光秀転生し、天海と成す-本能寺の変

1/1
前へ
/1ページ
次へ

光秀転生し、天海と成す-本能寺の変

 光、あれば影がある。知ってる、知ってるは、どなたのお話。おっさん、おっさん、朝でっせ。闇に紛れた鴉が、阿呆ぉ~阿呆ぉ~と鳴いとります。潜んで、動いて、ひそひそ話。化かし、化かされ、馬鹿を見る。知らぬが仏。知らぬは損。兎角、この世は棲みにくい。口外御法度のお話です。それでは御開帳、御代は結構。ああ、生きててくれればのことですが。  ここは、京都・小栗栖の山奥。馬に跨る立派な出で立ちのお侍。護衛ふたりに、十三騎の伴に歩兵を従え、先を急いでおります。  行く手を阻むは、闇と豪雨。  主君を見限り討ったはいいが、追われ追われて、悲哀の道を行く嵌めに。  山崎の戦で秀吉軍に敗れた明智軍の噂は、すぐさま広がった。  光秀の護衛についていた溝尾茂朝は、虫の知らせに駆られていた。  「一同の者、聞かれよ。これより先、くの字の藪が続く、落ち武者狩りに会うとすればここやも知れぬ。心して掛かれよ。鉄砲隊は万が一に備え、早合(はやごう)にて号令を待たずともよい。危なきを感ずれば、己の判断で撃つが良い。躊躇うことなきよう心しておかれよ」          ※早合(はやごう)とは火縄銃の装填などを早める技術   雨音混じりにガサガサと、大きく揺れる藪。何やら殺気が臭いたつ。   この先、道幅狭く、くの字に曲がる。   不吉な予感程よく当たる。   まさに、その言葉通り、茂朝の不安は的中した。そこに現れしは、落ち武者狩り。あれよあれよと囲まれた。さぁ、大変。   行く手も後方も塞がれ、袋の鼠。後方では鉄砲の破裂音が響いていた。  前方では、野猿のような男が、吠えていた。  「死にたくなければ、身ぐるみ脱いで、立ち去れー」  野猿の正体は、土民(百姓)の中村長兵衛。  雇われれば戦に、職に溢れりゃ落ち武者狩り。  傷つき逃げる侍を、待ち伏せお命頂戴。  鎧や刀を奪って、博打に酒。運がよければ武将の首は、高値で売れて万々歳。そんな輩でした。  「無礼者。鉄砲隊前へっ。命、欲しければこの場より立ち去れー」  「鉄砲隊が前にも来るぜ」  隊列の中ほどから、鉄砲隊が先頭へと駆け寄ってきた。  先頭で啖呵を切った長兵衛らは後方の発砲音に腰が引けていた。    「どうすんだ、長兵衛。鉄砲が相手じゃ、やばいぜ」  「ああ…、くそうっ」  そう言った瞬間、お宝を前に成し遂げられずの腹立たしさ紛れに長兵衛は、馬上の武士の右脇腹に槍で一刺。  「安心するな。また来るからな。お前ら、取り敢えず逃げろ」 と、捨て台詞を残して、強風で激しく揺れる藪の中に消え去った。  「危のう、御座ったな、光秀様…光秀様、どうなされた?」  光秀を気遣う溝尾茂朝は、光秀の様子を見て驚愕した。    「光秀様~」  その声は、揺れる藪の葉音に交じり、響き渡った。  「光秀様に何が御座った」と駆け寄ろうとする家臣を溝尾茂朝と小暮時三郎は、必死の思いでその進路を妨げた。  なぜ、進路を妨げたかは後程。  「何事もない。戻りなされー。馬が、ぬかるみに脚を取られただけだ、心配は要らぬ。また、奴らが戻って来るやも知れぬ、隊列を乱すでない、さぁ、戻りなされよ、さぁ」  時三郎は家臣を下がりさせ、腹心の家臣に人垣を作らせ、光秀を隠した。  「このままでは、不安を煽り、動揺が広がりまする。我ら三人の代わりを仕立て、隊を先に進ませましょう」 と、時三郎。  「それでは、光秀様が…」 と不安を抱く茂朝。その場を察し光秀は、  「心配は要らぬ、指示に、従ってくれ、選択の余地はない、ことは…急ぐ」 と声を振り絞った。茂朝は、光秀の指示に尋常ではない危機感を察し従った。  近くに大木を見つけ、その影に光秀を隠す茂朝。  仕立て上げた三人に口止めをし、蓑を深々と頭頂部から掛け、先に進ませ、一行をその場からできるだけ早く、遠ざけようと陣頭指揮を取る時三郎。  十三騎が立ち去るまでは、それはそれはもう気が遠くなる程で。  一行が通り抜けきる時には、光秀はもう虫の息。大事の前の小事かな。  「光秀様、お気を確かに、光秀様~」  茂朝と時三郎は、悲壮な面持ちで、光秀を見守るしかなかった。  「茂朝…、時三郎に…頼みがある」  「何で御座りまする」  「私の傷は、致命傷のようだ。そこで、そこでだ…かい…介錯を…」  「そんな、そんなこと…」  「武士の情けじゃ、た・た・頼む」  苦痛に苛まれていた光秀。苦悶の表情を浮かべながら、重く頷く茂朝と時三郎。生き恥を晒すは武士にはあらず。そう自分に言い聞かせ、苦渋の選択。  時三郎が光秀を支え、茂朝が、近くの小枝に雨除けを施した提灯を掛け、光秀を照らすと、茂朝は一気に刀を光秀の首目掛けて振り下ろした。  ビシュ、ゴトン。  見る見る、ぬかるみが深紅に染まる。  茂朝は、振り下ろした剣先から目を背け、俯き、放心状態に。  このままでは、悲願の自害、土民に討たれた、いずれにせよ光秀様の名を汚すことになる。  首級さへ見つからなければ何らかの手立てはある。  その思いが強く湧き上がった。それは、時三郎も同じだった。  万が一を考え、首級の判別ができないように大きな岩を探し出し、光秀の顔目掛けて、エイッ。  「うぁぁぁっ」  心を鎮めるように手を合わせ、大きく息を吐くと光秀の首級を布に包み土を掛け、投げつけた岩をその上に載せた。  奇しくもそれは首塚のように見えた。  血は降りしきる雨に流され、岩は灰色に輝いていた。  その首塚の神々しさに再び手を合わせる茂朝と時三郎。  見上げる空は、漆黒。  雨は、二人の行為を愚かなことよ、と叱りつけるように激しく、顔を叩きつけてきた。  時は、天正十年六月十三日、深夜の事。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。  一方、命さながら、逃げ帰った落ち武者狩りの輩たち。  住処に戻ると恐怖を拭い払うように、酒を浴びるわ浴びるわ。  その騒がしさに不穏なものを感じた村の長老・小島三左衛門が訪ねてきた。  酒の勢いもあり三左衛門は、中村長兵衛たちの武勇伝をしこたま聞かされる嵌めに。いつものことだと受け流すも単なる武勇伝だけでなく、馬上の武士を一刺しした話も混じる。これはあながし嘘ではないのでは…と。それを確信させたのは彼らの寝言だった。  恐怖にわめき、おののく、彼らの逃げ惑う光景が、目に浮かぶ。  長老の三左衛門は、ただならぬ不安を感じ、夜が明けるのを待った。  彼らの話が本当なら、単なる落ち武者狩りでは済まされまい。  村にも災いが及ぶやも知れん。その心配が、体を突き動かした。  長老は、村人から信頼の置ける者を数人伴い、彼らが襲ったという場所に。雨は上がり、一番鶏が鳴く頃だった。  半刻程掛け、その場所に辿り着いて辺りを見渡した。  「三左衛門さん」  村人の一人が指差す先には、三人の亡骸。  しかし、その惨状は、長兵衛が語っていた内容と掛け離れていた。  「これは、どう言うことだ」  長兵衛は、光秀の脇腹を刺して逃げたと言う。にも関わらずそこにあったのは、切腹した二人の亡骸と、首なしの亡骸。  「あいつら、嘘をつきき上がったなぁ」  辺りを見渡してまたびっくり。首なしの亡骸の豪華な鎧には、明智光秀の家紋である桔梗が雨に洗われ、鮮やかに浮き上がるように目に飛び込んできた。  三左衛門たちは、何か他にはないかと近くを探した。足跡があった。  それを頼りに辺り探ると、不自然な土の膨らみが。  まさかまさかと思いつつ、そこを掘り返す。  「わぁーーー、こ・これは…」  それは、土と血が滲んだ布に包まれた何か、だった。  もしやもしやと布を剥がしてみて、またびっくり。  現れたのは、顔の判別不可能な首級。  近隣にある武家の家紋なら分かる。それが首級となると…。  その首級が壊されていなくても侍との接点がない。  況してや高級武士など三左衛門たちには無縁の存在。  当然、明智光秀であると判断出来るはずもなかった。  三左衛門は、その処理について途方にくれ、腰から力がスーッと抜け落ち、その場に座り込んでしまった。  その時、遠くから、ド・ド・ド・ドォーと幾多の足音が近づいてきた。  身の危険を感じながらも、三左衛門は腰が抜けて、動けない。  足音の正体は、明智光秀の一行の有志だった。  彼らは、深夜の山道の出来事に不信感を抱いていた。  夜が明け、雨も上がった。にも関わらず先頭を行く者が、蓑を取らないで俯いていた。それを不審に思った者が様子を伺った。  怪しすぎる、声を掛けてみた。  しかし、返事がない。  よく見れば、身なり、体格も違う。  「御免」  無礼承知で、蓑を剥ぎ取った。  足軽が、怯えたように佇んでいた。  足軽から事情を聞いた武士たちは、半狂乱に。  幾人かが、不審な出来事が起こった場所へと向かった。  その武士たちと三左衛門が出くわしたのです。  「そなたら、何をしておる」  駆けつけた武士たちは、三左衛門の手元を見て、びっくり。  土と血に塗れた首級。首のない胴体と二人の亡骸。  斎藤利三は、愕然とし、その場に崩れ落ち、拳を膝に当てつけた。  利三は分けあって光秀の護衛に遅れていた。  追いついた時には、家臣が光秀の身代わりを暴いて騒いでいた最中だった。  斎藤利三(さいとう としみつ)は後の春日局の父であり、明智家の重臣だった。  「茂朝殿、時三郎殿」  悲哀の声とは裏腹に、顔は見る見る般若のように怒りを帯び始めた。その矛先は小島三右衛門らに向けられた。  「きさまら、そこに直れ、叩き斬ってやるわ」 と利三は刀を抜いた。  これには三右衛門らは座ったまま後ろへと仰け反った。そらそうでしょう。長兵衛らの話に危うさを感じてやってきたのにその危うさがいま、自分たちに向けられている、これは堪ったもんじゃありません。  直様、三右衛門は仰け反った姿勢を立て直し「お・お・お待ちくだされ、お侍様」と、ありったけの声を振り絞り、手を合わせて懇願した。  興奮していたとは言え利三は、単なる命乞いではないただならぬものを感じ、ふと我を取り戻すと振りかざした刀を上段で留めた。  利三の動きが止まるやいなや間髪を容れずに三左衛門は、必死な形相で語り始めた。事の次第を把握した利三は気持ちを抑え、殿の仇を討つことに怒りの矛先を変えた。  利三ら数名は、三左衛門の案内で輩たちの住処へと急いだ。小屋の中の様子を窺うと七~八人のやさぐれた男たちが、就寝中だった。  利三にひとつの疑問が浮かんだ。このような者に殿が討たれたのか?そんな馬鹿な…。ここは確かめることに致すか。  そこで利三は、長老の三左衛門に、酒と旅人の着衣を用意させ着替え終えると酒を携えてトントンと小屋の扉を叩いた。  「お邪魔しますぜ」  (あに)入ってきたのは、旅人の姿に扮した斎藤利三だった。  「なんでぇ、てめぇは…。こちとら、いい気持ちで寝てるんだ、さっさと出て行かねぇーと痛い目に遭うぜ」  「それは済まなかったなぁ、いやねぇ、三左衛門さんの所を尋ねたら、(あに)さん達が、ど偉いことをなさったって聞きやしたんでね。こりゃ、旅の土産話にしない手はないと思い、ほれ、これでも、飲んで貰って、武勇伝を聞かせて貰おうと、馳せ参じやした」  利三は必死で怒りを抑え、満面の笑みを作り、持参した酒を長兵衛たちの前に見せびらかすように左右に振った。空腹の魚が、釣り人の投げ入れた餌に食いつくように長兵衛たちは直様、怪訝な顔から歓迎に満ちた顔へと変貌した。  「長老から聞いてきたのか…まぁそれなら、断れねぇなまぁ、座りな」  三左衛門の紹介と聞き、長兵衛たちは気を許し、利三が差し出した酒を奪い取り、各々が茶碗に注ぎ込み、一杯、二杯と飲み干した。酒が進むにつれ、気分が大きくなり、舌も滑らかになり事の次第を自慢げに話し始めた。  利三は煮え滾る思いを大声で相槌を打つことで発散しつつ、必死の思いで笑顔を作り、聞き入っていた。  「…そこでだ、藪陰に隠れ、馬上の侍が目の前に差し掛かった時、えいやって、槍をぶち込んでやったのよ。それがよ~、見事に奴の右脇腹にぶしゅっと。そしたら、馬から落ちやがってよ、それに気づいた近くの侍たちが刀を抜いて、襲いかかってくるわ、鉄砲に狙われるわ。これはやべぇって、命さながら、逃げ帰って来たわけよ」  続けて、長兵衛の仲間が話に加わってきた。  「でも、惜しかったよなあの鎧、豪華だったのに惜しいことをしたぜ」  それを聞いて、利三は我慢の限界を超えた。  「そうですかい、殿をおやりになったのは、おめぇさんたちですかぇ」  「そうだとも…俺様たちよ、なっ」  「そうよ、俺様たちじゃ、あはははは」  利三にとって、そのひと言だけで良かった。それは、小屋を取り囲み、聞き耳を立てていた配下の者も同じだった。  「者共、我が殿の仇討は、この者たちに相違ない、かかれー」  利三の鬼声に配下たちは、待ってましたと木戸を蹴破り、怒涛の如く小屋に流れ込み、それはそれは、あっという間に、落ち武者狩りたちを成敗した。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。  《おっと、お待ちくだされ、何か変じゃぁ御座いやせんか。そもそも、斎藤利三は遅れて合流したのか?意気消沈の利三が三右衛門たちと出くわした際、常軌を逸していたはず。ならば問答無用でバサリ、と一刀両断したはず。なのに思い留まった。  更には、確認と称して刀狩りをした者のあじとへと乗り込み、機嫌まで取って詳細を聞くなど、興奮状態なのか冷静なのか。何やら、利三の行動には合点が行かないのは私だけでしょうかねぇ。何やら裏がありそうで。まぁ、それは先を見れば分かってきましょう。  さて、利三は、刀狩りの輩を成敗した後、三左衛門に村人数人と荷車を三台用意させ、光秀と思われる亡骸の元へと急ぎ、戻った。  亡骸をそれぞれ荷台に載せて改めて、利三は思ったそうな。不本意にも土民ごときに討たれた光秀の無念。亡骸の置かれた状況から、光秀と護衛のやり取りが利三には、手に取るように分かったそうな。  自害を手助けし、介錯した護衛の者の気持ち。首級が見つかっても、秀光と分からぬように、顔の皮を剥いだ時の気持ち。さぞかし、無念だったろう、そう思うと五臓六腑が抉られるような苦渋に胸を焦がしていたのに違いやせん。  それは、亡骸を荷車に載せさせる際、利三が膝を付き頭を垂れ、突いた両手で土を地面から剥ぎ取るが如く握り締めていた様が物語っております。  さて、作業が一通り終えた後、利三は魂が抜かれたような悲しい面持ちで三左衛門に「手間を掛けさせたな、これを」と懐にあった金数の全てを渡した。三左衛門は「勿体無い」とそれを拒み、受け取る受け取らないの押し問答は埒が明かず。そこで利三は「そうか」と身を引いた。   作業が終えた後、村人の一人を呼び止め「これ、三左衛門の忘れ物だ、村に帰ってから渡すが良い。良いか村に帰ってからだぞ」と念を押して、金数を託した。村に帰った三左衛門は、村人から手渡された金数を握り締め、利三の配慮に感謝し、亡骸を運んでいるであろう方向に手を合わせておりました。その思いが届いたのでしょうか、利三はあることを決意したそうです。  斎藤利三は、光秀の死を如何に隠蔽できるかを思案していた。このままでは土民に葬られた情けない武将として後世に残る、それだけは避けたかった。  そこで利三は、光秀の明確な死を闇に葬ることで、真相追求を逃れようと考えた。亡骸が光秀と断定できなければ、織田側に都合のいい筋書きが用意されるはず。その際、土民に葬られた武将に信長が討たれたではねぇ。そりゃ、織田側の面目が立ちやせん。それなりに名の通った武将が表に出てくるはず。後見者争いの決め手にもなりますでしょうから…そう、利三は考えたのでは。  そこで利三は、溝尾茂朝と小暮時三郎の気持ちを受け継ぐことが最善策と考え、運搬の一行を止めさせ、溝尾殿、小暮殿の気持ちを代弁するかの如く一行に訴えたのでは。一同の気持ちも同じだったはず。  確信を得た利三は、溝尾、小暮の首も撥ね、その首級の顔の皮を剥ぎ、筵に土と一緒に入れ、腐敗を進める細工を施した。兎にも角にも、光秀が亡くなった事は事実としても、それが間違いなく本人であると認めさせたくない気持ちが、滲み出ておりましたなぁ。利三の行動は、面通しを潜り抜ける事、それが一番の目的に思えてくるから不思議で御座います》  三首塔宜しく、三つの首を担いですたこらさっさ。生首、生首、一掛け、二掛け、三掛けて、仕掛けて如何なされるお侍さん。嘘、嘘、嘘も日々つき続ければ真実に見えてくる。それじゃ、真実なんて作ればいい、都合のいいように。虚像、偽造、それ、捏造。悪い奴らは必死なんです。それに引き換え善人面ときちゃ~、無気力、無関心、無責任。それで、いいんじゃありませんか、皆さん、忙しそうですから。ほらほら、今日も真実とやらが作られていまっせ。懲りもせずに、ご愁傷様。  斎藤利三は、比叡山延暦寺の門前町、坂本寺に着いた。  明智光秀、溝尾茂朝、小暮時三郎の生首を持参して。坂本の詰所で首実検。責任者である篠原は、困惑一色、腐敗、酷くて分かりません。困った困った困ったもんだ。  「利三殿にお聞きしたい。何故、首が三つあり申すのか」  「殿は山崎の戦いで深傷を負い、自らの命を絶たれた。その際、主君の(めい)により介錯をなされたのが溝尾殿と小暮殿でした。おふたりは忠義を貫き通され、切腹なされた。哀れに思った私どもは、せめて殿と同じく葬ろうとこのようなことに」  「首級の傷みが激しく思われるが、如何に」  「一旦は土に埋め生死を隠蔽しようと思いましたが、殿が夢枕に現れこうおっしゃった。この首級を織田家に差し出すが良い。明智光秀は死んだ。願わくば、明智に関わった者への穏便な配慮がなされるように、と。命乞いではありませぬ。殿は無益な殺生を嫌うお方で御座います。その意を汲み取り、恥を忍んでこの場に参った次第で御座います。とは言え、悩みは致しました。憔悴仕切っていた私どもは、不覚にも幾度となく、悪路に足を取られ、このような有様に…」 「あい、相分かった。まぁ、よいは。光秀の首級があることには変わりない。山崎の戦で深傷を負われたとのこと。ならば、秀吉殿の手柄である。山岸殿、この旨、早馬にて秀吉殿に伝えられよ。今後の処置についてもな」  詰所の責任者、篠原は、正義感に溢れる男。とは言え、ややこしい事に巻き込まれるのは好まぬ男でもあった。あちらもこちらも立つなら真実などどうでもいい、それが世の中。の常と言うもの。誰にも災いが及ばない。それが篠原の正義感だった。  篠原の(めい)を受けた山岸は直様、秀吉の元を訪れ事の次第を解き、処置の支持を受けた。秀吉にすれば終わったこと。自分の手柄なら、それでいい。五月蝿き者が何と云おうとも第三者の詰所の者がそう言うなら、それが事実。案ずるはその後のこと。文句たらたら出ぬように、首実検だけはしっかりと。光秀であると断定するのは、明智側の者。それなら文句も出まい。  確定すれば持参した者に返し、葬らせればいい。秀吉にとっては首級などに興味がない。あるのはその後の展開。邪魔だてさせぬように、明智の血を引く者は裁断定まるまで幽閉、その他の者は所払いでお咎めなし。と伝えて幕引きに急ぐ。呆気にとられて山岸は、真実よりも大義名分、成り立てば良い。のかと思うのです。  「やはり、そうでしたか」  「と、申されますと」  「首謀者の首級が手元にある。その首級を明智側の者に確認させる。それで大義の面目は立ちましょう。秀吉殿の関心は、主君の仇を討った、その名誉だけ。他には関心はあるまい。あるとすれば信長様の意を引き継ぐ手立てでありましょう。それが秀吉と言うお人ですよ」  首級の判別はつかず、結局、甲冑が決め手となった。  斎藤利三は、光秀の首級を首塚として葬った。溝尾、小暮の首級も傍に手厚く葬った。  忖度任せの一件落着。真実、事実、どうでもいい。大義名分立てば、それでいい。  《あっしは思うんですよ。そもそも、明智光秀は何故、謀反を起こしたのでしょうかねぇ?信長の亡骸はどこへ行った?茶会に参加するはずだった家康の行方は?それに、秀吉が戻ってくるのが早が過ぎる。更に訃報を聞いたのに会談重視。何を捨て置いても駆けつけるのが常套。そうはしなかった秀吉。  そもそも手薄な茶会は何故に開かれたのか?勝者の都合で残された文献。隠蔽、改竄、語り草。それじゃ、納得がいかねぇや。ここは、閉ざされた真相の扉をぎゅぎゅっと、こじ開けてみやしょうや。ちょいと時を遡りますか、闇と言うやつに光を照らして。覗いてみると、ほらほら浮かんできやしたで真実ってやつが。