第1話

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第1話

 「……そろそろ、糖分不足ですか?」  「大正解。よくお分かりで」  運転席の窓から腕を突き入れて砂糖たっぷりのカフェオレを差し出すと、ハンドルにもたれ掛かるようにして目を瞑っていた相方のグレイはゆるりと目を開け、疲れた顔で笑ってそれを受け取った。彼は普段、ブラックしか飲まない。一度捜査本部が建てば泊まり込みになることもしばしばだが、このところ少し忙しすぎる。ユヅキ自身、この一週間で家に帰ったのは着替え用のYシャツを取りに戻った一度きりだった。いい加減、仮眠室の固いベッドにはうんざりだ。東洋系の血が半分流れるユヅキは、生粋の欧米人に比べるとやや小柄ではあるが、それでも、学生時代柔道で鍛えた筋肉のメンテナンスは怠らずにやって来たから、体つきは人並み以上という自負があった。が、そのユヅキをしても、圧倒される体つきをしているのが、このグレイという男だった。シャツがぴちりと張り付くほどに鍛え上げられた身体は、古代の英雄を掘り出した彫刻のような美しさで、しかもその身体は見てくればかりの紛い物ではなく、実際、良く動く。とはいえ、そのグレイと言えども、この多忙の中、今年三十八を迎える肉体に累積された疲労は隠しきれず、普段は鋭く澄んだ眼光も、今はすっかり濁っていた。  「……運転、代わりますよ?」  「あ?いいよ。お前の運転怖くって」  こちらへどうぞ、と恭しく助手席を示すグレイの動きに苦笑して、ユヅキは助手席側に回り込んだ。車をぶつけるようなへまはやらないが、決して上手いわけではないことは自分が一番良く分かっている。だから二人で動く時、ハンドルを握るのは大抵グレイだった。  カフェインとニコチンで過覚醒気味の脳を唸らせて走り回る彼は、地頭の良さもあり確かに有能で、上からも目をかけられている。警官になって二年目の頃、捜査でたまたまグレイと一緒になり、その時、唸りを上げる彼の脳と、鍛え上げられた肉体の強靭さに度肝を抜かれ、たたき上げで出世するのはこういう男かとそう思い、以来グレイは、ユヅキの越えるべき一つの通過点だった。施設育ちで金がなく、カレッジには行けなかったが、と言って、交番のお巡りで終わるつもりは毛頭ない。ここで成り上がるだけの力はあるつもりだったし、実際、こうして刑事部への異動が叶ったのは、実績を認められてのことだ。能力はある。必要な人脈は、繋ぐ。グレイは、今一番身近な幹部候補だった。 「……とりあえず、一旦戻るか」  ユヅキが乗り込んだのを確認したグレイは、カフェオレを一口二口口にして言った。  「分かりました」  頷いて、エスプレッソを一息に煽る。口内に広がる苦味に眉をしかめて、重い液体を飲み下す。ユヅキは普段、アメリカンしか飲まない。自分も大概疲れていると、そう思う。  ぶるんと音を立てて動き出すエンジンの振動を尻に感じながら、フロントガラス越しの風景を見るともなしに眺める。黒と藍の狭間の空を背景に、高くそびえ立つ高層ビルが煌々と灯りを灯して屹立している。写真で見た父の故郷のような、空も見えないほどの密度ではないにしろ、この街も、中心部は乱立する人工物が自然の風景を消し去り、計算され尽くした直線からなる一切の歪みを許容しない風景が広がるばかりだった。味気ない街だ。  ここで、成り上がる。そこには多分に、世間の目に対する反発がある。それは自覚していた。前向きな欲ではない。社会のためとか人のためとか、大層な思いはひとつもない。ただ、見返したい。施設育ち、それも、パシパエとの境に位置するミノスの町で育ったユヅキに対する人々の視線は、蔑みに満ちたものだった。見返してやりたい。努力も結果も、ミノス育ちの一言で嘲笑に変わる、この現実をどうにかしたかった。それは自分のためでもあったし、それから、家族の為でもあった。  ーおめでとう、ユヅキ  施設を出ることを告げたとき、シシリーの長い尻尾は力なく垂れていたが、それでも表情だけは笑顔だった。  ー夢だったもんね、警官になるの  笑顔の割りに、普段はぴんと立った三角の耳も項垂れていて、彼女の落胆ははっきりと見てとれた。ユヅキの行く先であるパイリダエーザは純血(Pure-bloody)の居住区だ。そうしてミノスは、混血(Mixed-bloody)の居住区であるパシパエとパイリダエーザの狭間に位置し、純血(pure)混血(mix)が混在する街だった。