白い部屋

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白い部屋

「アンタは俺を殺すのか」  悲痛な声に、私は微笑むしかない。 「そうだね」  もうすぐ彼は死ぬ。走れるくらい元気で、傷一つなく、病気だってしていない彼は、ここで静かに終わりを迎える。  私が描写をしないせいで、最初のカンバスのように白い、窓もない立方体の部屋の中で。 「……俺は死にたくない」 「そうだね」  誰だって死ぬのは怖い。でも彼は、ここで終わらなければならない。  もちろん読者の大半はそんなことを望んではいないだろう。実際私の元に、そんな手紙はいくつか届いている。 「でも、飼いきれなくなったペットを放してはならないのと同じさ。残酷ではあるけれど、自分で処理しなければ」  私は両腕で彼を抱きしめる。あらゆる意味で愛していた彼に、本当は口付けをしたって良いが、別れの描写はシンプルな方が適している。  彼のことは、彼が生まれた時から私が一番良く知っている。数々の冒険をくぐり抜けてきた彼が、時には怪物とも対峙した彼が、ナイフも拳銃も使わず、私の手に掛かれば呆気なく死ぬことだって知っている。  その方法は極めてシンプルだ。 「安心して。痛みはしないさ」  作家の私が、語るのを止めれば良い。  私は親で、彼は子。私は語り手で、彼はキャスト。私は作家で、彼は主人公。  そして今、私は彼を愛していて、彼は私を憎んでいる。  当たり前だ。主人公を愛さない作家なんていない。自らの命を脅かす存在を、ドラマチックな展開で倒そうとしない主人公だっていない。  ただ残酷なのは、創造主の私を前に彼は、敗北するのが決まっているところだ。 「……逃げたい。死にたくない、俺はまだ、主人公でいたい」 「私の作品はメタフィクションじゃないんだ。登場人物が物語を自覚してはいけないよ」  泣き出してしまった彼の背を、赤ん坊をあやすようにさすりながら、私はまた微笑んだ。  泣く人間を微笑んで抱きしめるのは、極めて美しい描写だ。本当は『ありがとう』や『ごめんなさい』『さようなら』が最も似合う描写に、死ぬだの殺すだの逃げるだの云うべきではない。 「作家なんて残酷だ……今から幸せが始まるって時に、勝手に筆を置くんだ。俺の人生で、一番過酷で、小説に適した部分しか描写しない……! 俺はやっと怪物を倒して、恋人を救って、これからまだ幸せになる予定だったのに……これじゃ報いがなさ過ぎる」  私は黙って頷く。  もちろん。作家は残酷だし、架空の物語を語る噓つきだし、ペン先で人を殺しても商売が成立する、業の深い職業である。  でも同時に人を感動させ、笑顔にもできる道化師のような仕事でもある。私は作家のそう云うところが好きだ。  子供のようにくしゃくしゃにした顔で、とても人間的な顔で、クールで恰好良かった主人公は泣いた。 「書いて、まだ止めないで……俺を、もっと愛してよ」 「……愛しているとも。本当の命ではないから、君は私のエゴでしかないけれど……きちんと誠実に愛している。だから、君が一番幸せな時に時を止めるんだ。君が大切だから、私はハッピーエンドにしたかった」  ハッピーエンドとバッドエンドの物語に、本当は違いなんてない。  作者がどこで口を閉ざすか。語るのを止めた時がエンディングだ。 「……君が笑っていれば。救われていれば、この物語はハッピーエンドだよ」 「今の俺は泣いてる。だからバッドエンドだ」  泣いてるシーンだって、その時の感情によってはハッピーエンドに成り得るが、まあ今の涙では確かに無理だ。死を前にした涙はやはり幸福ではない。  でも私は作家である。暴力的に、物語を捻じ曲げることだってできる。 「そうはさせない。一行あれば私は君を笑顔にすることができる。『君は笑った。』」  彼は笑った。 「嫌だ、止めてくれ」  素敵な笑顔で、彼は呻く。  現在一五一三文字。二〇〇〇字で収めるには、そろそろこの茶番を終えなければ。  私は何度目かの微笑みを浮かべる。これは、ペンを置く作家とその主人公の別れの物語。 「『君は完結を受け入れる。』」 「楽しい旅だった、俺は満足だ」  瞬きをする間に、彼は清々した表情で、先程と矛盾したことを本心から云う。その心だって私が創作したものだから、変えることなんて赤子の手を捻る程容易い。  心を無理矢理変えるのも弱者の手を捻るのも、恐らく同じくらいの罪悪感だろうから、まあ妥当な比喩だろう。  私は右手を差し出した。 「『私と君は向かい合って、さよならを云い合う。』」 「さようなら、作者」 「お疲れ様。ありがとう、主人公」  固く手を握り返しながら、彼は消えていった。  人の感情も涙も、生死だってコントロールできる。  作家はやはり残酷で、原稿用紙の上で最も万能な生き物だ。  ペンを置いて、閉じた本に目を落として、作家は冷静になって、一人書斎で息をつく。  前言を撤回する。安心しなさい。やはり君は死んでいない。  私は君を忘れない。  そしてきっと、この本が誰かの手元にある限り、作家が朽ちても君はそこにいるんだ。 私よりずっと長生きしなさい。
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