それでは、謎解きの歴死奇行始まり、始まり。おっと、見えてきやしたで…。おやおや、町明かりと、人々が沢山…。それでは、蠢く鴉たちをとくと見て参りやしょうか》    ここは、近江の門前町。坂本や下坂本に、(たむろ)する輩たち。身なりは僧侶、中身は…、こりゃ、いけやせんや。鳥や魚、はたまた女を漁る。私利私欲に群がるけしからん奴ら。遊ぶ金に困れば、糧米、灯油の横流し。法儀料、お布施もくすめる。盗っ人猛々しいとはよく言ったものでごぜいやす。  権威を笠に賄賂の要求。高利で金貸し、甘露を堪能。脅し、たかりは当たり前。言うこと聞かぬ者は締め上げて、ありとあらゆる、悪行三昧。これでは、お天道様は許しやせん。  それを知って、眉間に皺寄せ、腸煮えくり返る信長。その信長はと言いますと、信仰に関心なし。時の権力者に擦り寄るイエズス会の宣教師ルイス・フロイスにも関心なし。あるのは異国の知識、物ばかり。  利用出来れば、それでいい。街道狙いの信長。重要、多用、それ、聖地。  佛への信仰、冒涜すれば、朝廷への印象、悪くする。これは、厄介、この上ない。そこに現れた僧兵たち。蔓延る悪行は、信長の思う壷。大義名分、手に入れて、高笑い。  僧兵たちの悪行、次々に調べ上げ、纏わる者も洗い出す。調べた結果は、見るも無残に荒廃し、乱れた町を炙り出す。僧兵と繋がり、甘い汁を啜る者、旅人を喰い物にする者、僧侶にあるまじき子を設け、その子が不良と化して、群れをなし、秩序など通るはずもない。これには信長も呆れ果てた。  「この町は、腐りきっておるわ。このままでは、佛の道を後ろ盾に、民衆を隷属する。更に朝廷への賄賂による支配が、まかり通るは必定。捨て置けば、腐敗政治が天下を席巻するのは明白なり」 と、信長は激高し、現状を強く危惧していた。権力争いで険悪な関係にあった将軍・足利義昭と織田信長。  義昭は、越前の朝倉、北近江の浅井に手を回し、石山本願寺と気脈を通じる。それに、比叡山延暦寺も乗っかった。  岐阜から京都へ向かう時の大きな合流点、それが延暦寺のある坂本付近。  諸国大名黙らせて、朝廷、牛耳る夢を見る。それには、京都への進行のために街道を奪うだけ。それを守るは僧兵たち。権威を嵩に某邪気無人。僧侶にあるまじき行いばかり。比叡山は仏様の聖地、嫌々、腐敗の巣窟と化していた。  比叡山は、院生・堂衆・学生・公人で成り立つの四階層。  腐敗の中心、最下層。それは、僧兵(公人)、糞坊主。仏の信仰には逆らえず、それを分かって、横暴極まりなし。抵抗出来ないのをいいことに、山領の年貢の督促に容赦なし。有事になれば、黒衣を纏い、白い布を頭に巻き、武器を手に手に、日吉大社の神輿を担ぎ出す。  都大路を練り歩き、挙句の果てには、要求、通るまで嫌がらせ。神仏への恐れや尊い心は何処にいったのか。  比叡山領の横領に端をなし、信長と比叡山が対立関係に。天台座主が朝廷に泣きついて寺領回復を図ったはいいが、信長、それに従わず、水の泡。  元亀元年(1570)6月28日、姉川の戦いで信長は、朝倉義景を討伐。辛うじて生き延びた義景は、直様、浅井長政と同盟結び信長に牙を剥く。  8月26日、野田城・福島城の戦いで信長、背後を取られて大苦戦。何とか形勢、逆転し、敵をエイヤエイヤで後退させる。追い込まれた浅井長政・朝倉義景連合は堪ったもんじゃない。  比叡山に立てこもり、攻防を繰り広げるも形勢は悪化の一途、この場を何とか凌ごうと朝廷に助けを求めます。何とか、正親町天皇の調停により、信長との和睦へ漕ぎ着ける。一筋縄で行かぬ戦。和睦を持ちかけておいて信長を安心させ、その裏で浅井長政・朝倉義景は、自らの連合に加え、甲賀の六角義賢、摂津・河内の三好三人衆と合流し、京都奪還を企てた。  表で和睦、裏では反撃。何を信じて良いのやら。  石山本願寺を率いる僧・本願寺顕如(本名:大谷光佐)は、あろうことか信長のお膝元、尾張の門徒衆に号令を発し、信長打倒を狙っていた。それを知った信長は怒り心頭。これは黙っておられぬと正月早々、賀礼に訪れた細川藤孝らに向かって、顕如を名指しして、この野郎、と言わんばかりに「浅井、朝倉ども、いい気になりよって。あ奴ら、もう、許さん。我慢も尽きたは。今年こそ、山門を滅ぼしてやる」と息巻いた。  年明け二日には、横山城の城主・木下秀吉に命じて、大坂から越前に通じる海路、陸路を封鎖させ、石山本願寺と浅井・朝倉連合軍、六角義賢との連絡を遮断させた。信長の怒りは、最高潮に。  「不審な者は、ひとり残らず始末しろ」  巻き返しを狙う浅井軍は、信長の怒りを警戒しつつ援軍を模索していた。  五月になると一向一揆と組んで姉川に進行、堀秀村を攻め立てる。そこに現れたのが、木下秀吉軍。密かに動いたつもりがばれていて、敢え無く敗退。秀吉は信長様に逆らうとはいい度胸と言わんばかりに、参加した長島一向一揆の村を反逆の狼煙と、焼き放つ。  「よくぞやった猿」信長はこれをきっかけに全軍に攻撃の命を出す。「絵巻、一字も残さず、雲霞の如く、焼き払え~」と。  山門の人々、老若男女、右往左往。  生臭坊主は、「金を払うから許してくれ~」と命乞い。  その裏では「我らに逆らうは、仏罰が下る」と息巻いて僧兵たちは、浅井家・朝倉家に協力し、延暦寺を拠点に民衆、脅して至福を得る悪行三昧。  これを知った信長は「この期に及んで何をしておる。自分たちの置かれている立場が分からぬのか。ならば、身を持って分からせてやるわ」と激怒り。「遺恨一切残さず、哀れ、これ一切、無用なり」と、お触れを出す。  信長の強い意思は家臣に浸透し、腐りきった山門一味として、僧俗、智者、児童、上人を問わず、片っ端に首を切っていった。この時、木下秀吉は、人を見て見逃す事も屡々(しばしば)。  逃げ惑う者たちは、日吉大社の奥宮の八王子山に立て篭る。それを見て、袋の鼠よ、と容赦なく、焼き払った。葬った数、千五百~四千人。  この時、木下秀吉は、人を見て見逃す事も屡々(しばしば)。一方、明智光秀は信長の命に忠実に容赦なく僧侶たちを成敗。    《ほんまかいな、と疑いたくなる比叡山焼き討ち》  《真実は、ド派手な嘘が好き。  そもそも、根本中堂は自焼、山王二十一社などは、既に衰退していた。死骸も焼けた木片も見つからない。比叡山が、火の海と化したのなら、京都や琵琶湖周辺から赤々と立ち上る火柱や煙が確認できたはず。街灯などない時代、山頂付近での火事が見えないはずがない。  比叡山焼き討ちだって?信長に汚名を浴びせるためのフェイクニュース。目撃者のいない真実の裏側には、得てして不合理が潜んでいるものです。面白いことに人は無条件で飛びつく。気を付けなはれや。自分に火の粉が掛からないのならって、お尻りに燻っている、それ?何でしゃろ。  さて、分かっていることもありまっせ。見た目は善人、皮を剥げば悪人。天皇を凌ぐ権力を振りかざし、傍若無人の振る舞い。  仏法を説くことを忘れ、金、色事、欲にうつつを抜かす教団。思い知れと、天に代わって鉄槌を下した信長。信仰に熱き古え人。誰もが仏を恐れ、手を出せなかった。そんな宗教の束縛からこの日本を目覚めさせたのが信長だったのかも知れませんなぁ》  信長は、戦いの処理を光秀に任せた。延暦寺や日吉大社は消滅。  寺領、社領は、明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀に配分された。焼き討ち直前に光秀は、地元国人、和田秀純などを取り組み、織田軍の湖東進路を確保するなど、懐柔工作に手腕を発揮する。  信長に功績を認められた光秀は、近江国滋賀郡の領地として約50,000石を与えられ、ここに坂本城を築城した。  仏法の禁に綻びがあった比叡山。生臭坊主によって女人禁制は、破られた。  南無阿弥陀仏。坊主が仏に叱られた結末でした。  時同じくして、武田信玄の病死により後ろ盾をなくした足利義満が京都を追われ室町幕府は、呆気なく終焉を迎える。同時に義満と言う後ろ盾を失くした天皇は、次の後ろ盾として白羽の矢を立てのが織田信長。最大の権力を得た信長は、独裁的な強欲さを露呈し始めるので御座います。  信長は、中国地方の毛利氏、越後の上杉氏を攻め落とす一方、家臣の明智光秀と深い関係にあった長宗我部元親には、戦わずして四国領有を容認することで平定を勝ち取った。のちに、この約束が、本能寺の変、勃発の一端となる。  斎藤利三は、長宗我部元親と親戚関係にあり光秀の信頼する家臣。平定を手に入れた信長は、疑心暗鬼の塊。無傷の元親が気になって気になって。いつ、自分に歯を剥くか…その思いは極限に達し、「ええい、人には任せられぬ、やはり私が」と信長は、四国征伐を決意する。  これに驚いたのは光秀。「お待ちくだされ信長様。それでは、お約束が違うでは御座いませぬか」と申し出るも埒が開かず、光秀は、斎藤利三を仲介役として元親と信長との関係修復に乗り出します。その甲斐あって元親は、信長に歩み寄る書簡を利三に託すも、その願いは叶わなかった。  自分を脅かしそうな勢力を被害妄想宜しく敵対視する思いを抑えきれないでいた。その筆頭にあったのが、松平元康こと後の徳川家康。三河国を束ね、勢い上昇中。元康は幼少時、今川家と織田家を人質として、行ったり来たり。幼少時、14歳位の信長、12歳の秀吉と遊んだ過去があった。  松平元康は、今川義元の一部隊だった。義元が京に向かう途中、桶狭間で信長の急襲に合い戦死。主を失った元康は一旦、岡崎城に帰還し、今川から独立すると寄らば大樹の陰宜しく、清洲で織田信長と清洲同盟を結ぶのです。その頃です、松平元康から徳川家康と改名したのは。  さて、血気盛んな家康は、手柄を挙げんがために信長に敵対する武田信玄に無謀にも挑むが大敗。悔しさと、恥ずかしさと、戒めさを忘れぬようにと無様な格好を絵にした程に。  何が功を制すか分からない。果断に挑んだ戦いは、「あやつ、威勢だけはある、見上げたものだ」と、信長や諸大名の好感を得ることになった。その後も事あるごとに援軍を出すなど、家康は、信長との関係を着実に深めた。  家康にとって信長、秀吉は、目指すべき兄者のような存在。しかし、信長は勢力を付ける家康を脅威に感じ始めていた。信長の疑心の目は家康一点に注がれた。脅威と思っていた長宗我部元親は、平服の態。最早、牙を剥く存在ではなかった。  光秀は、約束を約束と思わない信長に憔悴仕切っていた。光秀には優秀な探偵がいた。探偵とは俗に言う忍者のことである。  探偵は情報の収集や操作を生業とし、武器を持つも戦うものではなく、危険回避のもの。忍法や軽業師のような印象は、大衆演芸や読売による影響が大きい。その探偵から近い内に、家康の暗殺、長宗我部元親に対する四国征伐が実行される報告が上がってきた。  戦に前向きな従順な秀吉。比叡山焼き討ち依頼、無益な戦を好まない光秀。意見の相違は、信頼関係の崩壊。それをまじまじと光秀は感じ取っていた。  「茶会を開くぞ、家康も呼ぶがよい。おお、そうじゃ、警護など必要ない。身軽で来るように、とな」  《真実とは、恥ずかしがり屋さん。少しは、暴露してくれていますが、まだまだ、何やら隠しているようで。人知れず行うことは、美「徳」。裏で行うは、悪「徳」。要領のいい真実は、悪徳を無きものにして、平然と自らの手柄にする。その手柄とやらの外面を少し剥がしてやりやしょう。古文書に左右されないように柔軟に。おっと、生きていればのお「徳」ですよ。それでは、お命、お大事に》  天正10年6月1日、本能寺の変、前日のこと。  堺商人を隠れ蓑に蠢く鴉たち。鴉は不穏な動きを肌で感じ、闇深く動き始めていたのです。茶会は信長と縁のある鴉の頭目でもある堺商人の強い勧めもあり、信長の宿泊先である本能寺で開かれることになった。  堺の鉄砲技術は、鉄砲に興味を持った信長の援助もあり、見よう見まねで独自に作り上げられた物。その鉄砲を売る際も信長の力添えは絶大だった。諸大名への武器販売は好調を期し、一部の堺商人は、巨万の富を築いていた。その闇では財力を背景に金を貸し、弱みも握り諸大名を牛耳るまでになっていた。権力は人を変貌させやす。堺商人の一部の組織を誰言うことなく、死の商人、闇の商人と囁くようになっていた。   その権力は、信長にとって鼻持ちならないまでに育っていた。信長は力を持ち始めた者が現れれば、その権力を奪う。それがいま正に、堺商人たちに襲い掛かろうとしていた。  信長は、家康を誘い出す口実として思い付きで茶会を、と言ったものの、本心は余り乗り気ではなかった。本人ですら、そう上手くいくはずがないと疑心暗鬼になっていたからだ。信長の存在を煙たく思う鴉には千載一遇の機会。鴉の頭目は、信長を釣り上げるための餌を撒いたので御座います。  三大茶器の内、二つを持つ信長にとって、喉から手が出るほど欲しい、残りの一つを、金と闇の繋がりを駆使して用意した。その茶器は博多の茶人、鳥井宗室が保有する物。信長の茶会への期待は、俄然湧き上がる。  京都の公家や高僧たち四十名程を集め、茶会を開催。信長は茶会を利用し、家康毒殺を企てていた。家康は、信長に茶会に呼ばれたことを誇りに思っていた。用心深い家康を見透かしたように信長は、言い放った。  「のう、家康。この天下で私に逆らう者がおると思うか。いるはずもない。誰もいなければ警護など無用の長物よ、そう思わぬか。どうだ、ここは互いに気軽に楽しもうではないか、この茶会をな」  信長様がこの私を信じて下されている。家康は、子供のように喜び、無防備な状態で京都に宿泊した。そんな家康を言葉巧みに、あたかも信長の承諾を得ているかのような趣旨を吹き込み、大坂・堺への遊覧に連れ出したのは、闇の力を得た鴉たちだった。  彼らは、闇の情報網から得た家康暗殺の企てを事前に察知し、家康を信長から引き離した。  《何故?引き離したかって。それは後のお楽しみってことで》  茶会は一見、何事もなく平穏に終わった…かのように思えた。信長は、主催者でもある堺商人から「家康は体調不良で出席できない」と聞かされていた。その知らせを鵜呑みにする信長ではなかった。独自の情報網から家康の堺入りを知り、密かに家康暗殺隊を送り込んでいた。  静かな本能寺の裏で情報戦が行われている頃、信長の命により明智軍は、備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援するように信長に命じられ進軍し、京都・桂川を越えていた。  信長は深夜まで囲碁の名人、本因坊算砂と囲碁を嗜んでいた。亥の刻頃、光秀は、明智秀光・光忠、藤田行政、斎藤利三、溝尾茂朝ら五人の重臣のみに、信長を討つ決意表明をしていた。  「殿、謀反など…お考え直しを」  「利三、もう、決めたことよ」  「上手く行くはずは御座いませぬ」  「上手くいく、いや、必ずいかせてみせる」  「では…では、仮に信長を討てたとして、秀吉らが黙っておりますまい。追手に討たれるのが関の山で御座いまする」  「それでも、やる、やらねばならぬのよ」  「なぜに…」  「このまま暴君信長を許さば、この国の明日は醜い。私に続くが良い」  光秀は最愛の妻、煕子(ひろこ)を亡くした。側室を囲うのが当たり前の時代に正室だけを愛した。残った者に死者の霊が災いを齎すと言う習わしを無視して、僧侶の制止を振り切り、葬儀参列の儀を犯してまで煕子に寄り添った光秀。残した者への気遣いはなくなった。最愛の妻を亡くした光秀に、決断を思い留めさす障害は何もなかった。  明智軍13.000人、馬首が信長のいる本能寺を睨み、東向きに立ち並ぶ。  「皆の者、聞けぇーぃ」  何事かと振り向く兵たち。それを確認すると光秀の右手に握られた軍配団扇は本能寺の方向を勢いよく指した。  「敵は、備中にあらず、本能寺にあり」  「何と敵は本能寺にありだと」、兵たちは一瞬の驚きはあったものの、よくぞ決心なされた、との思いの方が強かった。慕う殿への屈辱は兵たちの屈辱。  「いざ、出陣!」  光秀の号令に続き間髪入れず続く溝尾茂朝。  「今日より、天下様に御成りなされ候」  「おお!」  兵たちの眼は、精気を取り戻した。  光秀のもと一枚岩の結束だった明智軍。光秀の決意に逆らう者などいなかった。いや、兵たちもまかり通らぬことと知りながら、内心それを願っていたのが本心。それほどに光秀に対する信長の態度は、兵たちに理不尽なものに映っていた。  天正10年6月2日、明け方、寅の刻頃。  鉄砲隊を前列に配備し、信長の眠る本能寺を包囲。  戦に先立ち光秀は、家臣に敵味方を見極めるためにこう告げた。  「信長討ち申すとき、火急の信長の衆は、足袋脚絆も仕切りない。完全に足元を見て斬れ」    この指示の的確さは家臣の迷いを払拭させた。  信長は浅い眠りについていた。その束の間の静寂を引き裂いたのは、甲冑の揺らぐ音や幾多の土を踏みしめる足音、馬の嘶きだった。  「何事ぞ…。蘭丸、蘭丸はおらぬか」  「ここに、ここにおりまする」  「これは、謀反か?攻めては誰じゃ」  「敵旗に桔梗の紋が…明智が者と見え候」  信長は、眉をひそめるも一瞬、左口角が上がったように見えた。  《あれれ?信長さんは飛び起きたにも関わらず、これは謀反か?攻めては誰じゃって蘭丸に訪ねている。可笑しくなですかな。何が起きたか分からないというのが本当ですよね。なのに謀反か?攻めては誰…信長さんは襲撃されるのを知っていたのでは?それは、襲撃時に信長の取った行動にも伺える》  信長は直様、女人に逃げるよう指示を出す。襲撃に直面した蘭丸は動揺を隠せないでいた。咄嗟に信長に退去を勧めたが、冷静な信長は兵力、光秀の能力を考え、それは適わぬことだと悟っていた。  光秀は主君を討つ因果な役回りを嘆きながら、意を強く持ち、深く息を吸った。  「撃てー」  バババババーウン。  射撃第一陣が撃ち終えるのと同時に、兵たちは一斉に本能寺に流れ込んだ。それに信長は、弓で立ち向かう。応戦するも、弓が折れ、次なるは薙刀で対抗。その時だった。  パーン、ブシュン。  乾いた銃声と鈍い音が響いた。一発の鉄砲の玉が、信長の左肩を撃ち抜いた。  「信長様、お怪我の程は?」  「大丈夫よ、これしきのこと。それより、蘭丸、早う障子を締めぃ。そして、火を放つのじゃ」  明智軍兵士の記憶に残るのは、腹に刀を当てる信長。それを遮るように立ち上がった炎。炎の狭間から伺えた不適に笑う信長の姿だった。  本能寺は、一機に紅蓮の炎に包まれた。ただ火を放っただけではここまで一機に拡大はしまい。しかし、高揚する現場でそのよなことに思いを馳せる者など誰ひとりもいなかったのは至極当然のことだった。  明智軍は、逃げ出してくる女人たちにまみれて信長が出てくるのではと、注視しながら、見定めていた。  炎が収まったのは、朝方、卯の刻のことでした。  明智軍は、信長の遺体を探した。が、発見に至らなかった。それらしき、遺体すら見つけられないでいた。  信長、光秀の謀反に合う、の情報は早急に、備中高松城にいた羽柴秀吉、大坂・堺にいた徳川家康に伝わった。  備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉は、情報を打ち消すように「信長様、謀反に会うもお命、無事」との情報を流した。この効果は覿面だった。  不安がる諸大名に「もしかしたら」の疑念を抱かせた。これが後の光秀の動きに大きな障害となって襲い掛かるとは、光秀は知る由もなかった。  秀吉は信長横死を隠し、焦る気持ちを抑え、中国地方を治めていた毛利方と講和を取り付けた。    《ここでも可笑しなことが。信長横死を知りつつ講和を取り付ける時間の無駄遣い。一目散に駆け付けるを二の次に。突然の出来事とすれば、悠長に今後の事を考えておられないはず。しかし、秀吉は講和を優先させた。それは信長亡き後のことを考えてのこと。死人よりこれからの自分。それにしても、秀吉の行動は予見があっての行動に見受けられる。準備万端、仕上げを御覧じろ、とも取れる。何やら、歴史の裏側はきな臭さに満ち溢れております》  「火急、殿のもとへ向かうぞ」  秀吉は光秀討ちの為、全軍、京都へ向かわせた。  備中高松城から京都・山城山崎までの約220kmを約10日間で踏破した。  世に言う、中国大返し、備中大返し、と呼ばれる軍団大移動。  一方、徳川家康は、絶大なる権力を持つ信長様が討たれた。その知らせを戦々恐々な思いで受け止めて、狼狽えていた。それもそのはず、大坂・堺を遊覧中のことで、脆弱な小姓衆の供のみの無防備状態。  家康の狼狽は、ある腹心の家臣から茶会の真相を聞かされていたから。信長の刺客が迫ってくる。家康は、錯乱状態の中、自害すら考えていた。