混在するといっても、実際にはミックスが大多数を占めており、ユヅキのような純血の割合は非常に少ない。好き好んで住む者はおらず、そこにいるのは精々、住む場所を追われた罪人や貧困層、それから、援助を受けられない孤児くらいのものだ。対外的には混血差別(mix discrimination)は撤廃されたということになってはいるが、現実がそうでないことは、よく、知っていた。純血(pure)混血(mix)の居住区も別段、分けられているわけではない。歴史的には明確に分断されていた時代もあったのだが、今はもう、それもない。だから本来、パイリダエーザを“純潔の居住区”と呼ぶこと自体おかしな話ではあるのだが、現実的には、そこは純血の町だった。混血だろうが住むことはできるが、部屋を探すのも一苦労。その上、混血を雇い入れる雇用者などほとんど皆無で、現実的にはそこで生活することは不可能だった。パイリダエーザで唯一混血の独占市場となっているのは風俗業で、変わり者(creepy)に獣の耳や尾のついた彼らを斡旋する業者はそれなりにあるから、若い男女は需要があった。だから、金に困って働きに行く者はあったが、ミノスで働くよりは給金がいいと言えども、そもそも物価の高い街だ。よい暮らしが出来るわけではないし、客がつかなくなれば即お払い箱。それも、そうなるまで働けるのは運のいい者で、大抵、避妊も性病対策もないまま使い捨てのように扱われ、数年で体を壊すのが落ちだった。  条文が定めたからといって、人の心に染み込んだ差別意識はそう簡単に消えたりはしない。ましてや国そのものがその条文をあからさまにいい加減に扱っているのだから、どれほど経とうが、状況は変わるべくもない。  ー……たくさん稼いで、戻ってくるよ  シシリーの細くしなやかな手を取って告げる。触れた一瞬、淡い黄色と黒の縞になった尾がふわりと立ち上がり、またぱたりと下に落ちた。同じ色合いで黒のまだらが入った耳が、ぴんと立つ。さらさらの髪は、耳の毛色と同じ、淡い黄色をしている。すっと通った鼻先。大きな目。シシリーは美しい。町でもネコ科のミックスは人気があると聞いたことがあるが、確かに、この年頃の彼らには、ちょっと他にはない色気があるのだ。だから余計に、彼女がどれほど悲しもうと、一緒に行こうとは言ってやれなかった。自分の生活だって、立ちゆく自信もないのに。ボロボロになって戻ってくる兄弟たちを見てきたから、余計に。シシリーとは同い年で、何をするのもいつも一緒だった。兄や姉、妹や弟たちも皆大切な家族だったが、シシリーは中でも特別だった。  ユヅキの手を取り、強がりな彼女はもう一度笑った。  ーユヅキはいつも優しいね……でも、戻って来なくていいよ  ここはあなたがが居るべき場所じゃない。  とんと、シシリーの手がユヅキの胸をついた。繋いだ手が離れる。シシリーの手は、そこからするりと下に下り、ユヅキの腹をさらりと撫でた。悲しげなその視線が映すのは、この服の下の傷だと知っていた。幼い頃、二人でじゃれ合っていてついた傷。彼女は、あれから少し臆病になり、ユヅキはあの日、人間の脆さを思い知った。動物たちの強靭さを身に宿す彼らと、対等で居続けることは難しい。  結局、あれ以来ミノスには戻っていない。下手に詮索されて出世が遅れれば益々、あそこに戻れる日は遠くなる。もう少し、ましな街にしたい。もう少し、生きやすい場所にしたい。そのために必要な地位を手に入れるまでは、帰らない。帰れない。施設の仲間は携帯も持たない者がほとんどで、今どうしているかは分からない。ただ時おり、街に稼ぎに来た兄弟を見かけることがある。ユヅキから声をかけることはない。向こうも大抵、こちらには気づかない。清潔で人工的な町並みを歩く兄弟は、ミノスにいた頃よりも一様に毛並みが良くなり、艶々していた。けれども、見た目が綺麗になればなるほど、反比例するように心はすり減ってゆく。最初こそ、彼らを見かけると声をかけていたのだが、ある時、変わらないあなたを見るのがつらいと泣きながら言われ、以来声をかけるのを辞めた。会うたびにボロボロになってゆく彼らを見るのも辛かったが、ダメになってゆく自分を見続けられる辛さはそれ以上なのだと分かったから。だから今、ユヅキとミノスを繋ぐのは、施設に寄付の名目で送る金くらいのものだった。
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