日の昼に――自転車とぶつかる交通事故に遭い。右腕を骨折することになるのである。
――二度続けば、偶然とは言えなくなる。仕事を休んでいいと言われた。それでも私は、不慣れで痛めた左手だけで無理矢理仕事を続けることを選んだ。……あの部屋に、篭る方が恐ろしくて。
もうダメだ、と思ったのは。彼女が夢に出てくるようになった、三度目の晩とその昼。
私は通勤の帰りに、崩れてきた木材の下敷きになった。そして夢の中で触られた、肋骨を三本も折る大怪我をしたのである。
不運どころではない不運が続き、病院に入院する羽目になった私をさすがの家族も怪しんだことだろう。けれど、どうして“人形に呪われたせい”だなどと告白できるものか。そんなこと、話したって誰も信じてくれないに決まっているのである。
私は夜になる前に、彼女について調べてみることにしたのだった。高砂先生の人形が、何故幸運を招くどころかこのような不運ばかりを齎してくる羽目になったのか。本物であることは疑いようがないというのに。
そして、知ったのである。高砂ミナコ最期の作品である八つ人形、それらの人形は全て――二つずつの“双子”として制作されたものであったということ。
しかしうち四つほどが、彼女の作品を預かっていた倉庫の火事で焼失してしまったのだということを。
――じゃあ、じゃあ……あいいろちゃんは……!
彼女は、作品を作ると同時にこんなことを言っていたらしい。双子人形は、二つで一つ。引き離すと寂しがり、とにかく相手を求めてしまう。二人揃っていれば幸運をもたらすが、離れてしまうと寂しさから不幸を招く。必ず人形は、対になる“相手”と一緒に置いてあげなければいけない――と。
――探してるんだ。双子の片割れを。いなくなった妹ちゃんを……!
でも。
その彼女はもう、火事で。
――これ、これ……!どうしようもないやつだ。だって相方はもういないんだもの。このまま保管してたら、私は……!
その夜。ついに私は、あいいろちゃんに首を掴まれた。
『返せ……返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せえええええええええええええええええあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!』
もう、可憐な声はどこにもなく。濁り、罅割れた怒声が重なり合って襲うばかり。その顔は流した血の涙で真っ赤になり、牙をむいて私に憎悪を向けてくるのだ。
殺される。そう思った私は、とっさに叫ぶのだ。
「た、助けて!お願い、お願い!“あなたの妹ちゃんを知っている人のところに、私が送り届けてあげる”から!!」
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