それを本多忠勝に説得され翻意した。  家康の信頼のおける側近とは服部半蔵のことだった。半蔵の進言で、伊賀国の険しい山道を超え、加太超えを経て、海路を使い、三河国に辛うじて、辿りついた。これが世に言う、神君伊賀越えで御座います。  大坂・堺商人は、薩摩・種子島などを経由して、オランダと交易していたお陰で、鉄砲伝来をいち早く知ることができた。その製法技術を堺に持ち帰り、高い技術を持っていた堺職人に託した。  職人たちは鉄砲を丁寧に分解し、細部に渡って仕組みを理解すると、見よう見まねで、鉄砲を完成させた。さらに内密に商売へと繋げるため、部品の規格を定め、職人たちには部位のみを作らせ、秘密裏に組み立てることにより、大量生産にも成功した。  金は力なり。  独占的に鉄砲を扱う堺商人たちは鉄砲の取引を盾に、諸大名を手玉に取り始めた。諸大名の弱みも握った堺商人たちは、信長の後ろ盾を誇張し、諸大名を押さえ込んでいく。その勢いは藩政にも口出しする程に及んだ。  藩の特産物の独占販売権や交易商品の押し売りなどが、日常茶飯事となっていた。逆らう者は、闇から闇に葬ることも、珍しくなかった。その中心的謎の人物を諸大名たちは、皮肉を交えて「闇将軍」と呼んでいた。  闇将軍が率いる組織こそが「閻魔会」であり、その蠢く烏の長こそが、越後忠兵衛だった。忠兵衛は、窮地に立たされていた。密偵の報告で信長が、鉄砲製造の権利を狙っているという情報を得たからだ。信長が本気になれば、権力と武力で一機に奪い取られる。逆らえば、比叡山焼き討ちの如く一網打尽、堺は火の海に、と言う情報も得ていた。今日の身方は明日の敵、そんな時代で御座いました。  忠兵衛は、闇の会を緊急召集した。そこは、白い西洋風の館だった。部屋は舶来品で彩られ、黒檀のテーブルが配されていた。その上には白いテーブルクロスが敷かれ、赤ワインが注がれたグラスが、七つ並んでいた。 (忠兵衛)  「本日、集まってもらったのは他でもない。あの信長はんのことだす」 (小次郎)  「聞いております、鉄砲の取得利益を狙っている件ですな」 (忠兵衛)  「そうだす」 (蔵之介)  「私の密偵からも、それは濃厚なことかと」 (佐助)  「わてもそう、報告を受けてますわ。それも、そう遠くないとね」 (忠兵衛)  「やはりな、それぞれの密偵が、色んな見立てから得たものだ、間違はなかろう」 (新右衛門)  「あのお方は、金では動きまへんから、ほんま厄介ですなぁ」 (重信)  「脅しの材料を調べたんですが、あきまへん、どれもこれも使えまへんわ」 (長七郎)  「人質でも取れるか、と調べてみたんですが、我が身大事の人や、効果あらしまへんわ。弱みも見当たりまへん、にっちもさっちもですなぁ」 (重信)  「一層のこと、あの世にでも逝って仕舞まひょか、その方が楽でっせ」  一同は一瞬氷ついたが、冗談として、薄笑いが起きた。 (小次郎)  「忠兵衛殿、何か策でも。で、なければ本日の会は、何事で御座います?」 (忠兵衛)  「察しの通り、策は…ありますぞ」 (佐助)  「策でっか…どないなもんだす」 (忠兵衛)  「そう、焦りなさんな。その策には、色んなものが絡んでおりましてな、ちょいと根回しに手古摺っておりますわ」 (長七郎)  「根回しでっか、何か手伝いまひょか」 (忠兵衛)  「私の策は、可成込み入っておりましてな、綱渡りの危なっかしさも伴いますよって、結果がでましたら報告さして貰いますわ。出来たら、もっと簡単にちょちょちょいと片付けとうおますわ。簡単な方法があったら教えて欲しいもんですわ、あの暴君、信長を黙らせる手立てをね」  一同は無言で、忠兵衛の方を凝視していた。その沈黙が、険しさを物語っていた。忠兵衛は、重い口を開いた。 (忠兵衛)  「気まぐれな信長はんにも、困ったものです。私たちを、困らせるなんて。許せまへんなぁ。そんな悪戯っ子には、ちゃんとお灸を据えないと、いけまへんなぁ」 (佐助)  「まさか、暗殺でっか…」  一同は、冷酷無比、沈着冷静な忠兵衛の発言だけに凍りついた。 (重信)  「本気でっか。そんなことをしてみなはれ、仇討とやらで、厄介な輩に命を狙われまっせ、お~怖」 (小次郎)  「忠兵衛はん。その顔は、本気でんなぁ。それで、どうなさると…」 (忠兵衛)  「茶人の今井崇久と千利休、それとイエズス会の宣教師を取り組みましてね」 (新右衛門)  「ほう、それで、どう、しやはりますのや」 (忠兵衛)  「意外と簡単でしたよ。崇久と利休には利権確保でしょ。宣教師には、キリスト教徒になるのを拒む信長は邪魔でしょうから、この国から消しちゃいましょうかって、囁いただけですけどね。これが、これが思いのほか受け入れられましてね、ちょっと、私も拍子抜けしているんですよ、く・く・く・く」 (蔵之介)  「それで信長を、どうなさるつもりでっか」 (忠兵衛)  「まぁ、それはまたのお楽しみと言うことでご勘弁を。それにしても、異国の面白い品物をあれやこれや、買い与えて、えらい出費ですわ。幾らかは、皆さんにも負担して貰いますよ。上手くいけばね」 (蔵之介)  「それは上手くいけば、安い買い物でおますさかい安生差して貰います」 (忠兵衛)  「信長はんは、子供みたいな御仁やさかい。おもちゃを与えておけば、宜しおす。く・く・く・く」 (重信)  「どうなされましたんや…」  忠兵衛は、思い出し笑いを浮かべていた。 (忠兵衛)  「いやね、こないだ、オランダのおなごが身に付けるパンティとガードルとやらを手土産に持って言ったんですがね…く・く・く・く、それが、甚く気に入られたようで、その場で身に付けられましてね。く・く・く・く、おなごが身に付ける物だと言ったのにですよ。お陰はんで見たくもない変わり者を見せられましたよ。それが、面白うて、面白うて、笑いを堪えるのにひと苦労させられたのを思い出したもんでね」 (小次郎)  「ほんに、信長はんは、変わり者で御座いますなぁ」  一同は、その光景を想い浮かべ、小腹を抱えて笑った。 (忠兵衛)  「それで、よせばいいのに、絵師を呼んで、裾を捲ったみっともない格好を描かせて、満足気にその絵を眺めては、はしゃいで踊るは、歌うはで上機嫌でね、異国に行けば、もっともっと、信長様の知らない物や事柄がありますよって、行かはったら宜しいのにって言ったら、そうかそうか、行ってみたいのうって」 (佐助)  「それで忠兵衛どん、どうなさるつもりで」 (忠兵衛)  「こんなええ機会を逃したら、商売なんか出来まへんがな。行きなはれ、行きなはれって、散々煽ってやりましたわ」 (新右衛門)  「それでそれで」  忠兵衛の話を噺家の語り部のように、一同興味津々期待を込めて聞き入っていた。 (忠兵衛)  「そしたら、本人も満更ではないとういご様子、私には、そう見えましたな。ひと段落して信長はんが縁側に出て、空を見上げてため息をつかれたんですよ。ほう、溜息ですか、悩み事があるなら聞かせて貰いますよってと言ったらどうだす、するとね…」  忠兵衛自身、信長と打合せの場面を思い起こしていた…  「のう、忠兵衛、わしは正直疲れた。信玄がいなくなっても、わしを脅かす者の不安に(さら)される。いつもじゃ。秀吉にせよ、光秀にせよ、家康にせよ。勢力を強める度に、頼もしい家臣というよりは、いつ、わしの首を討ちに来るかという疑いの目で見てしまう。天下取りはすぐそこにある。しかし、その後に何がある、天皇になるか、その先は。逆らう者があれば討つ、それだけではないか、つまらん、実に、つまらん。先が見えているのは。手にするまでは、面白かった。手が届くと分かってからは、つまらんのじゃ、何もかもがな、分かるか、忠兵衛」  目新しい物を充分に愉しんだ信長にとって、その一役を担った商人であり、人間的にも唯一本音を語れる忠兵衛は、信用できる男だった。  「分かりますとも、信長様とは比べられまへんが私も財を築いて、遊びという遊びを金に糸目をつけず、やってきました。ここに来て、遊び尽くしたというか、熱いものが込み上げてきまへん。歳は取りたくありまへんなぁ。信長様はまだ、若おます、やり直しが効きますさかい、宜しおますな」  「やり直すか…それも良いかも知れんな」  「そうなさいまし、幾ら金があっても若さは買えまへんさかいな」  「そう簡単に言うな。もし、わしが…わしのわがままで、居なくなれば、落ち着きかけている世がまた乱れる、多くの者の命が、土の肥やしになるではないか」  「どうでしゃろ、信長様より長く生きた愚か者の意見として聞いて貰えまへんか」  「何だ、遠慮はいらん、言うてみぃ」  「言うたはええが、無礼者はなしですよ、宜しおますか」  「分かった、言うてみぃ」  「ほな、遠慮なく。信長はん、死になはれ」  忠兵衛は、さり気なく信長を親しく呼ぶことによって、対等の位置取りを演出して見せた。それを見過ごせば、話に乗ってくる、引っかかれば次の手立てを考える、その思いで注意深く、信長の出方を見守っていた。  「なんと、わしに死ねと…えぇーい、そこに直れ、叩き切ってやるわ」  忠兵衛は、微動だりせず、信長を睨みつけていた。  「ほら、怒った。まぁまぁ、落ち着きなはれ、まぁまぁ」  「これが、落ち着いておられるか」  「ほな、聞きますが、先の見えたこの世に、信長様のやりたいことを見つけ出す、ほかの術はおありでっか」  「わしが死んでは、やりたいことも何もあるか」  「誰が、ほんまに死んでくれなんて、本人を前に言いますかいな。私は、そんな命知らずやおまへんで。私とて商人の端くれ、そんな命の安売りは勧めまへん」  「本当には死なない…とは、どう言うことか」  「ほれ、それどすがな。信長様がどこかの糞大名に戦で負けた、これは、信長様の功績に大きな傷を付けるし、負けず嫌いのあんさんには、不向きで御座います。かと言って、異国に行けば、行ったで、国外逃亡や仏教徒からは、ほら撥が当たっただの、隠れキリシタンなどと揶揄される。残った織田家の方にも、どんな非難が浴びせられ、窮地に追い込まれるやも知れまへん」  「四面楚歌、八方塞がりではないか」  「そこで、ちょいと天下の大芝居を打ってみてはと」  「天下の大芝居とな」  「そうでおます、勿論、主役は信長様で御座います。明智光秀様、羽柴秀吉様、徳川家康様ら重臣さんたちにも、一泡も、ふた泡も、く・く・く、これは失礼致しました、吹いて頂こうと思うております。それ程、大掛かりにしませんと、面白くおまへん。同じやるなら、大衆演劇のひとつにもなって、世間があっと驚く位のことをしまへんとな。世間が騒げば騒ぐほど、噂や嘘が入り交じり、真相は闇の中に。人の口には、流石に私でも、戸を立てられまへんですがな。それに、出しゃばった奴が、重箱の隅でもほじくり返す、なんてことになったら、折角の大一番も、何処へゆくやら、たまったもんじゃありゃしまへん。しっかり筋書きを用立てますよって。どうだす、天下の大芝居、面白おまへんか」  「して、その天下の大芝居とやらは、どのようなものだ」  「おっ、興味をお持ちくださったか、では、この越後忠兵衛の書き下ろした筋書きをとくとお聞きあれー、トトントントン」  「調子に乗るでない、能書きは良い、早う話せ」  「これは、失礼致しました」  忠兵衛は、図に乗ったことを反省し、深々と頭を畳につけた。  「さぁ、早う、早う、話してみよ、さぁ、早う」  「そう、焦らさないでくだされ、これでも、下準備にどれ程の時と金を使ったか。まぁ、それは、こっちの問題で信長様と関係おまへんけどね…」  忠兵衛は、一瞬、締まった、と思った。信長の承諾なく、下準備を進めていることを悟られたのでは、と思ったからです。忠兵衛の用意した筋書きは、信長の為を思ってと装って他の目的があることを。  「下準備、とは何か」  「嫌ですよ、信長様。芝居を書く時、色々と下調べをしないといけまへんがな。そうせんと、絵に描いた餅に成り兼ねませんがな、そうならないための準備のことですよって」  「おお、そうか」  その場をやり過ごし、ほっとした忠兵衛は、意図的に口調を変えた。  「来る六月一日、本能寺宿泊の折り、そこで茶会を開催致します。その情報は、明智光秀の命を受けて、信長様の側近で黒人の彌助からイエズス会に筒抜けになっております」        (これは忠兵衛の偽り)  「何と光秀と彌助が、イエズス会の密偵とでも言いたいのか」  「それは、どうでしゃろ」  「何故そのように言える。裏切っておる…だと、問答無用じゃ、はっきり言え」  「では、不確かですが、それで宜しければ」  「それでもよい、言うてみぃ」  「では、お言葉に甘えて。残念なことですが事実です。私たちの情報網は、探偵を通じて、寝物語、密談というやつを事細かに収集する能力に長けておりましてね、警護が疎かになる本能寺に、何らかの企てが起こるという情報を得ましてな」  「その情報とは何か」  「それはですね、信じる信じないは、信長様の勝手で御座いますが、それはそれは恐ろしい企てでして」  「まどろっこしい、早う、言え」  忠兵衛は、真実味を持たせるため、重い沈黙を演じてみせた。  「信長様暗殺で御座いますよ」  「誰じゃ、誰がわしを狙っているというのじゃ」  「光秀様で御座います」  「光秀じゃとぉ、何故じゃ」  忠兵衛の唐突な話に信長は、「奴ならやりそうな」と心中に隠して、態と驚きの表情を浮かべていた。  「そうは言われましても、信長様の重臣、光秀様を裏切り者扱いしている時点で、正直、いつ、信長様の怒りを買って斬られるか、そう思うと、体の震えが止まらない、というのが本音で御座います」  「お前が、震えているとな、馬鹿を言うな。自信に満ちた面立ちで、居座っておるではないか」  「地獄を見過ぎたせいか、気持ちが顔にでません、損なことですわ」  「忠兵衛の目を見ればどこまで調べ、自信を持っているか分かるわ」  「流石、信長様で御座います。何もかもお見通しのようで」  「わしとて、裏切り、裏切られは、嫌と言う程、(たしな)めてきたわ。今更、裏切り者が身近にいようと驚きはせぬわ」  《信長が、光秀を小馬鹿にしている噂がある。それは違う。寧ろ、認めていた。その証が「禿げ」と呼ぶことが多々あったことだ。気を許す仲と思うからこそ、そう呼んだ。秀吉への「猿」と同じである。従順な秀吉と比較して、光秀の対処への慎重さが信長の苛立ちを誘発しただけ。  可愛さ余って憎さ百倍とまで行かないまでも、信長の思う光秀像がそこにはなかった苛立ちから光秀への風当たりが強くなっていったのは一理ある。  人は、他人を意のままに動かしたい衝動に駆られることは否めない。それが叶わなかった時、その苛立ちは、その者を責め立てることで緩和されるもの。  信長の苛立ちは、明智一族に及んだのです。朝鮮出兵に明智家の後継者を送り込み一族を絶やす。明智軍が任務を無事処理すればしたで、それは脅威となる。その場合は、現地統治を理由に遠ざけて置けばいい、そう信長は思っていた。光秀にすれば、一族が崩壊させられる危機。  更に光秀の懐刀と言うべき腹心之臣である小納戸(おなんど)役の木俣守勝(きまたもりかつ)は、敵状を探るためだとは言え、信長の宿敵というべき武田家との人脈や諸事関係に深き男。腹心が敵側と通じているとなれば光秀もいつ自分を裏切るか分らぬと、疑念の情は増すばかり。その思いは信長が武田家を滅ぼした後、光秀への風当たりが増したのにも見られる。このままでは、明智一族は信長によって言い掛かりを付けられ窮地に追いやられるやも。光秀の立場になれば、信長への反逆は、至極当然の事だった》  「光秀様は、四国征伐を苦慮されて、長宗我部元親殿との仲介に骨を折られておるそうですな」  「そうだ。元親とは親睦を深め、四国を任せておった。しかし、わしが勢力を強める事により敵も増える。瀬戸内の毛利にいつ攻められるか分からぬ。よって、わしが四国制圧を成し遂げれば、毛利とて手出しはしにくであろう、本気で攻めはせぬ、見せかけの毛利への脅しだ。そう、思うてのことだ」  「そうでしたか、そうなら、そうと、光秀様に何故、そう、おっしゃらないのですか。光秀様から見れば、約束事を自分本位で反故にされたと悩まれて、追い込まれておられた様子」  「そうすれば良かったのか…。疑心暗鬼、下克上など当たり前のこの世の中にどっぷり浸かっておると信じられるのは、己だけになってしまうものだ。それが、態度に出る。相手に苛立つと叩き潰したくなる。これは性分だ。こうして、そなたの話を聞いているのは、そなたが武士でなく、ただの商人でもないからだ。元親の件は、表立っては討伐であっても裏では和睦よ。そうすることで毛利が怖気(おじけ)をなし、動きを抑えられる…。そうか、意思の疎通か…最早、わしには手遅れの手立てかも知れぬな」  「お察し、申し上げます」  《忠兵衛は、信長の四国征伐の言い分を鵜呑みにするはずもなかった。では、なぜ、信長がその場凌ぎの嘘を言ったのか。それは、忠兵衛には直ぐに分かった。謀反を仕掛けらている立場を知り、(いわ)れのない仕掛けだと相手に思わせ、自らの落ち度を緩和して話を聞きたくなる言う思いからだと。暴君とは言え人の子。逃げ場もなく、自らの命が狙われている現実を突きつけられれば、少なからずも自己弁護をしたくなるのは至極当然の事だと悟っていたのです》  信長は遠くを眺め、戦に明け暮れる武士の苦悩を憂いていた。  「信長様、光秀様と元親様に関わる斎藤利三様は勿論、ご存知でしょ。光秀様と利三様も旧知の仲。信長様と利三様の間で光秀様の心労は、計り知れないことでしょう。さらに、光秀様は隠れキリシタン寄りのお方」  「イエズス会か。聖人君子の顔をした狐か狸か…。騙されはせぬわ」  「そろそろ、確信に入りましょうか。信長様の功績を極力傷つけず、信長様の意向を達する術は、そう、明智光秀による謀反に便乗するのが良い手ではないかと」  「そなたの筋書きではないと言うのか。光秀の決意だと」  「左様で御座います。信長様の側近の彌助は、光秀様の密偵であると同時に、私供にとっては、光秀様とイエズス会の動きを知るための密偵でもあるのです。その彌助から光秀様は、イエズス会の信長様暗殺の情報を得たと言うのですよ」  「わしの暗殺だと…イエズス会がか」  「そうで御座います。光秀様は、その確信を得ようと尽力を注がれましたが策士であっても、なにせ、それを手繰り寄せる駒をお持ちでない。時は、確実に迫って来ている。焦られておられましたなぁ。そんな折、イエズス会の情報を得られた。本能寺近くに、大砲を持ち込んだ、とね。私供も得ております。その大砲を本能寺に向け放ち、木っ端微塵に破壊。さらに、証拠隠滅のため、焼き尽くそうとするものです」  「信長様もご存知でしょう。イエズス会とは名ばかりの会。その実態は、宗教を隠れ蓑にした日本の植民地化。彼らの後ろ盾にはヨーロッパのユダヤ金融資本があり、情報集めを目的とした諜報機関を要していることを」  「薄々、感じておった。それゆえに入信を頑なに拒んでおる。秀吉も同様にな。しかし、光秀は違ったか。光秀の欠点は、心優しい故、真実を見誤る所かな。そうか、光秀がのう…、信仰とは領分(わきま)えねば恐ろしいものよな」  「奴らの情報は、わしにとっては、輝かしきもの。利用すべきは、割り切って利用する。上手く付き合えば良いものを」  「おっしゃる通り、利用すべきは、利用する。いらなくなれば、捨てればいい。これが、出来るか、出来ないかで、頭に立てるか否かが決まりますなぁ」  「光秀にはそれが、出来ぬと言うことか…だから、色々思う所があるのか」  「身の程知らずを覚悟の上で言わせて頂ければ、そう言うことになりますなぁ」  「して、わしの後を誰に任せるのだ、いや、そなたに都合の良い後継者は、誰だと思うのか、遠慮は要らぬ、言うてみい」  「お恐れながら、羽柴秀吉様と存じます。その後は、徳川家康殿かと」  「やはりあの二人か。秀吉のう、奴ならやり遂げよう」  「信長様、光秀様謀反のいまひとつの理由が御座います」  「何だ、まだ、あるのか」  「信長様による家康暗殺を光秀様に命じられたでしょう」  「そこまで、知っておったのか…。益々、わしは長らえる事が難しい立場に追いやられていると言うことか…己の蒔いた種とは言え…」  「元親様のように、昨日までは親睦、明日は敵では、心の安息が御座りまへんわ。光秀様の心が折れなさった。そこへ、イエズス会の避けようのない計画、爆破でっしゃろ、もう、思案している間がありまへん。誰かに相談してどうにかなるもんやあらしまへん。壁に耳有り、障子に目あり。その相談事が万が一にでも外に漏れれば、言い逃れできないイエズス会の決行に拍車を掛けるだけでおますさかいな。光秀様の焦りも絶頂に達したんに違いおまへん。信長様の功績を打ち砕くような企みが現実味を帯びてきた。光秀様にとっては一族存続の危機でもありますよって。ならば、悪役になろうとも自らの手で信長様を葬らねば、と考えられたとしても私としては、心中お察し致します、と言う所でしょうか」  「謀反は、わしを思ってのことでもあると、言うのか」  「私には、そう思えます。策士の光秀様にしては、信長様を亡き者にした後のことを何ひとつ、決められておりまへん。根回しに時間がなかった。後は何とかなるだろうなんてそんな不確かなことに期待してはる。まぁ、それ程、追い込まれておましたんでっしゃろ。私から言わせて貰えれば、根回し、実績、人望が光秀様には足りてまへん。それでもやるとなると切迫する事情に焦っておられるとしか思えまへん。このままでは、光秀様は、秀吉様、家康殿からの追手を逃れられない。大義名分と言うお侍さんの定めのもとで。それでも暴挙に出るのは、最早、私には正気の沙汰では叶わぬことと存じます」  「そうか、そんなことが」  「まだ、ありますよ」  「まだ、あるのか」  「まぁ、これは直接、関係ないでしょうが、ご参考までに」  「何じゃ、言うてみぃ」  「正親町(おおぎまち)天皇絡みで」  「正親町天皇…毛利家は、皇室の親戚と同じと言いよった奴か。毛利家や本願寺との和議を薦めた張本人だな、支援してやったのに」  「信長様は天皇になろうとしたお方。正親町天皇を退位させ、若き誠仁親王(さねひとしんのう)を新天皇とすることにより、朝廷への影響力を高めようと画策しておられた。朝廷からすれば、それは、脅威でしょう」  「天皇は飾りに過ぎず、わしの傀儡(かいらい)だったとは思いつつ、厄介な存在だ。特にあ奴は、和をもって尊しとなす、など生温いことを言い寄っておる」  「その正親町天皇と光秀様は関係が浅くないでしゃろ。おふた方は、信長様の暴走を食い止める策を案じておられた。比叡山延暦寺焼き討ちの際、光秀様経由で正親町天皇からの京都・盧山寺は戒律寺院で関係がないので焼かないようにと言う内容の手紙を見せられたでしょう」  「ああ、だから、聞いてやったではないか」  「そうでしたな。光秀様からすれば、朝廷を朝廷と思わない信長様は、今までの武士が守り続けた気概をぶち壊すお人に見えたんでしょうな」  「それがどうした、そんな気概などわしがぶち壊してやるわ」  「それがあきまへんがな。話し合いにならないとなれば、手の打ちようがない。そこへですよ、信長様は光秀様を追い込む真似をなされておます」  「何をしたと言うのじゃ」  「家康殿の接待役を中断させて、秀吉様の援軍を命じられた。これで、光秀様は信長様による家康暗殺を確信された。そこへ使者を送らはったでしょ。『丹波と近江の所領は召し上げる。その代り、出雲・石見の二国を与える』と。出雲・石見は毛利氏の所領でしたよね、それを与えるってのは、自分で奪い取れと言うことでしょ。光秀様の落胆の色が思い知らされますわ」  「それは裏工作ばかりに精を出さず、やれると言うところを見せてみろと言う、謂わば光秀を思っての鞭じゃ」  「そんな鞭は痛いだけで、有り難く受けられませんよ。光秀様は、人の上に立つ者は人の痛みを知る者と。残念ですが、信長様の心情は別として、誰にでも分かる素行を見る限り、光秀様が信長様を見限る引き金になったのではと、私には思えます」  「人の心など知る術など、わしには興味がないわ。目に見える物、この手に掴める物のこそ信ずるに値する…」    信長は、暫し沈黙し、感慨深く、自らの人生を、振り返ってるように思えた。命の炎が、乱雑に揺れ動くのを感じつつ。  《信長の気持ちを代弁するならば、先の先は希望が持てる。先の先とは、天下統一を成し遂げ、朝廷になり、天皇となること。その反面、自分の思いを周囲に浸透させる難しさ。脅威ではなく温和に。忠兵衛にあれやこれやと言われ、腹が立つものの、結果として、比叡山に巣食う生臭坊主たちの行いと自分を重ね合わせていた。奴らも最初は崇高な思いで僧侶になったであろう。権力を得て、周りが卑下ふすと横暴になり、人道極まりなく外道に明け暮れる。自分が天皇になれば、我が儘勝手にこの国を牛耳り、怒りと憎しみを買い、多くの者は不安を伴い、繁栄とは逆の世を築くのではないか、と。ああ、考えるのも面倒だ。もっと自由に思うがままに生き直しても面白いのではないか、いや、面白いに違いない。先を読める人物とは、きっかけさへ掴めば、冷静に思いを整理できるもの。信長がそう思っても何ら不思議なことではなかった》    「して、わしにどうしろと言うのだ」   「今となっては信長暗殺は、避けがたいもの。と言って、多方面から攻められては残念ながら防ぎようが御座いません。ならば、彼らの思いを一点に集中させ、監視するのが一番でおます。そこで茶会をお薦めしていたわけです」  「そう言う意図があったのか…。だから熱心にわしを(そそのか)したのか。それをわしは家康暗殺に使おうとしたわけか…。忠兵衛の(こしら)えた舞台に、わしが勝手に演舞の題材をねじ込んだわけだな」  「唆したって…まぁ、宜しい、そう言うことです」  「そなたと言う男を敵に回せば厄介であると、つくづく思うわ」  「有難い、お言葉です」  「…うん、分かった。わしは俎板の鯉になってやるわ。どのようにでも致せ」  「有り難き幸せ。それでは、信長様にお願いが御座います」  「ふむ、何じゃ」  「当日、光秀様を本能寺から遠ざけて欲しいのです。光秀様のことです、参加者の人数を確認し、全員が本能寺から出られてから、ことに及ぶかと。間違いなく、本能寺に探偵を配備するはずです。探偵は兎も角、軍が居るのではこちらにしても何かと不都合が。近場におられては、裏工作にも手間取りますさかい、そうでもなくても準備に今、少し時間を頂かねばなりませんよって」  「それには心配はいらぬ。備中高松城包囲中の秀吉の救援に向かわせる運びとなっておるゆえ」  「それは存じております。私がお願いしたいのは出立の時刻です。本能寺を出て直様戻ってくることも配慮しなければなりません。軍としての配備を遅らせたいのです。出来るだけ、出立の刻限を遅らせて頂きたいのです」  「では、茶会当日に到そう」  「助かります」  「もし、もし、じゃぞ。光秀が謀反を留まったら如何致す。そうなれば、イエズス会の砲弾の餌食か」  「万が一にも、中断などありまへん。信長様が家康殿を呼び込むために警護を手薄になされた。裏での動きを知らぬとは言え、それは私たちにとっても好都合でした。だからこそ、今回の茶会は、千載一遇の機会。これを逃すはずがおまへん、と私は確信しております」  忠兵衛は、(いささ)か自分に酔い、溜口になったことを改めた。  「憎たらしい程の自信は、どこから来るのかのう」  「たんまり金を使った結果です。金は嘘をつきまへんよって。信じて、大丈夫で御座います」  信長の決心は早かった。天下人が見えた今、正直、その先に刺激のない不安を感じていた。信長にとって、退屈が最も苦悩だった。  信長は思っていた。いずれ、イエズス会によって暗殺されるか…。イエズス会を滅ぼせばいい?そんな単純な問題ではない。イエズス会の影響は光秀しかり諸大名にも及んでいる。飛び道具や薬物の防ぎ方など思い浮かばなかった。信長の選択肢は、忠兵衛の用意した舞台で踊ることしかないと、自らに言い聞かせて、覚悟を決めた。  「家康殿は、信長様の許可を得たということで、私たちの支配下にでも置いておきましょう。まぁ、堺の遊覧と言うことで、宜しいでしょう」  「家康をそなたらの支配下に置く目的は」  「いやね、家康殿とは余り接点がありませんが…。まぁ、お人柄を知る、ということで、ご勘弁願えまへんか」  「それはまずいぞ…、もう手遅れになるやも…。家康暗殺隊は別行動で隠密に動いておるゆえ、居場所が分からぬ。探し出しても、暗殺中止の知らせが間に合うか、どうか…」  「仕方、ありまへんなぁ。それはこちらで何とか致しましょう。間に合わなければ、家康殿の運もそれまでと言うことでしょう。そのような人物は私も不要ですから」  「敵に回すと怖いな、そなた…」  「暴君、信長様にそう、言われるのは本望ですよ、く・く・く・く」  忠兵衛は、強引な商売を通し、修羅場を幾度となく切り抜けていた。  「そなた先程から気になっておるが、光秀様は分かる、何故、家康殿なのか、そこに何か意味があるのか」  「そうでしたか、それは失礼致しました。いやねぇ、次期、天下人は秀吉様でっしゃろ、その後のお人と言うことで、無意識にそう呼んでいたのかと」  「まぁ、よい。何か思惑がありそうじゃが深追いはせぬわ」  「買い被りですよ、嫌ですよ、腹の探り合いは」  「そなたが言うか、それを」  「ご勘弁を。それより、イエズス会には彌助を使って、光秀様による信長暗殺が、確実に進んでおります、こちらの様子を伺うようにね。そこで、下手に動くと、イエズス会のためにならず。誹謗中傷、信長様側につく諸大名を敵に回す、とでも弥助にイエズス会へ流させましょう。奴らとて、代わりに信長暗殺を誰かがやってくれるのなら、それに越したことはないでしょうから」  「それ程に、わしは、厄介者か」  「はい。伊賀者にも恨みを買われているようで」  「伊賀者の残党か」  「はい」  「確かに、愛国神社では危うかったわ」  「支配欲を突き詰めれば、敵が増えるのは仕方ありまへん」  「ふん。それでわしは、呆然と光秀の謀反に付き合えばよいのか」  「まさか、信長様にもちょっとは、演じてもらわなねば。少なくとも、奇襲を受けたことを、光秀軍に確認させねばなりまへんからね」  「どうしろと言うのだ」  「最初、少しは応戦してもらいましょうか、弓とか槍とかで」  「弓と槍でか」  「私が光秀様なら一気に攻めること、自軍に犠牲者を出さないこと、を考えれば、まずは、鉄砲隊を向かわせて次に、鉄砲隊の邪魔にならない程度の先陣を送り込みますな。それに応戦してください。鉄砲の玉には呉呉も気をつけてくださいまし。製造元から言わせてもらえれば、正確に的を射抜くにはまだまだの品物。乱れ撃って、当れば儲け物程度ですから。怖いのは流れ弾で御座います。大勢を迎え撃つには宜しいが一人を狙うとなれば、かなり近づかねばなりません。裏を返せば、距離をとれば当たりにくいと言うことですよ」  「その距離とは」  「それは玉に聞いてくだされ」  「何を言うか」  「敢えて言うなら、塀から縁側程かと」  「何れにせよ、時の運に縋れと言うのか」  「左様で御座います。大丈夫ですよ、運はお持ちになっておりますから」  「他人事のように言い寄って」  「他人事で御座いますよ、私にとってはね、く・く・く・く」  「食えぬ奴だ、そなたは」  「食っても旨くありませんよこんな老いぼれを。それより、決して応戦なされないように。信長様の気性からつい頭に血が上り、本気で応戦されるのではと心配で心配で、蕎麦も喉を通りませんわ」  「そなたが蕎麦だと。蕎麦など食わぬくせに」  「それはそれとして」  「無視か」  「直様、距離を縮めた第二弾の鉄砲隊が迫ってきましょう。その時、襖を目隠しにし、部屋に閉じ篭って頂きます。その後、急ぎ、蘭丸に畳と襖に向けて油を撒かせ、火を放たせてください。それで明智軍は足踏み致しましょう。その間にこちらで用意した床下の穴から逃げて頂きます。出口には、護衛も用意しておきます。あとは、護衛の者の指示に従って避難してくだされ。あっ、そうそう、念の為に力持ちの彌助を待機させておきますよ」  「そなたら、肝心な事を見落としているぞ」  「何で御座いましょう」  「わしの亡骸はどうする。この首がなければ、討ち取ったり、とはならぬぞ、さぁ、如何す」  信長は、押しまくられる忠兵衛に一矢を報いた思いだった。  「ご安心を。身代わりを用意しております。それも、本堂に置いてはそれこそ焼かれて誰か分からない、では困りますさかい、中庭に隠しておいて、明智軍に成りすました手の者に頃合いを見て焼かせます」  「それでは可笑しくないか。本堂で息絶えた者が中庭とは」  「細かいことは言いっこなしですよ。見つかればいいんですよ。それで目的は達せられるのですから。ほら、大義名分が立った、でしたかた?」  「確かに大義は立つ。しかし、怪しまれぬか」  「珍しく細かいですなぁ。まぁ、どうしてもとなれば…、こう言い訳しまひょか」  「して、何と」  「切腹したはいいが熱くて耐えられず、中庭に転げ落ちてきた、と」  「わしの無様(ぶざま)な真似を後世に残すと言うか」  「無様なことではありません。切腹してもご存じの通り、直ぐには死にません。故に介錯をなされるのでしょ。私も幾度か火事場から焼かれながら逃げ出してくるのを見たことがありますさかい、密偵にはそう吹き込んでおきますよ、信長様の愛用品と共にね。これは無様と言うより、人間の生への執念が本人の意思とは関係なしに起こる人体の出来事だとオランダの医師から聞いておりますさかい」  「小憎らしいの、そなた」  「お褒め頂いて、勿体ない」  「ふん、言わせておけば。そうじゃ、奇襲された際に、生き延びられなければ、そのまま、謀反成立と言うことか」  「そうなりますな、そこで、命を落とされば、それまでの人生とお諦めくだされ。しかし、そうはならないのが、信長様でしょう。私はそれに賭けております」  「賭けか。人の命を勝手に弄びよって…。進むも地獄、戻るも地獄。ならば、進んでやるわな」  忠兵衛と信長の企て・懸念に予定外の人物が加わるとはその時、知るはずもなかった。  「それでこそ、信長様。ご了承頂けたということで私は、仕上げの手配に取り掛かります、宜しいですな」  「仕上げとな」  「やらねばならないことは、刻限なき今も色々ありましてな」  「うん、分かった。預けてやるはこの命、そなたに」 …(再び、閻魔会の会合場面に戻る) と、まぁ、こんな具合に話をまとめて参りました。  堺商人の闇の会こと「閻魔会」の参加者は、闇将軍と呼ばれた越後忠兵衛の周到さに舌を巻くと共に恐れを成していた。 (小次郎)  「それで、忠兵衛さん、わしらは何を手伝えばええんかいのう」 (忠兵衛)  「皆さんには、本能寺に関する動きをできるだけ集め、私の筋書きに沿わない案件を悉く潰して頂きたい。呉呉も悟られないようにな」  忠兵衛は、自らを含めた閻魔会七人衆に任務を振り分けていった。 (忠兵衛)  「佐助どんには、服部半蔵はんに繋ぎを取り、家康を三河まで、逃がす段取りを。伊賀の里の方々にも協力の依頼を。家康に恩を売る機会だと、煽ってもらいたい。小次郎はんには、光秀はんの動向を。それと、いざという時に用立てた光秀の影武者は如何致しております」 (小次郎)  「順調に仕上げておりますさかい、心配はいらしまへん。影武者役は、飢饉で苦しむ農家の者で、お決まりの借金地獄、娘を売っても足りず、一家心中寸前の者を見つけ出しましてね、それが背格好が光秀に瓜二つで。借金の肩代わりと家族の勤め口を用意して、本人の了承を得て、みっちり光秀の模写を鍛錬させております」 (忠兵衛)  「それは良かった。では、念押しとなりますが、斎藤利三殿と繋ぎを取り、影武者が見破られないように注意を払ってくだされ。  長七郎はんには後でお願いしたいことがあるゆえ、残って下され。  新右衛門はんには、秀吉はんの動向を。秀吉はんは、斬新な動きを見せるゆえ、人数を多く割いて、対応してくだされ。  蔵之介はんには、万が一を考え、密偵を落ち武者狩りの村に送り、活きのいい奴を探り出し、噂、情報を流し易いように準備しておいてくだされ。  重信はんは、本能寺の堀の確保、脱出後の信長はんの護衛とイエズス会に出向き渡航への段取りと誘導の詰をお願いしたい。私は、各方面への根回し強化を受け持つさかい。それでは、早速、取り掛かって下され」  長七郎を除いて、閻魔会七人衆は、それぞれの役割に疾走した。閻魔会が囲う忍びこと探偵は、金と武将たちの人脈で得た優秀な人材だった。  しかし、その殆どが忍びの里の掟を犯した者、雇い主の依頼に失態し職を失った者だった。行く宛てを失くした者から才能のある者を見出し、再教育を施した。金銭で裏切られないように高額な報酬を与えて。  また閻魔会は、実際には存在が定かでない、女の探偵も育て上げていた。彼女たちは、体を張って寝物語宜しく、男を誑かし情報を集めたり、企て通りに誘導することが主な任務だった。  「閻魔会」への裏切りは、死を意味する厳しい掟の中での従属だった。  「閻魔会」の考え方は、特殊だった。雇われる者、雇う者の壁を排除し、利益は成果を上げた者には惜しみなく与えた。厳しい規則でなく、雇われる者が自ずと雇い主に忠誠を誓うような組織作りに力を注いでいた。  それは、従来の雇用関係で忠兵衛を始め、他の者も裏切りや命を脅かされる危険な目に会ってきた教訓からだった。  「絆」とは縛ることにあらず。敬い、奉仕する気持ちが、自然に生まれてこそ強き「絆」となる、と行き着いた物だった。だからこそ、信頼を裏切る見返りには、容赦のない仕打ちを、裏切り者には下していた。  居残りを命じた長七郎に忠兵衛は、穏やかに話し始めた。 (忠兵衛)  「長七郎はんに頼みたいことは、秀吉が間違いなく光秀を討ちにくる。その光秀を逃がすこと。その後、光秀を落ち武者狩りに掛けまする。光秀他界を確認次第、斎藤利三殿に関わった野盗、を含めた全てを処分して貰います。溝尾茂朝殿と小暮時三郎殿には、影武者の護衛をお願いしておきますわ。複雑な筋書きは、お任せ致します。念を押しておきますが、お武家さんがしくじった時には、その代役をお願いしましたよ。首を撥ね、顔の皮を剥いで、身元が分からない、いや正しくは首実検が出来ないように始末して頂きたい。そう致せば、着衣・鎧などで、身元を確定することになるでしょうから。光秀には生きていても、死んでいても、何かと遺恨を残しますさかい、闇に葬るのが一番。勿論、これは、二人だけの秘密ですよ。もし、ばれれば、いの一番に私は、長七郎はんを疑う。その後は分かりますよね。それ程、重要な役割を長七郎はんに頼むのです、次期、頭目はあんさんに任せたい。それが私の願いです。心して、掛かってくだされ。長七郎はんも密偵も、強者揃いですから適任かと指名したのですから」 (長七郎)  「分かりました。密偵の数も、最悪を考え、揃えましょう」 (忠兵衛)  「お願いしましたよ」 (長七郎)  「では早速、人選に取り掛かり、動きまする」 (忠兵衛)  「宜しく、頼みましたよ」  長七郎が立ち去った後、越後忠兵衛は、誰もいなくなった地下室の蝋燭の炎をぼんやりと見つめ、薄ら笑いを浮かべて吹き消した。  「これで、全ての手配は、終わった。後は、仕上げと参りましょうか」  静まり返った暗室に不気味な忠兵衛の高笑いが響き渡っていた。  天正10年6月1日、本能寺での茶会当日で御座います。史実に残らない世紀の夜、その幕が切って降ろされた。  忠兵衛たちは予定通り、家康をもっともらしい口実を設け、大坂・堺遊覧へと避難させた。その頃、明智軍は山城の国境老の坂峠を越えた後、秀吉を支援するために沓掛(くつかけ)から西国街道に向かっているはずだった。光秀の心は、決まっていた。  「森蘭丸より飛脚あり、信長様には中国出陣の馬揃えをご覧になるとのこと」 と、光秀は、京の都に戻る理由を隊に伝えた。    「利三、総勢は如何程か」  「壱万参千は御座あるべし」     明智軍は、京都・桂川を越えていた。  本来、信長は本能寺で「家康、討つ」の朗報を待っているはずだった。  それが、生死を掛けた大舞台を待つことになったのです。信長は深夜まで、緊張を解すためなのか囲碁の名人、本因坊算砂と囲碁を嗜んでおりました。  一方、光秀は、信長を討つ決意表明を、明智秀光・光忠、藤田行政、斎藤利三、溝尾茂朝ら五人の宿老のみに行っていた。  「目出度き御事」  「明日よりして上様と仰ぎ奉るべく事、案の内に候」  家臣は、覚悟をしていた。日頃の信長との関係を伺い見て、いつかこのような日が訪れることを。  「このまま暴君信長を許さば、この国の明日はない。私に続くが良い」  馬首は、東向きに信長のいる本能寺を睨み、立ち並ぶ。  「皆の者、聞けぇぃ。敵は備中にあらず、本能寺の信長にあり。いざ、出陣じゃ」  「今日より、殿は、天下様に御成りなされ候」  と、光秀の号令に続き、溝尾茂朝が続いた。  「徒立ちの者は新しい足半(あしなか)(かかとのない草履)を履け。鉄砲の者は、火種を1尺五寸に切り、その口に火をつけて五本ずつ火先を逆さまにして下げよ」  それは、臨戦態勢を示唆していた。光秀のもと一枚岩の結束の明智軍。光秀が決意した以上、それに逆らう者はいなかったので御座います。  天正10年6月2日の早朝卯の刻頃、前列に鉄砲隊を配備し、信長の眠る本能寺の包囲を終えた。信長は、周囲の騒動しさ、馬の嘶きに目を覚ました。  ババババーン。  鉄砲の轟く音で、信長は、布団から飛び起きた。  「これは謀反か、如何なるも者の企てか」  「桔梗の紋が。明智の者と見えし候」  「是非に及ばす」  信長の命を受け蘭丸は、焦りつつ、大量の油の用意と脱出用の堀の確認に暇がなかった。  「来たか、一世一代の大芝居、見事に演じきってやるわ」  「信長様、すべての準備は整っております。脱出口は、床下に御座います」  「分かっておる、蘭丸、落ち着け、しくじるでないぞ」  「信長様こそ、ご無事で」  「馬鹿を言え、わしを誰だと思っておる」   蘭丸が初めて、信長に親しく声を掛けた瞬間だった。  「では、幕の開くのを待つとするか」  ここに本能寺の変の幕が切って落とされたので御座います。  信長は段取りよく演じて見せた。乱射される中、鉄砲の一撃が、信長の肩を打ち抜く番狂わせ。予想はしていたものの動揺は広がった。  腰を抜かした欄丸を信長は、平手打ち一発で正気に戻させ、油を撒かせ、火をつけさせた。炎が明智軍の目隠しになったのを見図ったように大男の彌助が現れた。彌助は直様、信長を背負い、狭い脱出口に向かった。蘭丸は必死の思いで、剥がされた床板を戻し、信長と彌助の後を追った。  脱出口の半ばで忠兵衛たちが手配した護衛と合流し、その案内で一気に本能寺から離れた民家の軒下へ。その勝手口を出ると細い路地に荷車が三台、用意されていた。荷車には米俵が幾つか載せられていた。信長、彌助、蘭丸は米俵に見せかけた俵に押し込まれた。余りの手際の良さに信長らは誰ひとり、声も出せないでいた。  荷車に信長一行が載せられるのを待って、中庭に待機していた光秀軍に成りすました密偵たち十数人が動いた。中庭の一角の藪の中に油に浸した卒塔婆を被せ置いていた遺体に火を放った。焼けあがるの待って信長の遺品を置こうとしたその時でした、  バン、バン、バカーン。  密偵たちが信長の身代わりを焼いていた直ぐ側の垣根が打ち破られ、男が侵入してきた。立ち込める煙から姿を現したのは一人の僧侶だった。  密偵たちは動揺を抑え、刀の唾に親指を掛け、僧侶の出方を見守った。  「これは…」  「そなたは誰だ、返答次第では…」  「私は阿弥陀寺の清玉(せいぎょく)と申す者。本能寺が徒ならぬことになっていると駆け付けた次第で御座います、して、これは」  「信長だ、それがどうした」  「何と…」  清玉上人は、最早、手遅れ、との思いから、せめて親しき仲の信長の亡骸を持ち去り供養をしたいとの思いから申し出た。  「信長様とは、縁深きもの。供養もせず何と言うことを…」  清玉上人は、痛む心を抑え、凛とした態度で言い放った。  「火葬は出家の役である。御骨は我に渡して下され」  密偵たちは、ここで押し問答するより、縁のある僧侶に渡し、その場を終息させる判断を取った。  「承知致した。ならば引き渡すのに条件がある」  「何で御座いましょう」  「我らは信長の亡骸を探していた。それを持ち去られたでは我らの身にも危険が及ぶ。そこでだ、切腹した信長の遺体をそなたがここより持ち出したと、供養が終えた後、光秀様にお伝え願えませぬか」  「それは容易い事」  「その際、我らに出会ったことはご内密に願いますぞ」  「承知致した、ではお預かり致しますぞ」  「待たれよ」  清玉上人は、怪訝な顔をして兵を睨みつけた。その兵は、焼けた卒塔婆を丁寧に取り去ると、生焼けの遺体の首を胴体から切り離した。    「何をなされる、死者を冒涜されるか」  「勘違いなされるな。御遺体を持ち去ると言っても、外には明智軍が血眼になって信長の亡骸を探しておる。そこをどうして持ち去れると言うのか。このように致せば、持ち去れるであろう。火急にてそれでお許し下され」  「わ、分かり申した」  「首級以外はどこぞやに隠して置きます。後日、供養して下され。場所は折を見てお知らせ致します。では、我らは立ち去ります。後は、お互い約束を果たすと致しましょう」  「ご配慮と言うべきか…」  「礼に及ばず。我らは会っておりませぬ故」  「承知した」  「それでは、急ぎにてさらばじゃ」  そう言い残すと信長の亡骸を囲んでいた十数人の者は、常人の者ではない素早い身の熟しで立ち去った、信長の愛用品を置くこともなく。  「あれで宜しかったのですか。あれでは信長の亡骸である証拠には…」  「心配は要らぬ。寧ろあれで良かったのよ」  「如何にですか」  「あの僧侶は清玉上人と言って、幼いころから信長と兄弟の様に育った御方。その清玉上人が、これは信長だ、と告げてくれる方が愛用品を置くより確かではないか。それに上人と崇められる者が嘘などつくまい。誰もがそう思うではないか、間違っているか」  「確かに」  「後は、清玉上人が約束を守るか見届けるだけよ」  清玉上人は、信長の首を衣に包めて突き破った垣根から飛び出した。直様、明智軍の兵に見つかるも、「本能寺の僧侶で御座います。仏品を持ち出しております」と言い逃れて、その場を凌ぎ、信長の首級を阿弥陀寺に持ち帰り、供養した。その後、光秀軍に出頭し、事の次第を報告。しつこい詰問に、流石の清玉上人も苛立ち、口を滑らせ、当時会った十数人の兵の話をしてしまった。その話を聞いて光秀の家臣たちは、信長の亡骸を焼いていた者を探したが該当者はついに見つからなかった。  「これでは信長の死の証が…。墓を掘り起こしてでも」  「死者を冒涜してまで調べぬでも良いは。清玉上人がそう言われるならそうであろう。それで良いではないか」  中庭の予想外の出来事などつゆ知らず、荷車は慌てず音も最小限に抑えつつも速く、民家を離れ、路地を縫うように進んでいた。幾程経ったのか、荷車が止まると、三人は米俵から出された。そこには商人の身なりをした男が立っていた。  「窮屈な思いをさせました。お詫び申し上げます。私は名をあかせませぬが忠兵衛の協力者です、ご安心を」  「そなた商人の身なりをしておるが、武士であろう」  「流石に信長様、お分かりですか」  「まぁ、よいわ、俎板の鯉じゃよ儂は」  「潔さ、感服致しまする」  「で、どう致す」  「こちらへどうぞ」  「どこへ…、まぁ、よいわ、どこへでも連れて行くが良いわ」  信長は、傷ついた左肩を庇いながら得体の知れない武家の者に従い、後を着いていった。  信長は驚いた。目に飛び込んできたのは聳え立つ五重の塔だった。  「ここは」  「東福寺で御座います」  「本能寺より、辰巳の方角にあるあれか」  「はい。ではこちらへ」  商人に扮した武士に案内されたのは、東大寺の最上階だった。  「如何ですか、京の都が一望できまする」  「何を呑気な…。まだ、煙が立っておるな」  「はい、火は思った以上に大火となりましたから」  「そうだ、信忠はどうした、無事か」  「ご無事かと。謀反の知らせは直様致しましたから」  「そうか…、無事か」  「…」   商人に扮した侍は平然と嘘をついた。計画当初から、信長の嫡男・信忠への連絡はするものではなかった。信長政権の継続など望まない。助けて生かすより、寧ろ邪魔な存在だったからだ。     信長は、焼け落ちた本能寺を感慨深く眺めていた。その背後に男が現れた。  「お待ちしておりました、先生」  「この者は?」  「蘭学医で御座います」     蘭学医は「失礼を」と申し述べて信長の左肩を顕にした。視察、触診をした後、こう言った。  「運のいいお方だ。弾は見事に貫通しております。手術の必要はありませんな。薬を塗り、傷口を塞げば、宜しいかと。傷口が癒えるまで清潔にして下され。化膿する恐れは消せませぬ故、宜しいな」  「ああ」  蘭学医は、一礼すると次いで手筈通り、蘭丸と彌助の治療に向かった。  「光秀の奴、今頃、わしではない亡骸を目の前にして、勝どきでも挙げておるのかのう」  「それはどうかわかりませぬが、計画にない出来事が起きました」  「何と。では、計画は破綻したのか」  「いいえ、寧ろ、良い方向へと動いたかと」  「何があった」  「清玉上人が現れたようで」  「清玉がか」  「はい。信長様を供養した後、光秀の元に出向き、説明されたようで」  「それで、光秀は信じたのか」  「はい、信心深きお方のようですから」  「だから、奴は詰が甘いのよ。これからも前途多難じゃな」  「確かに」  「それはそうとして、蘭丸、彌助は如何した」  「蘭丸は、軽い火傷を負い、その手当を。彌助は掠り傷程度にて無事で御座います」  「そうか」  信長は、安堵すべきことと自分に言い聞かせ、現実と向き合っていた。  濃紺の空に処々、白きものが混ざり始めていた。本能寺を見つめる信長。その背後に現れたのはイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスだった。  「傷は大丈夫ですか」  「かすり傷だ」  「それは、良かった。ここからは、私たちがご案内致します」  「かたじけない、世話になる」  「この後、陸路を経て堺港に参ります。堺港には、印度へ渡る船を待機させております。信長様には、その船に乗ってもらいます。あなたが望んだ異国の地に行くのです」  「印度か」  「印度と言っても大陸は、繋がっています。お好きな異国を探し、お楽しみくださればいい。通訳としても役立つでしょうから彌助も同行させれば、宜しいでしょう」  「かたじけない」  信長は、感慨深げに、本能寺の方角を見つめていた。  追手やその後の経緯を注意深く見守り、安全を確かめた数日後には、宣教師の案内人に導かれ、信長と彌助、蘭丸は、早籠で大坂・堺港へと向かった。  船に着くと一息入れる暇を惜しんで信長ら三人は、船に乗り込んだ。ドラが慌ただしい港に鳴り響き、船は港を後にした。  暫くして、万が一を考え船底に身を潜めていた三人に船員が近づいてきた。  「もう、いいでしょう、外に出られても」  「そうか」  信長は、二度と戻らないであろう日本をデッキで見つめていた。  「好き勝手に暴れさせてもらったわ、礼を言うぞ。もう少し、付き合えればよかっただろうが、どうも先が見え過ぎたそなたには、もう、胸が高鳴ることはないかと…。我が儘を言って済まんのう、さらばじゃ、達者でなぁ」  友との別れを惜しむように日本の地を目に焼き付けていた。  越後忠兵衛は、探偵から信長を乗せた船が、堺港を出港した知らせを受けた後、閻魔会を召集した。忠兵衛は、晴れ晴れとした面立ちだった。 (忠兵衛)  「皆さんに報告があります。無事、信長を彼方異国に葬り去ることとなりました。この、めでたき日に皆さんと祝杯あを上げたく、お集まり頂きました。グラスをお手に。この日のために取り寄せた珍しいワインで御座います。これで、我らの利権を邪魔する者はいなくなりました。めでたい、めでたい、本当にめでたい。それでは、かんぱーい」  閻魔会の七人衆は、安堵を喜び、美酒に心身共に酔った。 (小次郎)  「忠兵衛どん、信長はどうなりまっしゃろ」 (忠兵衛)  「さぁ、険しい航海で朽ち果てるか、野垂れ死にしようが知ったことではありませぬは。権力を失った男に私は、興味が湧くことなどありませぬでな」  そういって、忠兵衛は、く・く・くと笑ってみせた。 (小次郎)  「ほんに、忠兵衛どんは恐ろしき人よ」 (忠兵衛)  「何をおしゃる、我らを(ないがし)ろにする者が、愚かに御座いますよ。戦いしか知らぬ者はもう、この世には不要の者で御座います。これからは商人が、この国を動かして行くのですよ」 (佐助)  「そうで御座いますな。金は力なり。権力は、金の前に屈する、ですな」 (忠兵衛)  「皆さん、これからが大変で御座いますよ。次に天下人になるのは秀吉でしょう。信長以上に厄介な御仁です。次なるは、我らの手で秀吉の対抗馬を育てなければなりません。今回の大芝居は、すべてそのためですから」 (蔵之介)  「天下人は、信長を討った明智ではなく、秀吉ですか」 (忠兵衛)  「光秀は天下人の器ではない。秀吉の返り討ちに遭うは必定。秀吉には、軍配師・黒田勘兵衛がいます。それに対抗するのは光秀、ただ一人と私は考えます。秀吉を倒すには、策士としての光秀が必要だと。まぁ、実行力には掛けますが知力はある。足りぬ所は我らで補えばよろしかろう、と考え、この芝居を思いついたのですから」 (蔵之介)  「確かに光秀では、頭になるには、毒がなさ過ぎますな」 (長七郎)  「情に脆い者は、情に溺れ、自らを滅ぼす。その典型が光秀よな」 (蔵之介)  「そうで御座いますな。毒気のない奴は、面白味もないですからな」 (忠兵衛)  「さて、皆さんにお頼みしていた件は、順調に遂行されておりますでしょうか」 (新右衛門)  「そうそう、秀吉が、信長討たれるを隠蔽したまま、毛利方と講和を結び、とんでもない速さで、京都を目指しておりまする。この分で行けば、予定が早まると心しておかなけばなりませぬ」 (忠兵衛)  「承知しました。おう、そうじゃったまず礼を。重信はん、ご苦労様でした。信長の件はお見事でした。今後は私の仕事をお手伝いくだされ」 (重信)  「かしこまりました」 (忠兵衛)  「さて、小次郎はん、光秀はその後、如何しております」 (小次郎)  「秀吉の主君仇討に対抗すべく、旧知の細川藤孝と娘・珠の腰入先の細川忠興に援軍を頼んでいる様子で御座います」 (忠兵衛)  「それで、細川は援軍を出すのですか」 (小次郎)  「援軍の件を、お聞きしようと思っておりましたが、先ほどの忠兵衛どんの話を聞いて方向が見え申したゆえ藤孝・忠興には、お灸を据えておきますわ。そこで、忠兵衛どんにお頼みしたい件が御座いましてね。秀吉に細川が、光秀に援軍しないことを約束させますから、細川家断絶回避の特約を取り付けて頂けまへんか」 (忠兵衛)  「何故、そのような」 (小次郎)  「後々、火種を残す因縁とやらを排除したいもので」 (忠兵衛)  「分かりました。ちょっと厄介ですが、武田家、信長がいなくなった今であれば、何とかなるでしょう、貸もありますさかい」 (小次郎)  「お願い致します」 (蔵之介)  「忠兵衛はん、秀吉に貸があるんですか」 (忠兵衛)  「おっと、口が滑りましたな。聞かぬが花とお忘れくだされ」 (蔵之介)  「怖い怖い。まさか信長ばかりか秀吉にも何やら囁かれた様子」 (忠兵衛)   「蔵之介はん。それ以上はご勘弁を。まぁ、秀吉の今後の行動を見ていれば分かりますよって。堪忍しておくれやす」  《閻魔会は、光秀、確保の任務を着実に遂行していく。真実を生かすも殺すもその後、次第。真実はひとつ。そりゃーそうでしょうが、二面性もあるもの。暴かず、知らせず、見つけさせず。誤ちを正すだけでは息苦しい。息ができなきゃ生きられない。真実とは生きるための戒めの様なもので御座います》  天正10年6月2日、本能寺の変の光秀目線で御座います。  信長は正座し、明智軍を見据えていた。恨むでもなく、(さげす)むでもなく。光秀が号令を掛けようと息を飲んだ時、烈火が明智軍を襲った。  紅蓮の炎は、幾つかの火柱と化し荒れ狂い明智軍の進路を拒んだ。ただ火を放ったとは思えない燃え上がりに明智軍は、意表を突かれた。成す術のない明智軍は、光秀の放った言葉に溜飲を下げる。  「この炎の中では、信長は助かるまい。信長の亡骸を確認するため十人程を残し、二条陣屋に向かい、信長の嫡男・信忠を討ち申す」    光秀は呆気なく信忠を討ち、洛中の残敵掃討を終えると、信長の本拠地である安土城に向かった。途中、勢多(せた)城主の山岡景隆・景佐兄弟に身方に付くように要請するが、拒まれる。身方にならぬは敵と同じ。少し頭を冷やすが良い、と言わんばかりに山岡兄弟を孤立化させるため、瀬田の橋を焼き落とした。光秀は苛立っていたと言うより、信長の下で実力主義を勝ち抜いてきた気性がそうさせていた。  この時、安土城留守居役であった山崎片家・近江山本山城主阿閉貞征(あつじさだゆき)父子・近江の国衆・若狭の国衆は、光秀に従い、近江を平定。  美濃では、安藤守就父子が光秀側に就くが、北方を領する稲葉一鉄の反撃に討ち死に。美濃野口城主西尾光教には、加担を拒否され、美濃では勢力を伸ばせずにいた。  6月7日、朝廷の心は定まっていなかった。光秀に使者を送り、緞子の反物などを渡すが、朝廷としては形勢を見ながら一応、光秀にも媚を売っておこうと言う程度の儀礼的なものだった。  6月9日、光秀は、安土城から上洛、都に入った。  秀吉が西国から取って返すとの噂を聞き、光秀は、その前に朝廷を身方に付け、既成事実を作ろうと動いた。そこには、自分が旗揚げすれば、当然駆けつけて来ると思っていた武将たちの反応の鈍さがあったからだ。  天皇と親王に銀子五百枚、京都五山の寺院と大徳寺には百枚ずつ、朝廷との仲を取り持ってくれた吉田神社の宮司、吉田兼見には五十枚を進上。寺院に対しては信長の供養料の名目で金数を渡し、体制づくりに勤しんだ。  姻戚関係にある細川藤孝・忠興父子に、但馬・若狭二ヶ国を与えるから加担するよう求め自筆書状を送るも、返ってた報せは、父子が信長の死を悼んで髪を切った、とやんわりと拒否され、当てにしていた筒井順慶に至っては、自分の居城に籠城される始末。茨木城主中川清秀・高槻城主高山重友に対する工作にも失敗。加勢の見込みが先細りする中、光秀のもとに山陽道を引き返して来た秀吉が、姫路を発して摂津尼崎に迫っているとの知らせが入った。  羽柴秀吉は、思案していた。如何に早く、引き返すかを。秀吉のとった独創的な発想は、用意周到な越後忠兵衛の度肝を抜いた。  徒立ちの者に鎧や武器をその場に捨てさせ身軽にし、駆け抜ける事のみに集中させた。先行隊を幾多の拠点毎に先回りさせ、新しい足半、握り飯、水を用意させた。  京の山崎には、堺泉州の商人、天王寺屋宗及たちも加勢し、武器、装備を新たに買い揃え準備を整えるのにてんやわんやで御座いました。  天王寺屋宗及たちは、武術より算術に重きを置く秀吉を引き立て、自分たちの利益を守ろうと動いていたのです。  閻魔会の忠兵衛たちも表では、天王寺屋宗及たちと行動を共にしていた。しかし、飽く迄も駒の一つとして動く程度で積極的ではなかった。   忠兵衛たちにとっては、秀吉の天下になった暁でも、商売に支障をきたさないための保険的な行動だったのです。  二万の大軍を率いる(いくさ)上手の秀吉に出てこられては…。光秀の焦りは高ぶっていた。  6月11日、光秀は慌てて下鳥羽に出陣し、秀吉軍を迎え討つため、淀城の修築を始めたが、時既に遅し、は否めなかった。援護軍を確かなものにする策もなく、対象者の思いを憶測で動いた光秀は、後手後手に周り、上手の手から水が漏れる状態だった。  6月12日、秀吉軍は、摂津富田に着陣。  池田恒興・中川清秀・高山重友ら摂津衆の武将、堺泉州の天王寺屋宗及ら商人たちも続々と駆け付けていた。  光秀にはもう打つ手がなかった。残すは信長に京を追われた先の将軍足利義昭を担ぎ出すしかなかった。しかし、こともあろうか義昭が身を寄せる毛利氏は、今まさに秀吉と和睦が成立したばかり。一縷の望みも泡と消え去った。  運気は一度、坂を転げ落ち始めると歯止めが効かない、それが世の常。やる事なす事、裏目裏目の儚さに、光秀は落胆の色を隠せないでいた。  6月13日、光秀にとって厳しさを予感させる激しい雨の中での京都・山崎の戦い。巳の刻、信孝と合流した秀吉は、山崎に布陣。  光秀は、御坊塚に本陣を置き、斎藤利三・柴田勝定らを先手とするが、明智軍勢1万6千に対して秀吉軍は4万に膨らみ、多勢に無勢の戦となった。  況してや秀吉軍には、謀反によって殺された主君の遺児・信孝を押し立て、恩顧の家臣が弔い合戦を挑む、と言う心奮い立たせる大義名分がある。これでは、戦うまでもなく勝敗は、明らかな状況でだった。  「隊に疲れが見え始めておる」  「何をおっしゃる我等、光秀公の為ならば死ねまするぞ」  斎藤利三らを筆頭に強い結束で、一進一退の攻防戦を展開していた。しかし、劣勢な状況からは抜け出せないと考えた光秀は、決断を下す。  「撤退じゃ、撤退。隊を立て直そうぞ」  その思いとは裏腹に光秀は、窮地に追い込まれる。  明智軍は総崩れとなり、光秀は近くの勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)に逃げ込んだ。しかし、羽柴勢の追手は確実に光秀の首へと迫っている。  緊迫するこの状況を最も冷静に捉えていたのは、斎藤利三だった。  何とかしなければ殿の命運は尽きる、その思いが利三を支配していた。もう、そこには再起と言う夢物語はなかったので御座います。  これ以上の深入りは、見す見す敗戦を余儀なくすると考えた斎藤利三は、明智光秀と溝尾茂朝、小暮時三郎に密談を持ちかけた。  光秀は、坂本城から安土城へ向かう算段でいた。篭城戦に持ち込み、長期戦になれば、叩き上げの羽柴秀吉と家柄のよい柴田勝家の犬猿関係が勃発し、秀吉は自滅するはず。その時に、上杉家や毛利方の援軍が得られれば、勝機があると考え、再起を願っていた。  その反面、天下制定の暁には、天下人の座を譲ってもいい、そこに光秀の本音が見え隠れしていた。その思いを聞かされた利三の心中で光秀は、砂上の楼閣の主となった。その思いは、大きな落胆となり、利三に圧し掛かった。  その時、数人の黒装束の男たちに囲まれた。光秀と利三は、電光石火で部屋から連れ出された。  光秀は、一人の男に背後を取られ猿轡(さるぐつわ)をされ、二人の男が、兜、鎧などを剥ぎ取るのと同時に、光秀に似せた男に装着。その手際の良さは、まさに職人技そのものだった。  利三と身包みを剥がされた光秀は、頭陀袋に押し込まれ、馬の背に乗せられ、闇が迫る豪雨の中に消え去った。  茂朝と時三郎は、二人の男に抑えられ、座らされていた。その視線の前に天狗などに用いられる能面・癋見(べしみ)を被った如何にも落ち着き払った武士が現れた。 (茂朝)  「そなたら、何者だ。秀吉の手の者か」 (時三郎)  「殿、殿は…。我らを如何致す気か」 (癋見の侍)  「静まれよ、時はありませぬゆえ。明智光秀様、斎藤利三殿は無事で御座います」 (茂朝)  「何を目論んでおる。このようなことをして只で済むと思うか」 (癋見の侍)  「面白い事を。只で済まぬは、そなたらではないか。この勝龍寺城はまもなく秀吉勢に完全に包囲される。そうなれば逃げ場はないぞ。自分の置かれている立場を弁えられよ」  (茂朝・時三郎)  「…」 (癋見の侍)    「我らは光秀様のお命を守るべく参上した者。信じる信じないはそなたらの勝手。信ずれば光秀様は必ずお救い致す。逆らえばそれまでの事よ。時がない、これからの事を一気にお話致す。心して聞かれよ。光秀様の影武者を用意した。そなたらにはその影武者を守って頂きたい。守ることが光秀様を生かす術として」 (茂朝)  「影武者だと…」 (癋見の侍)  「言ったはずですぞ、時がありませぬ。要らぬ詮索はなさらぬように。では、申す。我らの手引きにより、既に影武者率いる光秀一行は坂本城を目指して進行中である。そなたらは、光秀を落ち武者狩りから守って頂きたい。万が一、光秀様が討たれた際、本人か影武者か分らぬようにご尽力頂く。それが叶えば光秀様のお命は我らが責任を持ってお守り致し候」 (時三郎)  「そなたらの言う事を信じろと」 (癋見の侍)  「それ以外の選択肢はありますまい」 (時三郎)   「そのようなこと、信じろと」 (茂朝)  「いや、待たれ、時三郎殿。こ奴らの言う通りだ。仮に殿を亡き者にするのならこのような手の込んだ事をすまい。我ら禽困覆車(きんこふくしゃ)にあるのは実情。時は確かにない。前門の虎後門の狼。ならば、こ奴らに殿の命を預けるのが得策かと」 (時三郎)  「しかし…」 (茂朝)  「決断致されよ、時三郎殿。今は殿の命が大事。それに掛けましょうぞ」 (時三郎)  「くそー、分かった。好きにせい」 (癋見の侍)  「礼を申す。では、我らが馬にて先行する光秀一行までお届け申す。窮屈な思いを致すがご勘弁下され。事の詳細は、更に後に合流なされる斎藤利三殿に聞いて下され。では、急ぎますゆえ、御無礼を致しますがお許しを」  癋見の侍の言うのが終わるのを待たずに、茂朝と時三郎は、手の者に頭陀袋に詰め込まれ、馬の背に荷物の様に乗せられた。茂朝と時三郎を乗せた馬はぬかるんだ山道の先を急いだ。決して乗り心地の良いものではないが、それ以上に悪道を駆け抜ける馬術に癋見の侍の一団が只者ではない、と確信した。  暫くして馬が止まると、丁寧に馬から降ろされた。(ひづめ)の音が遠ざかるのを確認した後、頭陀袋を抜け出すと、視線の前に自軍の一行の後方が見えた。  茂朝と時三郎は、急ぎ一行の先頭を目指した。 (兵)  「うん、これは茂朝殿と時三郎殿ではありませぬか」 (時三郎)  「ああ…」 (兵)  「確か、先頭におられるはずでは?」 (茂朝)  「いや…、そうじゃ、口にした物に当たったのか腹具合が、な」 (兵)  「時三郎殿もですか?」 (時三郎)  「ああ、皆も気をつけなされ」  何とか難を逃れた茂朝と時三郎は急ぎ、先頭を目指した。自分たちに成りすました者が視界に入った時、後方で雄たけびの様な声がした。一同がその声の方向を注視してる時、成りすましていた二人は繁みに消え去り、茂朝と時三郎は間髪を入れずに入れ替わった。 (時三郎)  「奴らは一体、何者なのか」 と、時三郎は茂朝に問うた。  「分からぬが、手際の良さ、巧みな馬術、相当鍛錬した者たち。只者ではないことは間違いなかろう。それに見ろよこの馬上の男を」  「確かに…。暗闇で見る限り殿と瓜二つ」  「考えてみろこの用意周到さ。我らの動きを読み切っておる。それに合わせた下準備。急場凌ぎに在らず」  「確かに影武者の用意とゆえ、勝龍寺城でも秀吉軍より先に我らを見つける侮れさ。…乗り掛かった舟ではあるまいが、殿をお守りするには奴らに乗るのも間違いではないのでは…」  「意見は同じとなったか。しかし、奴ら変な事を言っておったなお」  「ああ、落ち武者狩りから殿を守れと」  「確かに今の我らは、落ち武者狩りの格好の獲物だからな」  「ああ、注して参ろう」  その嫌な予見は、的中する。突如現れた落ち武者狩りに不意打ちされ、影武者である光秀が刺されてしまう。足並みが乱れる明智一行。それを茂朝と時三郎は必至で立て直そうとした。  明智一行は、不安を抱えつつも二人の指示に従った。  時三郎は、特に信頼の置ける家臣を光秀の馬の後ろに配し、人壁を作らせ、茂朝は、光秀の様態を不安げな面持ちで見守っていた。  茂朝も時三郎も光秀が影武者であることを知らされていた。これから起きることを聞かされていた。指示通りに動かなければ光秀の命はないと思え。彼らはそう言った。光秀様の命を縮めるための行動ではない、救うためのもの。指示に従うことこそが光秀様を救うことだと。  今、目前に苦しむのは光秀様ではない、影武者だ。それでも、闇の呪術か錯視なのか、殿が人質に取られた寂しさ・不安の狭間での動揺なのか、その影武者の成りきりようから本物に思えてきていた。  これが本当の光秀様なら明日はない。影武者でよかった。いや、命を掛けて光秀様を守ろうとしているこの影武者は、今の自分にとって光秀様そのもの。そう、思えてきていた。その思いは時三郎も同じだった。  「このままでは、不安を煽り、動揺が広がりまする。ここは、癋見らの真似をして我ら三人の代わりを仕立て、隊を進ませましょう」  「それでは、光秀様が…」  影武者の光秀は、茂朝と時三郎の心使いを嬉しく感じていた。茂朝と時三郎の不安を取り除こうと光秀役は、声を振り絞ったのです。  「もう、選択の余地はない、ことは…急ぐ、介錯を」  茂朝は、光秀役の指示に尋常ではない危機感を察し、従った。  茂朝と時三郎も吊り橋効果か、成りきる影武者が名優なのか、影武者の挙動は迫真に淀みがなく、運命共同体のような錯覚に陥っていった。それ程にも、光秀役の成りきり方は尋常でないものがあったので御座います。  茂朝は、近くに大木を見つけ、光秀をその影に。仕立て上げた三人に口止めをする時三郎。蓑を深々と被らさせ、えっさえっさと隊を進ませる。  時三郎は、一行をその場からできるだけ早く立ち去らせようと、陣頭指揮を取った。十三騎が立ち去るまでの時間は途方もなく長く、ヒリヒリと痺れた。一行が通り抜けきる時には、光秀、すうーすうー、虫の息。  「光秀様、お気を確かに、光秀様~」  茂朝と時三郎は、悲壮な面持ちで、光秀を見守るしかなかった。  溝尾茂朝は、馬上の光秀が影武者であることがばれないように計画通り、自らの替え玉を仕立てた。茂朝と時三郎、影武者は藪に身を潜めた。  茂朝は、喘ぐ影武者の口を強く塞ぎ、時三郎は、藻掻く体を抑えていた。隊が通り過ぎた頃には、あろうことか影武者は窒息死していた。  茂朝と時三郎の心は結審していた。時三郎は亡骸を固定させ、茂朝は影武者の首を一機に撥ねるしかなかった。首実験されても分からないように顔の皮を剥ぎ、土にも埋める手はず。茂朝と時三郎は、苦悶の表情を浮かべながらも、本物の光秀を人質に取られている最中、躊躇を挟む余地はなかった。  二人は互を見つめ、重く頷いた。  ヴシュ、ゴトン。  時三郎が光秀を支え、茂朝が、一気に刀を振り下ろした。  見る見る、ぬかるみが深紅に染まっていった。  溝尾茂朝は、放心状態で立ち竦んでいた。その時、茂朝は思った。このままでは、悲願の自害、土民に討たれた、いずれにせよ光秀様の名を汚すことになる、計画とは別にそう思えた。首級さへ見つからなければ、何らかの手立てはあるだろうと放心状態で影武者の首を土に埋めた。  黒装束に癋見(べしみ)の能面を被った侍が言っていたことに期待して。  茂朝と時三郎は、首塚を前に腰を抜かすように座り込み、空を見上げていた。漆黒の闇から降り注ぐ雨が、二人の顔から汗と涙を洗い流していた。  時は、天正10年6月13日、深夜の出来事で御座いました。  一方、光秀と一緒に連れ去られた斎藤利三は、癋見の侍と向き合っていた。    「利三殿はもう感じ取られているようですな、流石です」  「何を勝手な事を…。それより、殿は御無事か」  「御無事ですよ、利三殿が我らの指示に従ってくださればね。今頃、茂朝殿と時三郎殿は我らの指示通りに動いて頂いております」  「茂朝と時三郎が…」  「はい、呑み込みが早く、光秀様思いで助かっております」  「そう…か」  「で、私に何を致せと…、いや、そなたらに従えば殿は…」  「責任を持って、お命、長引かせて見せましょう」  「そう…か、で、何を」  「ご理解頂いて有難う御座います。では、早速、要件をお伝えします。茂朝殿と時三郎殿は、影武者の光秀様を護衛されております。その光秀様は落ち武者狩りに襲われます。襲われたら最後、光秀様はお亡くなりなるでしょう」  「何と、それでは殿は天下人には…」  「本当に利三殿は光秀様が天下人になれると。酷なようですがそれはない。約束したのはあくまでも光秀様のお命のこと。お判り下され」  「ならば、どうして殿を助ける」  「それは聞かぬが花ともでも思うてくだされ」  「話せぬのか、まぁ、良いは殿が御無事なら。で、どう致せと」  「忠誠心の強い茂朝殿と時三郎殿であれば、例え影武者であっても後を追われるかと」  「貴様ら…、それを分かっていて、両名を就かせたのか」  「そうですよ」  「一体、何者だそなた、いや、詮索は無意味か」  「それでこそ利三殿。お判り頂けたようで。中心深いお二人のお命、思いを無駄にしないためにも、落ち武者狩りの後始末をお願いしたいのです」  「落ち武者狩りの始末?」  「光秀様が生きている、または、落ち武者狩りの者、それに関わった者が良からぬ噂でも流しては元の木阿弥にもなりませんから。そうなれば光秀様のお命を長引かせる理由がなくなる、と言うわけです」  「葬るのか」  「まぁ、それはそうなった時に考えます」  「従うしかないと言うことか」  「ご理解頂けたようですね。それではお願い致しましたよ」  「ああ」  「では、大分遅れましたが、光秀様一行の元へお送り致します、少々、手荒い方法になりますが」  「宜しく頼む」  癋見(べしみ)の侍の配下によって利三は、馬に乗せられ、光秀一行を追った。その途中、獣の鳴き声が幾度か聞こえた。それと同時に利三は馬から降ろされた。  「おい、おい、待て。こんな所で降ろされても…」  利三の懇願など聞く耳を持たずと、馬は立ち去って行った。  困惑しながらも利三は、一行に追いつこうと先を急いだ。その時だった。幾多の足跡が唸りを上げながら近づくのを感じた。  「追手か」。一瞬、身構えたがよく見れば自軍だった。  「これは利三殿、どうしてこんな所に…、あ、いや、そんなことより殿が殿が大変なことに」  「如何致した」  「落ち武者狩りの災難から命拾いして隊を進めていたのですが、何か殿の様子が可笑しく、確かめると身代わりの者が。聞けば、襲われた後、茂朝殿と時三郎殿に頼まれて入れ替わったと。それで、その入れ替わった場所へと引き戻っている最中で御座います」  「なんと、ならば急ぎ向かわねば。皆の者、急ぐぞ」  「おお」  混乱に乗じて、斎藤利三は難を逃れ、何食わぬ顔で殿の探索に。  「確か…、この辺りかと」  「静かに…、人の気配が致す」  耳を澄ませば、怯え、戸惑うような複数の声が聞こえた。利三たちは気づかれないように相手との距離を縮めて行った。そこには数人の農民が腰を抜かして怯える姿があった。  三左衛門たちは、突如現れた侍たちに身の危険を感じながらも、腰が抜けて動けないでいた。  利三は、農民の辺りを見て愕然とした。座り込んだ農民の股間辺りには、布に包まれた首級が。その周りには、首のない亡骸と茂朝と時三郎の自害したであろう遺体があった。  「茂朝殿と時三郎殿…」  利三には、農民たちの仕業でないことは直ぐに分かった。しかし、茂朝と時三郎、それに癋見(べしみ)の能面で顔を隠した侍が言っていた影武者の無残な姿が、やり場のない無念さと悲哀を最高点に導いた。  「問答無用、そなたら、叩き斬ってやるわ」    身の危険を目の当たりにした農民の中の長老が、ざざざざと腰を抜かしたまま後退りし、両手を合わせて命乞いをしてきた。  「お待ち下され、お侍様。私はこの近くの村の(おさ)の小島三左衛門と申します。お話を、お話を聞いてくだされ、この通りで御座います」  必死で懇願する三左衛門を見て、ふと、我に返った利三。  常軌を逸した自分を恥じながら、怒りを治めた。そもそも、常軌を逸した怒りは目の前の者に対してではない。正体不明の一団に不覚にも殿を奪われ、それどころか言いなりに動かされている自分に対してだ。  利三は、邪気を払うように深く息を吐くと、三左衛門の話を聞いた。  「何と言うことか…。癋見(べしみ)の能面で顔を隠した侍の述べた経緯と酷似しているではないか…。だとすれば、影武者と知っていては茂朝殿と時三郎殿は自害なされたと言うのか。いや、いや、いや。そうぜざるを得ない葛藤に苛まれたに違いない。その思いとは何か」  と、心の中で自問自答しながら三左衛門の話はそこそこに、利三は謎の黒装束の一団の頭目らしき男の言葉を噛みしめるように思い出していた。  「確か、落ち武者狩りに関わった者を始末せよ、と。それは即ち生き証人を始末せよとのこと。しかし、目の前の者たちには無関係なこと。何か手立てを考えねば、あまりにも目覚めが悪い。殿の事を思い集まりしこの者たちにも報いなければならない。さぁ、どうする利三」 と、現実を目の当たりにし対応する自分を、俯瞰で眺めるもうひとりの自分が思案を繰り返しているのを利三は感じていた。  利三は、三左衛門に落ち武者狩りたちの居場所に案内させ、実行者であることを確認した後、勇士たちの手によって成敗させた。  長老たちには罪はない。そこで利三は、相手に申し訳ないと思わせる手立てに出た。そうすることで、口封じを成し遂げようとした。  「三左衛門、この事、口外は決して行うべからず。口外すれば、手柄の横取り、お零れに授かろうとする輩が押し寄せるやも知れぬ。そうなれば、この村の平穏は二度と陽の目を見ることはないであろう。よいか、この事は忘れよ」  「それは、必ずお守り致しますから、何卒、何卒」  「分かってくれればよい。気苦労を掛けさせたな。ならば、褒美を使わそう。これを受け取ればいい」 そう言うと利三は、巾着を懐から取り出し逆さにして、持ち金の全てを三左衛門に差し出した。しかし、三左衛門は、悪いのは自分たちだと受け取らない。仕方なく利三は、別れ際に村人に三左衛門の落とし物だと巾着を渡した。  村人と分かれ、利三は考えた。  これからどうすればいい?何処へ向かえばいい?織田一派に渡せば、無造作に扱われ、残された明智家にも被害が及ぼう。その時、ふと、癋見(べしみ)の能面で顔を隠した侍が、「命は助けるが…」と言っていたことを思い出した。その意味は何か、何を言わんとしていたのか利三は、思案した。  物言わぬ亡骸を見るに連れ、湧き上がる思いを胸に利三は思った。  影武者であれ、世に伝わるわ不本意にも土民ごときに討たれたと言う光秀様の無念。亡骸の状況から、光秀の影武者と護衛の茂朝と時三郎のやり取りが利三には、手に取るように分かり、心が(ひし)めていた。  影武者であれ、殿を思う気持ちから自害を手助けし、介錯した者の気持ち。首級が見つかっても、秀光と分からぬように、顔の皮を剥いだ時の気持ち。さぞかし、無念だったろう、そう思うと五臓六腑が抉られるような苦渋に胸を焦がしていたに違いない、そう思った瞬間、茂朝と時三郎の気持ちを受け継ごうと利三は、決心した。  利三は未だ半信半疑だった。本当にこの亡骸が影武者なのか、殿なのか。  運搬の一行を止めさせ、茂朝と時三郎の気持ちを利三は、一行に訴えた。  光秀が影武者であることを伏せて。  一同の気持ちも、茂朝と時三郎と同じだった。  利三は、溢れ出る涙と怒りに堪えつつ、茂朝と時三郎の首も撥ねた。  その首級の顔の皮を剥ぎ、筵に濡れた土と一緒に包入れ、腐敗を進める試みを施した。一行は新たな落胆を背負い、重い足取りを余儀なくされた。  利三は、亡骸を第三者機関である延暦寺の麓にある坂本の詰所に運び込むことを決意した。当事者より冷静な事後処理を期待しての事だった。  その様子を伺っていた服部半蔵は、弟子である佐助に詰所の役人宛に手紙を託すと、馬を飛ばし山崎にいる羽柴秀吉の元へと急いだ。  「お目通り、お頼み申す。私は、徳川家康の家臣、服部半蔵と申す。光秀の件につき火急にご報告致したきことが御座います。羽柴秀吉様にお取次、お願い申す」  「家康の家臣が、光秀の件についてだと…相分かった、許す」  「お目通り叶えて頂き、有り難き幸せ。拙者、徳川家康の家臣、服部半蔵と申す。光秀の件につき、火急のご報告とお願いがあり、馳せ参じました」  「して、報告とは如何なるものか」  「光秀の首、今頃、坂本の詰所に届いた頃かと」  「何、光秀の首が」  「はい。明智軍の者により、差し出される運びとあいなっております」  「誠か」  「光秀、秀吉様との戦いで深傷を負い、明智軍を苦慮し、自害なされたとのこと。見事、光秀の首を射止められたのは秀吉様で御座います」  「そうか、そうか。うははははは。光秀の首、この秀吉が取ったぞ」  「この功績、誇るべきことと、お慶び申し上げます」  「ああ、大義であったぞ、半蔵殿」  「身に余る光栄」  「願いはあるか、何でも言うがよい」  「有り難き幸せ。秀吉様におかれましては山崎の戦いで、光秀をご覧になられたでしょうか」  「いや、見ておらん、それがどうした」  「ならば、お恐れながら、拙者の話の信憑性を証すため、光秀を見た者をここへ呼んで頂けませぬか、是非ともお願い申し上げまする」  「…まぁ、よい。早急に探し出し、連れて参れ」 と秀吉は直様、側近に命じた。半蔵に持ち上げられた秀吉は、上機嫌だった。いや、正しくは半蔵の思惑通りに。暫くして、三人の兵が連れてこられた。  「早速のご配慮、忝く御座います。この者たちに聞きたいことが御座いますが宜しいでしょうか」  「構わぬ、許す。その方らも答えるがよい」   「では、遠慮なく。皆に聞きたい、いや、教えて頂きたい。そなたらが見た光秀の首に何かなかったか」  「何かと申されても、何もなかった…と」  残りの者も顔を見合わせながら、首を左右に振っていた。  「そうですか。皆さん、有難う御座います。お下がり頂いて結構です」  半蔵は秀吉に目で合図し、それを受け秀吉も頷いて見せた。  「半蔵殿、質問の意図がわからぬが」  「秀吉様ならご存知のはず。光秀が戦に勝つことを願い、首から下げております守護念仏像を」  「おお、あれか、存じておる。それがどうした」  「光秀にとっては勝ち戦に欠かせぬ物。それを持たずして秀吉様と戦った。それは光秀が秀吉様に鼻から勝つ気がなかった証。私はそう思っております。家康様はすぐにでも秀吉様の援軍に伺うと立ち上がるのを私がお引止め申した次第で」  「何故に引き留めた」  「主君の仇討ち、必ずや秀吉様であれば成し遂げられるはず。天下の功績は秀吉様だけのもの、他にあらずと思ってのこと。差し出がましい行いを致しました。御無礼がありましたなら、この通りお詫び申し上げます」  半蔵は、そう言うと業とらしい程に深々と頭を下げて見せた。  「そなた…。半蔵殿、有り難く、その気持ち頂きましたぞ」  「恐れ多いことで御座います」  「何か褒美を取らせまいとな」  「有難き幸せ。では、ふたつ、願いを聞いて頂ければ幸いです」  「苦しゅうない、言うてみぃ」  「はっ。守護念仏像を持たずに秀吉様と戦った。即ち、秀吉様を討つ気がなかったと思われます。それなれば、明智軍にはお咎めなきよう、筋違いでありますがお願い致し候。明智軍においては光秀の首を隠蔽することも出来たはず。それをしなかった。反撃の意志はないものと見受けられますゆえ」  「…、目に見えて歯向かわなければ、捨て置くことに到そう」  「流石、秀吉様、聞きしに勝る懐の深さ、感服致します」  「それで、あとひとつとは」  「ここへ私が参った事、家康様には何卒、ご内分にお願い申し上げまする」  「何故じゃ」  「私が命じられたのは明智の動きを探ること。このような差し出がましいことを致せば家康様のお怒りを買うのは必至。何卒、お願い申し上げまする」  「わかった。そなたとは会っておらん。それで良いな。皆の者も良いな」  「有り難き幸せ。あっ、私としたことが忘れておりました。後ほど、詰所から使者が参りましょう。その者に申し付けて頂きたいことが御座いました」  「何か…、言うてみぃ」  「次期信長様を伺う輩に秀吉様の邪魔をされないように、首実検の徹底を。と言いましても、その首、損傷が激しく見受けられました。そこで、光秀血縁の者、光秀に近しい者、親しくはないが知っている者の三者に首実検をさせて頂きたいのです。私の経験から、持ち物が決めてになるかと。守護念仏像は私の調べでは、蘆山寺にありまする。ならば、鎧、兜などが決め手になるかと」  「相分かった、そのように伝えるぞ」  「あと、光秀の首は、持参した者に返し、葬るように命じて頂ければ、流石、秀吉様となるかと存じ上げます」  「ふむ、それも、聞き入れたぞ」  「では私は、本来の任務に戻らせて頂いて宜しいでしょうか」  「戻って良し」  服部半蔵は、速やかに秀吉の元を去った。  「家康殿は、良き家臣をお持ちであるな。そうじゃ、私が天下を取った暁には、あの者を召し抱えるとするか、あはははははは」  秀吉は上機嫌で、半蔵の残像に思いを馳せていた。  斉藤利三は、延暦寺の門前町、坂本寺に着いた。  明智光秀、溝尾茂朝、小暮時三郎の三つの生首を持って。  坂本の詰所で光秀の首実検。  役人の田崎真司郎は苦慮していた。  傷みが酷くて、判別つかず。困ったものだと苦渋の表情。  「斉藤殿にお聞きしたい。何故、首級が三つあり申すのか」  「主君は山崎の戦いで深傷を負い、自らの命を絶たれた。その際、主君の(めい)により介錯をなされたのが溝尾殿と小暮殿。おふたりは忠義を貫き通され、切腹なされた。哀れに思った私どもは、せめて主君と同じく葬ろうとこのようなことに」  「首級の傷みが激しく思われるが、如何に」  「一旦は土に埋め生死を隠蔽しようと試みましたが、主君が夢枕に現れ、こう申された。この首級を織田家に差し出すが良い。明智光秀は死んだ。願わくば、明智に関わった者への穏便な配慮がなされるように、と。決して、命乞いではありませぬ。光秀様は無益な殺生を嫌うお方で御座います。その意を汲み取り、恥を忍んでこの場に参った次第で御座います。とは言え、悩みは致しました。憔悴仕切っていた私どもは、不覚にも幾度となく、悪路に足を取られ、このような有様に…」  「あい、分かった。まぁ、よいは。光秀の首級があることには変わりない。山崎の戦で深傷を負われたとのこと。ならば、秀吉殿の手柄である。山岸殿、この旨、早馬にて秀吉殿に伝えられよ。今後の処置についてもな」  山岸は直様、秀吉のもとを訪れ、事の次第を解き、処置の支持を受けた。秀吉にすれば終わったこと、それに半蔵との約束もあった。  自分の手柄であれば、それでいい。  五月蝿き者があることないこと、嫉妬と僻み。後になって目障りな。  そうならぬようにと秀吉は、首実検を明智側の者にさせること。判明すれば持参した者に返し、葬らせること。明智の血を引く者は裁断定まるまで幽閉、その他の者は所払い程度でお咎めなしとすること、を伝えて幕引きに急いだ。余りにも寛容な申し出に呆気に取られて山岸は、真実よりも大義名分、成り立てば良い、のかと思った。  「やはり、そうでしたか」  「と、申されますと」  「ほれ、使者が持参した手紙にもあったように、首謀者の首級が手元にある。その首級を明智側の者に確認させる。それで大義の面目は立ちましょう。秀吉殿の関心は、主君の仇を討った、その名誉だけが欲しい。それより他には関心はあるまい。関心処は、最早、信長様の座を引き継ぐ手立てでありましょう。それが秀吉と言うお人ですよ」  首級の判別はつかず、結局、甲冑が決め手となった。斉藤利三は、光秀の首級を首塚として葬った。溝尾、小暮の首級も傍に。  一段落した利三の前に再び、癋見(べしみ)の能面で顔を隠した侍が現れた。  「見事な対応、大義で御座いました」 と、謎の侍は、一礼した。  利三は、その姿を見て、腹立たしさより不思議と安堵を感じていた。  「そなたの言う通り事が進み、満足であろう」 と、利三は、皮肉交じりの言い方で謎の侍に背を向けたまま、言った。  「それで、殿は御無事か」  「御無事で御座います」  「そうか…。お会いできれば良いのに…」  「その願い、叶えて候。その為に、利三殿を迎えに来た次第です」  「何と、殿に会えるのか」  「はい」  「では、早く会わせてくれ」  「承諾致した。既にその心つもりで籠を用意しております、それにお乗りくだされ。ただ、居場所を特定されるのは光秀様のお命を危険に晒すやも知れませぬ。よって、ご不自由でも目隠しをさせて頂きます。宜しいですかな」  「好きにせい」  籠は、一刻程で川縁に着き、暗幕で閉ざされた屋形船に利三は、乗り換えさせられた。再び川縁に着くと男が入ってき、その男に導かれてある館に通された。  「ご不自由な思いをさせて申し訳御座いませんなぁ」  「そなたは何者?」  「まぁ、それはご勘弁を。それより、この度は色々と御骨を折って頂き有難う御座いました。今しばらくお待ちください。お疲れでしょうから酒と御膳を用意致しました。ご堪能頂ければ幸いです」  「そのような気遣いは要らん。それより早く殿に」  「そう、焦らずとも。待つ間、心の整理でもして頂ければ幸いです」  「心の整理…、殿に何をした」  「勘違いなされるな。光秀はんは、何が起きたかは知らはりまへん。私らが説明しても信じてくれまへんのや。それで利三はんに起こし頂いた訳です」  「…」  「お呼びするまでお待ちください。後、何時掛かるやも知れまへん。事が事ですから酒が入っている方が話しやすいこともありますでしょう。そこはお任せ致します、あっ、毒など入ってまへんからご安心を。では、後程」  そう言うと謎の男は出ていく気配を残し、立ち去った。  暫くして、女が入ってき、何かを側に置くと、目隠しを解いた。  陽射しが眩しかった。視点が合うようになって利三は、驚いた。  今までに見たことのない庭園が目前に広がっていた。要所要所に警護の者が伺えた。室内を見渡して見た。異国を感じさせる物ばかりだった。  女は、じっと利三に視線をやると、そのまま持ち運んだ酒と食べ物を一口づつつまみ食いして見せ、その場を立ち去った。  色々と尋ねたがったが聞きたかったが、それを許さない面持ちだった。  利三は、初めて見るソファに腰を預けた。何と言う座り心地の良さ。部屋の装飾品も絵画もすべてが目新しい物だった。  ただ、この度の筋書きを描いた者が今までの自分の知る範疇を超えた得体のしれない化け物である事だけは、ビシビシと感じ取れた。  遡る事、光秀が拉致された頃に。  一方、拐われた光秀が頭陀袋から解放されたのは、真っ暗な部屋だった。  異国から手に入れた睡眠薬を飲まされ、眠る光秀を見守っていたのが閻魔会の長、越後忠兵衛だった。    「ここはどこだ、誰の仕業だ」  「やっとお目覚めですか。ちと、薬が効き過ぎましたかな」  「何者だ、名を名乗れ」  「落ち着きなはれ、光秀はん。返答次第では、取って喰おうなどとは思っておりまへん。寧ろ、光秀はんのためを思っての事とお考えくだされ」  「このような仕打ちをされ、信じろとほざくか」  「お許しくだされ、こうでもせな、光秀はんとお話出来まへんさかい」  「何者じゃ、顔を見せい」   「今は、ご勘弁を。お怒りはお察ししますが、時間がありまへん。早速、本題に入らせてもらいます。光秀はん、これから、どうなされるつもりでっか」  光秀は唐突な質問とまだ朦朧とした意識の中で、現実と妄想の狭間で自分を取り戻そうと藻掻いていた。  「そのようなこと、そなたに、答える筋合いはない」  「そうでっか、ほな、こっちで勝手に、やらせてもらいますわ」  「勝手にせい」  「ほな、進めまっせ、光秀はん。まさか、安土城に篭城したら、勝機があるとでも考えてはるんちゃいますやろな。そら~あきまへん、あきまへんわ。悪いことは言いまへん、勝ち目のない戦いなんか止めときなはれ」  「ふむ…、何を言う、無礼者が」  「まぁまぁ、怒りなさんな。策士、光秀が泣きまっせ。ほな、聞きますが、どないして、秀吉、勝家、家康はんらに、勝てますんや。どう転んでも、主君の仇討の気概の塊になっている相手に、勝てまへんわ」  「我が軍を甘く見るな」  「甘くなんて、見てまへん。現実を見てますんや」  「勝ち目のない、戦などせぬは」  「そうです、それが一番だす。勝ち目のない戦は、無駄で御座いますからな」  「そなたの言うこと、いちいち、腹立たしいは」  「すいまへんな、おちょくっているわけやおまへんねぇ、こう言う話し方しかでけへん阿呆やとでも思うて許してくだされ」  「そなた、大坂商人か」  「するどおますな、その鋭い観察眼を見開いて聞いてくれやす」  「…」  「この度の秀吉はんとの戦いで、上杉謙信はんに援軍を頼まはったけど、あきまへんかったなぁ。それに、旧知の細川藤孝はんも同じでしゃろ。娘の珠さんの嫁ぎ先の細川忠興に至っては、自分の髪を切って秀吉に送ったらしいでっせ。武士の資格がないから出家するとか、書簡まで送られてしもうて、難儀なことですな」  「なぜ、なぜ、そんなことを…そなた、知っておる」  「私らを甘く見てもろたら困りますなぁ。現に、光秀はんはここにいてはりますやん。秀吉が欲しがってる首が、いま、私らの手の中にあるということでっせ。ええかげん、分かってもらえまへんか」  「…そなたらが大口を叩けるのも、今しばらくのことよ。私がいなくなり、忠義に厚い家臣たちが血眼になって探しておるはずだ」  「その点は、お気遣いなく」  「何だと」  「そのことでしたら、心配いりまへんわ。何事もないように、一団は坂本城を目指しておりますさかい」  「なに?」  「武将には、影武者は付き物でしゃろ。ちゃんと用意させて貰いましたわ」  「影武者など立てても、誤魔化されぬわ」  「そうでしゃろか。協力者がいたら、案外、上手く行くもんでっせ」  「何を戯けた事を」  このような忠兵衛と光秀の噛み合わない遣り取りは幾度か繰り返された。  忠兵衛は事の次第が決着を迎えるのを待っていた。それまでの時間稼ぎに過ぎなかった。  そして、世間で言う所の光秀死去の日から半月が経った頃だった。  ガタガタという音と共に引き戸が開き、暗室に明かりが差し込んできた。  そこには、土下座をした武士が控えていた。しかし、その姿は、光秀を睨みつける虎が描かれた屏風で隠されていた。  「光秀はん、今日は、懐かしい人に会って貰います」  「誰だ?」  「それは、直ぐに分かりますよってお待ち下され。実は熟したようで、そのご報告を、と思いましてね。光秀はんが信頼されているお方をお招き致しました。それでは、どうぞ」  忠兵衛の合図で屏風は取り除かれた。土下座する男は拳を強く握りしめ、大粒の涙を流していた。  「利三はん、説明してあげてくれやす」  光秀は、その男を見て、利三、斎藤利三かと、一瞬、我が目を疑った。斎藤利三は、光秀が最も信頼を置く重臣だった。  「お・お許しくだされ、殿」  「なぜ、なぜ、そなたが、そなたがそこにおる」  「秀吉との戦いに苦戦し、殿のお命危なし、となった時、何としてもお守り致したかった。援軍の道も危うくなったことを知り、藁をにも縋る思いで、こやつらの企てを飲んだ所存で御座います」  利三は、一言一言、岩を砕くように搾り出し、膝に置いた拳は血が滲み出る程、固く握り絞められていた。  光秀は、拉致されてから自問自答を蝋燭の明かりだけの閉ざされた部屋の中で考え、冷静さを取り戻していた。  利三の姿を見て、事、ここに尽きたか、と、事の一大事を噛み締めてた。そう思うと不思議と魔物が抜けるような落胆を光秀は、覚えていた。  「いつから、こやつらと繋がっておった」  「信長様を討った後で御座います」  「なんと…」  「殿と同じように、拉致され、殿の現状を知らされました。それにも増して、この企てに加担したのは…」  「何を吹き込まれた、何を」  「それが…それが」  「何じゃ、何を言われた」  「それは…それは…信長が、信長が…」  そう言うと、斎藤利三は大粒の涙を流し、泣き崩れてしまった。扉は静かに締まり、部屋は、また闇に覆われた。  忠兵衛は利三の姿を哀れみ、自らが事の次第を伝えようと決心した。その口調は、利三の無念さを憑依させたように武士の言葉口調が入り混じっていた。  「宜しおます。私からお話致します。あんさんと同じく囚われた溝尾様、小暮様は、隊列に戻り、光秀はんの影武者を光秀様と思い、お守りくだされた、有難いことです」  「お守りくだされた…。何を言っておる」  「目を覚ましなはれ。あんさんが討った信長の遺体は発見されましたか。されてまへんやろ」  「…」  「それもそのはず、信長は死んではおりまへんからな」  「なんと、信長が生きていると…」  「そうでおます」    「そんなはずはない」  「では、なぜ、亡骸がありまへんのや」  「いや、確かに亡骸がでて、極秘裡に信長ゆかりの寺に埋葬されたはず」  「面白おますな、それこそ、誰の亡骸を埋葬されたのか。あの焼け跡で本人確認など難しいでしょうに」  「それは…清玉上人が…」  「ああ、あのお坊さんですか。私らの企てに飛び入り参加したお人ですな。その上人に光秀の元に報告をさせたのも私らですよ」  「なんと…」  「あの大火の中、助け出したのも私たちですから。と、言ってもあの火事も私らの企てですけどね、まっ、思ったより大火になってしもうたけど」  「それでは、信長はどこにいるというのだ」  「さぁ、今頃、どこやらの海の上で御座いましょうかな」  「海の上?」  「あんさんの謀反も事前に告げてありましてな信長に。まぁ、信長の命を狙っていたのは、あんさんだけはなかったものでね」  「誰だ、誰が狙っていたと言う」  「ご存知ない。それならそれで、いいではありまへんか、今となっては」  「…」  光秀はこの者はイエズス会の企みも知っている。そう感じた時、途轍もない巨人を相手にしている思いに押しつぶされそうになっていた。  忠兵衛は、光秀の心境の変化を見逃さなかった。  「これで私の勝ちだす」と、心の中で安堵の狼煙を上げた。これをきっかけに忠兵衛の口調は円滑さを増した。  「そうそう、家康様も私たちが逃がしておきましたから、ご安心を」  「なんと、家康殿も」  「そうでおます」  「そなたら、堺商人か」  「ほぉー怖。流石、私が見込んだお人ですわ。嬉しく思いまっせ。まぁ、犯人探しのような真似は、無意味で御座いますゆえ、緞帳を下ろして貰いまひょか」  「貴様」  「家康はん救出。あれは大変でした。もう少し、手配が遅れたら、危のうおましたわ。万が一を考え、半蔵はんに護衛をお頼みしてましたが多勢に無勢。ああ、半蔵はんと言うのはあんさんを拉致してここに連れてきた、家康はんの重臣の服部半蔵はんだす。  勿論、家康はんは、半蔵はんと私らとの繋がりは知らはりまへん。それと、探偵?忍びと言う方が馴染み深いでっしゃろか。じゃ、忍びでいきましょか。では改めて。忍びの報告を見てきたように話しますが、そこは、ご勘弁を。  そうそう、あれは冷や汗もんでしたわ。信長はんが手配した家康暗殺部隊の追手を半蔵さんが相手してる僅かな隙を狙われて、家康はんの乗った籠に槍がブスリ。あぁ、万事休す、かと思ったら、あの方、運がいいというか腰を抜かした状態で、籠から這い出してきやはった。怯えた猫が逃げるように情けない格好でね。  それで寺の縁の下に潜り込まはったわ。それが良かった。追手の者がそこに入ろうとした所に半蔵はんが繋ぎをとってくれていた援軍が駆けつけて来て、その追手を一網打尽に。何とか難を逃れました。ふぅ。家康はんを引っ張り出したら、く・く・く、いや、失礼。あの方、小便を漏らしていて、く・く・く・く。兎にも角にも、籠へ放り込んで行ける所まで行って、あとは徒歩で。半蔵はんと伊賀の者の手引きで伊賀国の険しい山道を抜け、加太超えを経て、伊勢国から海路で、三河国に辛うじてご帰還願った次第で。  信長を討った明智軍に命を狙われていると思った家康はんは、自暴自棄になって後追いをしよとしましてな。それを、本多忠勝様が説得されて、何とか事を得ました。本間、これは予想外でしたわ。  家康はんの人成は調べておりましたが、ここまで腰抜けとは…。まぁ、本多様には、後でお礼をせなあきまへんなぁ。また、いらん、出費ですわ。痛い痛い。まぁ、これで、当初の予定通り伊賀者は、家康に恩を売れたさかい今後、色々、鞍上いきましゃろ、色々とね」  「私は家康殿に追手など出しておらん」  「はい、承知しております。家康はんの思い違いだす。送ったのは信長ですさかい。私は本人から聞きましたから。それより、あんさんも知ってはったんでしゃろ、茶会の意味を」  「そなたら、一体、何者なんだ」  「その内、分かりますよって、お楽しみに。あっ、自害なんて物騒なことはあきまへんでぇ。残された明智家、それを助けようとした大名はんらも道連れになりますさかい。娘はんはまだ若いんでしゃろ、かわいそうでおますわ」  「…」  「私を甘く見ては大怪我じゃ済まないと心しておいてくれやす。ほな、また、時期が来ましたらお逢いしまひょ。ほな、さいなら」  光秀は、再び暗闇の瞑想に包まれた。眠気など元々ないが、あれやこれやと頭の中は大混乱。闇の中に悪夢を見ていた。  光秀が刻を探る手立ては定期的に運ばれてくる食膳だけ。捕虜、罪人に与えられるものとは違い、日頃お目にかかれないような豪華な膳が毎回出されていた。その都度、一本の蝋燭と酒、肴も用意されていた。  蝋燭の炎は揺らぐことなく、真上に立ち上がっていた。引き戸のある風取り窓も鍵も外にあった。光秀は目を瞑ることなく、瞑想に耽る環境にいた。  ギィーッ。重い音と明かりと共に人影が差し込んできた。現れたのは、閻魔会の長、越後忠兵衛だった。光秀の前に初めて姿を現した。  「そなたが企ての張本人か」  「はい、越後忠兵衛と申します。ご不自由をお掛けして悪う御座いますな。少しは今、置かれているご自分の立場と言うものを飲み込んで頂けましたかいな」  「あ…あ…」  「どうだす、今のお気持ちは」  「信じがたいが…そんなことがあったのか…と思っておる、信じたくないが。我らは、そなたらの掌の上で踊らせていた駒に過ぎなかったのか、そう言うことか」  「宜しおますなぁ。まぁ、大袈裟に言わせてもらえれば、そう言うことになりますなぁ。予想外の事もありましたが、まぁ、結果、落ち着く処に落ち着いたって事でしゃろ」  「はぁ…」  光秀は、一気に白髪になる程の落胆に押しつぶされ、溜息をついた。  「さすが、光秀はんでんなぁ、飲み込みが早い。この度は、細川家、上杉家に根回しするのに、仲介者へ大枚を使い、出費が嵩みましたわ」  忠兵衛は、憔悴する光秀に急に強い口調で投げかけた。  「あんさんが、無謀な戦いに細川家を巻き込めば、どうなっていたことか。細川家は断絶。可愛い娘、珠さんも死罪になっていたかも知れませんぞ」  「…」  光秀は、事の重大さを忠兵衛たちの人脈、企ての用意周到さと比べて、改めて手回しの脆弱さを噛み締めていた。  「失礼を承知で言わして貰いますけど、執着心の足りひんあんさんには天下人は向いてまへん。光秀はん自身も信長を討った後、百日足らずで近国を安定させ、引退とか、お書きになったはりましたな」  「そんなことまで、知っておるのか」  「ものを言うのは、武力もさながら、人徳と情報、それに金でっせ」  「傷口に塩を塗るか。で、私をどうするつもりだ、秀吉に引渡し、恩でも売るか」  「それも、宜しおますなぁ。でも、残念ながら光秀の首ならもう織田軍勢のもとを通り、葬られたさかい、売れまへんなぁ」  「何!何と。私はここにおるではないか」  「だから、あんさんには天下取りなど出けへんのだす。なぜ、斎藤利三はんがここにおられたのかお分かりにならないようでは、甘い、甘おますわ」  「うぐっ」  「利三さんは失意のどん底に。溝尾茂朝様、小暮時三郎様は忠義を果たされ貴方をお守りするために自害なされた。良き家臣をお持ちになっていた。その家臣を翻弄させた罪は、心に深く刻んで置いてくだされ」  忠兵衛は、珍しく感情的に光秀に言葉という弾丸をぶち込んだ。  「済まぬ、許してくれ、済まぬ」  「しっかりしなはれ。泣き言を垂れ流す光秀はんに命を預けたんやおまへんやろ、しっかりなされませ」  「しかし…」  「女々おますなぁ。せやさかい私らが力添えする必要があるんだす」  「勝手なことを」  「もう乗り掛かった舟、いや乗った船は降りられまへんで。あんさんの読みの甘さの犠牲になった人たちの為にも、供養と思いこれからを生きなはれ。その為の力添えは惜しまないつもりだす」  「なぜ、そこまで私に肩入れする?」  「それは…。一言では難しおますけど…、しいて言えば、悪行の限りを尽くしてきた私のこの世への置き土産とでも思うてくれやす」  「私を使って懺悔でも致すか」  「何とでも思いなはれ。この後の世が、答えを出してくれるはずだす」  「で、私に何をさせようと言うのだ」  「秀吉はんには黒田官兵衛はんがいるように、あんさんには、家康はんの影の参謀となってもらいます」  「家康の影の参謀…とな」  「そのようなこと、出来るのか?」  「そこはほれ、この度の事をどう見るかですがな。現に、光秀はんも変わってきてはるはずでっせ。怒りは周りを見えなくする。それが静まると今というものが見えてくる。落ち着けば、ほかのことも考える余裕が出てきている、そうでしゃろ」  光秀は、忠兵衛とのやり取りの中で、不思議な安堵を覚え始めていた。  「そらぁ、家康はんは、あんさんのことを恨んでおましゃろな。目指すお方を討たれ、自分の命も危険に晒されたんですから、まっとうに行ったら、怒りを買って、はい、終わりでしょうな」  「何か策があるという口ぶりだな、もったいぶらずに言え」  「もう、手は打ってあります。でも、仕上げがまだでしてな」  「何を言っておる、分かるように話せ」  「そうしたいのは山々ですが暫し、お待ちくだされ。では、こちらへどうぞ」  そう言われて、連れて行かれたのは、闇しかなかった部屋から明かり溢れる異人の館のような白を基調にした一室だった。  窓の外には、見たことのない花が印象的な鮮やかな庭が、光秀の錆びれた心を磨き放とうとしていた。  忠兵衛は、新たな世界に光秀を導くため、態と口調を変えた。  「刻が来るまでここで寛ぎ、今後のことをお考えくだされ。最早、私にも謀反を起こされるとは思いませんが、念の為、監視させて頂きます。外に出る以外は館の中を自由にお使いくだされ、では、その刻が来ましたらまたれ、お伺い致します」  激変した環境で光秀は、考え込んでいた。奴は一体何を言っているのだ。家康の影の参謀…、私は何を待たされているのか…、彼らは何者か…を考え始めると、落ち着かない時間を過ごすしかなかった。  光秀が、監禁されている同じ頃、閻魔会は任務遂行に活発に動いていた。  計画通り影武者を織田陣営に光秀の首級を差し出し、秀吉を筆頭に、明智光秀は葬らたという事実を作った。  優雅な監禁先で寝ていた光秀は起こされ、部屋から連れ出された。使用人に案内されて入った部屋には、忠兵衛と左右に三人の計七人が、西洋製の食卓を囲っていた。楕円形の食卓の上には、カステラとワインが用意されていた。  光秀は、越後忠兵衛の対面に座らされた。この時ばかりは、ふざけた忠兵衛の雰囲気が凛として見えた。  「嫌な思いをさせて、申し訳御座いません。一同を代表して、これ、この通りで御座います」  この者たちが裏で動いていたのか?それを私に晒すと言う事は、決着がついたということか?と光秀は、緊張が高まっていた。  「ワインではありますが、新たな夜明けの兆しに、かんぱーい」  「かんぱーい」  光秀は、意味が分からず、呆然とその光景を見ていた。  「会食しながら、お話しましょう、みなさんどうぞ、ご自由に。さぁ、光秀様もどうぞ、オランダから手に入れたパンと紅茶というもので御座います。毒などは入っておりませぬから、さぁ、どうぞ、どうぞ」  光秀は、恐る恐るパンを手にして口に運んだ。柔らかい食感にもちっとした歯ごたえ、経験したことのない味に戸惑っていた。  「光秀様に、ご報告が御座います」   「事の決着がついたか?」  「流石、光秀様。心の憑き物は払われたご様子」  「心の憑き物とやらは祓われたが、また新たな厄介ごとが衝いたようじゃ」  「ほぉ~、言い張りますなぁ」  光秀の反抗的な仕草に忠兵衛は、満更でもない態度で接していた。  「これから、ここにいる者と一緒に歩んでおくれやす」  「まだ、そなたらと歩むと約束などしておらぬわ」  「まぁ、宜しい。今回の企てを当の本人が知らないと言うのは何かと都合が悪いでしょうから、改めてご報告がてらに整理させて頂きます」  「是非、聞かせてくれ、私が拉致されていた間に起こったことを」  「では、明智光秀様が亡くられた、ということです」  「馬鹿、馬鹿を言え、私はほれ、こうして生きておるでは…」  「まだ、飲み込めませぬか、現実を」  「いや、不思議な感覚でな。明智光秀は死んだ。では、ここにいる私は何者なのか?そう、思うての事よ、気にするな」  「気になどしまへん。では、話を進めます」  「ああ」  「事は明智光秀なる者が天下の謀反をしでかしたことから幕は開きます」  「そなたのいい方はいちいち気に障るな」  「ご勘弁を、では先に。山崎の戦いに敗れた明智軍は、坂本城に向かう道のりの山科・小栗栖で、落ち武者狩りに会い、光秀は脇腹を槍で一刺し。致命傷で万事休す。光秀様に頼まれた溝尾様が介錯をなされた」  「私が茂朝に…」  「勿論、貴方の影武者ですがね。溝尾茂朝様と小暮時三郎様は、光秀様のお命大事とは言え、影武者であっても光秀様を介錯し、殿に汚名を被せてはならぬと真実を闇に葬るために自害なされました。本当に良き家臣をお持ちになりましたな」  落ち着きを取り戻してはずの光秀は、現実と過去の出来事が瞑想の中にいるように混雑し、混乱の中にあった。  「何と…。茂朝、時三郎が…、そんな…済まぬ、済まぬ…」  強がっていた光秀ではあったが、精神的に破綻の淵を歩んでいた。忠兵衛はそれを知りつつ、光秀を追い込んでいった。忠兵衛は蘭学医から催眠術を学んでいた。新たな人格形成は、過去の人格破壊から生まれる。それを目論んでいた。そうとも知らず光秀は、人目も憚らず溢れる涙を流し、その場に崩れ落ちた。部屋は、光秀の嘔吐の如き苦悩の嗚咽に支配されていた。  会場は光秀の嗚咽以外、静寂だった。閻魔会のその他の者は、忠兵衛の催眠術の効果を幾度か練習も含めて観ていた。当初こそ、本当に錯乱状態になり、死に至った者もいたが、今は、達人の域にあるのを知っていた。  叫びが収まり、光秀がすくっと立ち上がった。光秀は、憑き物が落ちたように放心状態にあった。  「光秀様、貴方が今後、生きていると主張なされば、溝尾様、小暮様、影武者の命を無駄にされるばかりか、光秀死す、で収まりかけた世相をまた、混乱の戦いの渦へと誘う結果となりまする。細川家もただでは済みますまい。それでも、戦の渦へとお戻りになりまするか。また、多くの尊い命を土の肥やしになされますか」  忠兵衛は、光秀を強い口調で正すように、言葉を投げかけた。  「わぁぁぁぁ、許せ、許せ、許してくれ」  光秀は半狂乱になって、見えない何者かに許しを必死に請う。その姿を閻魔会の連中は冷めた目で見つめていた。  忠兵衛が光秀の両肩をぐっと抑え、鋭い口調で「えいっ」と喝を入れると光秀はその場に崩れ落ちた。  閻魔会は、忠兵衛の号令で閉会を迎えた。会場には、忠兵衛と光秀の二人きっりとなった。  「目を覚まされなされ光秀殿」  光秀は、涅槃の何処から聞こえる声に導かれるように目を覚ました。  光秀の中で何かが弾け飛び、「無心」と言う言葉の重みを感じていた。  「如何ですかな、今のお気持ちは」  「ああ、爽快な気分だ…最早、私は、生ける屍か?」  「左様で御座います」  「残酷な事をさらりと言ってのけるものよな、そなたは…」  「もともと、天下人に成るつもりも、その度量もない貴方が、何ら根回しもなく、謀反など起こしたことへの、天罰とでもお考えなされよ。事を構えることは、覚悟が必要で御座いますぞ。その覚悟が甘すぎるのです。如何なる最悪の場も考え、打てる手立ての全てを検証し、用意周到にこれでもかと計画を練り直す。取り越し苦労は、無駄ではありませぬ。寧ろ、その苦労に敢えて手を出し、無駄を積み重ねる。愚かな者はそんな無駄なことを、馬鹿にする者もおりましょう。それを行い、得難いものを得る。危機管理とはそう言うもので御座います。一睡の水も漏らさずがあっての決起。行き当たりばったり、自らに都合の良い机上の空言では、関わる者が迷惑致します」  「…」  「敢えて言いまする、あなたが、このような失態を二度とやらかさぬために。あなたには根回しに必要な人望が欠けておりまする。決意の脆弱さが招くものです。執着心という強い意思が足りていないのです。それが甘えに繋がり、求心力に劣る。あなたには、学問もある、才覚もある。しかし、実践向きではない。裏で糸引く存在。そこにこそ、あなたを活かせる道が御座います。私にはそう思えまする」  越後忠兵衛は、光秀を諭すように方言を抑えて説いた。  「そなたの言う通り、私は天下人の器ではない。しかし、この世を正そうと思う気持ちは確かなものぞ」  「それでこそ、我らが認める貴方様で御座います」  「ならば聞こう、何故、組む相手が家康なのか」  「神仏のお導き、とでも言わざるをえませんなぁ」  「神仏とな?」  「秀吉の対抗馬は家康。しかし、その家康は窮地に追い込まれると諦めるのが早く自暴自棄になる悪い癖があります。こればかりは誰かが近くにいて防ぐ必要があります。  師従関係ではそれこそ光秀、信長になりかねません。対等まではいかなくても聞く耳を持たれる立場である事が大事。  その為には信頼関係が不可欠。疑い深い家康なら尚更。そこで人選に苦慮していた時に家康とあんさんとの関係が浮上してきた」  「私と家康殿との関係?」  「そうだす、木俣守勝殿の存在です」  「守勝がどう関係するのだ」  「白を切ると言われるか」  「切るも切らぬも、何のことやら」  「まぁ、宜しおます。守勝殿は元は家康の腹心。それがあんさんの腹心に。それも小納戸役に。それがまた家康の元に。  その際、家康から守勝を戻してくれるよう再三の嘆願書が送られてきたそうな。それに応えられた。ひとつ貸しを作ったのも同然。  あんさんにとっては大切な懐刀。それを断ち切って家康の要望に応えられた。断っても良かったはず。それを大事な脇差の明智近景を譲ってまで見送っておられる。何やら匂うと嗅ぎまわると家康の元に戻った守勝は武田信玄の優秀な家臣を積極的に徳川家に召し抱えているではありませんか。  では、何でそんなことを。ここからは私の想像です。守勝殿は、あんさんが自分を手放したには訳があると考えやはった」  「その考えとは?」  「分かりませんか。まぁ、仕方がない。私も想像の域を出ませんから。私はこう思うのです。殿は何か重大な決意をなされる。その際、自分に火の粉が及ばないように安全な場所に避難させたのでは、と」  「そのようなこと…」  「考えもしなかったと。まぁ、いいでしょう。でも、守勝殿はそう思ったのではないでしょうか。あんさんが信長を討つ。そのあんさんを狙う筆頭は秀吉。その秀吉と遣り合うとすれば、織田家より離れた駿府の家康だと。守勝殿はそう考え準備をなされていた。しかし、予想外の事が起きた」  「予想外のこととは?」  「茶会に家康を招いた。しかも、信頼関係を誇張するように警護なしで会うとね。これを聞いて家康は舞い上がった。こうなれば何を進言しようと聞く耳を持たぬでっしゃろ。流石の守勝殿もイエズス会や信長による家康毒殺計画は知る由もなかったでしょうから。  私らも四六時中信長に張り付いて、信長が漢方薬に矢鱈に興味を持ったことを怪しみ、聞き入れた薬草を調べて導き出したのが毒殺だった訳ですから」  「そなたらの動きを知るに当たって自らの軽はずみさに胸が痛いわ」  「反省は、今後の良薬だす。しっかり、煎じて服用してください」  「減らず口が」  「まぁ、宜しい。守勝殿の件があってこそ、家康が心を許しやすい人物が浮き上がった訳ですから」  「で、そなたら、私に家康の参謀となれと」  「はい。家康はあなたに足りないものを全てお持ちです。しかし、秀吉、信長が持ち、争い、勢いの根源となる自我が弱い。それを補うのです」  「自我か…。己で扱えば、弱くとも強くとも波風を立てる。ならば、その帆を力を合わせて操れば、どこから風が吹こうが防げるという事か?」  「それがあなたの転生、と言うべきでしょうか。それは、この国にとっても大切な役割を果たすものと信じて、我らは動いておりまする」  「何故、そなたらがそれを行う」  「まぁ、それは暇つぶしの道楽とでもお考えください」  「道楽か…。大層な道楽だな。…そう言えば昨夜、可笑しな事を言っておったな。物の見方を変えれば、事の見方が変わると言うようなことを」  「覚えておられましたか。光秀死す、は最早、諸大名のみならず、民衆の話題にもなっております。勿論、それを拡散させたのも、我らが密偵たちに指示したもの。あなたが戻りたくても、戻る場所はもうないということです」  「喰えぬ奴らだ。しかし、肝心の家康の了承を得ているのか」  「ご心配なく。家康様は無事、三河国に戻りました。落ち着いた頃合を見て、この度、生還できたのは、光秀様のお手柄によるものとお伝えするつもりです」  「私が、家康を助けた。戯けたことを、誰が信じる、そんなことを」  「ほれほれ、それが駄目なのです。陰の将軍とまでは行かないまでも、陰の参謀になって頂こうとする御仁が、先々を読めなくてどうなさいます。言ったはずですよ、真実何て言うものは、見方を変えれば、何とでも変えられると。それらしい情報を少し加えるだけで真実味を帯びる、白にでも黒にでも思うようにね」  「何をどう、変えるんだ」  「それは、服部半蔵はんに絵図を書いて渡してあります。あとは、半蔵はん次第。仕上げをご覧あれってことで、上手くいけば、報告さしてもらいます」  「そなたら、なぜ、こんな手の込んだ事をする。聞かせてくれぬか」  「好奇心はお有りのようで、宜しい少しだけですよ。私たちは、あなたがお気づきのように商人です。その利権を利益を信長が奪おうとした。大人しくしていれば良いものを。そこに、イエズス会とあなたが、信長暗殺を企てているという情報が舞い込んできた。どうすれば既得権を守れるかは、考えれば分かりますでしょう」  「済まぬ、私には分かり申さん」  「駄目ですよ、考えもせず答えを出されたら。立場を変え、考えなされ。生まれ変わってもらうためにご無礼を承知で、学んでもらいましょうか」  「ぜひ、伺いたいな、その学びとやらを」  行き場を失った光秀は、忠兵衛の術中に嵌まり始めていた。  光秀は、忠兵衛に掌握され始めた。忠兵衛は、師弟関係を暗示するために方言と砕けた語りで同意を促し、凛とした語りで悟りと服従を光秀に注入していく。忠兵衛は、緊張と緩和を駆使して、光秀を術中に落とす。  「信長を葬れば、誰が頭に立つんでしゃろ」  「それは、信長ゆかりの者の中から、選ばれるだろう」  「甘おますなぁ。血縁関係を見渡しても誰もおりまへんがな。仮に誰かが頭首となっても、お供え餅でしゃろ。誰かが裏で糸を引く。それを聞いてるんでおます。もう少し、掘り下げて考えなはれ。折角の金脈も逃してしまいまっせ」  「…遅かれ早かれ、秀吉が抜け出てこよう」  「そうでんがな、人格、才覚、人望を考えれば。備中高松城から山崎まで大軍を移動させた備中大返し。これには、私らも驚かされましたわ。このような奇想天外な発想と行動が、頭に立つ者には必要なんだす。  好奇心旺盛な信長。交渉上手な秀吉。お~怖、秀吉はんには、銭の臭もぷんぷんしますわ。かと言って、秀吉倒しなど私らには荷が重すぎます。下手に動けばこちらが、潰されますわ。  そこで、秀吉の対抗馬として白羽の矢を立てたのが三河国を中心に勢力を拡大している家康はんどす」  「秀吉殿と家康殿が戦うと」  「私らは、そう読んでおります。正しくは、秀吉没後のことになりますがね。権力争いとは、そう言うもんでしゃろ。家康はんは疑心暗鬼の塊のような人や。  更に、無駄な争いを避けるために不条理を飲み込む我慢強さ、飴と鞭を上手く使い分ける才覚がありますさかい。自分が臆病だけに、人の弱さも分かる。秀吉はんとは、そこが違いますわ。  駒としてどっちが動かしやすいか、答えは簡単でしゃろ。  家康はんはお金では動きませんわ。なら、金に変えられないものを与えればいい。参謀は金で手に入るかもしれまへん。  でも、天下人は孤独なもんでしゃろ。その孤独を補えられれば、懐に入れる。懐に入るには秘密の共有・暴露が重要だす。敢えて、秘密を握らせることにより、裏切られない安堵を与えるのです。ならその秘密はとびっきり大きい方がより安心させられると思いまへんか。  今のあんさん程、この適任者はおりまへでぇ。そのために私たちは、あんさんを追い込んだんですから。  家康はんと天下を取りをしなはれ。悪い話ではありまへんやろ。時間は掛かるでしょうが、その時間こそ、家康はんが勢力を付けるための時間だと思うて。任しておきなはれ、あんさんを使って家康の心中に深く食い込んでやりまっせぇ。死の商人と呼ばれた私たちが今度は、戦のない世を築いてやります。それが、私らの最期の道楽ですわ」  「戦のない世であれば、秀吉が天下人となっても同じことではないのか」  「甘いなぁ。確かに秀吉は武力より算術に重きを置くでしょう。存命中はいい。しかし、没後は、権力争いが繰り返されますよ。人斬庖丁では世の中の安泰など望めまへんなぁ。あんさんの出番は、秀吉亡き頃。それ迄、才能を磨くことです」  「秀吉の没後はその血縁者が次ぐのではないか」  「信長の後は、血縁関係者になりますやろうか。一瞬、なるやもしれません。が、馬鹿に従うより自分でやった方が何かと便宜でしゃろ。地盤さへ固まれば、さっさと引きずり落として、天下を自分のものにされますわ。それが秀吉はんだす。天上天下唯我独尊。それが秀吉だす。この世に一人だけと言う意味です。その一人がいなくなれば…」   「そなたら、そんな先のことまで考えておるのか」  「はい、それが商売人ですよ。秀吉亡き後に後継者を作らず、作らせず。そうすれば家康の天下は色濃くなりましょう。その為には、肉を切らせて骨を切る、敵を欺くにはまず味方から、と言いまっしゃろ。懐に飛び込んで、中から盤石な城を食い潰してやりましょう」  「先の先か…。光秀であった頃の私が恥ずかしく思えてくる」  「悲観されずとも宜しい。それに気づくか気づけぬかが大事ですよ」  「ほんにそなたの言い方には棘があるのぉ」  「許してくだされ。悪気はあらしまへんから」  「余計に(たち)がわるいは」  「く・く・く・く・く」  忠兵衛と新生・光秀は忠兵衛の施した催眠療法でいい関係を形成し始めていた。  「先手必勝と言うやおまへんか、仕掛けは早いほうが宜しおます。あんさんには、陰の存在として家康はんに降り懸かる難解な問題を協力して解いて貰いたいのです」  「そなたらの言うことは理解した…として、家康殿の賛同が得られなければ…幾ら服部半蔵殿が説いた所で、何かと物議を醸すのではないのか…」  奇想天外の申し出を否定したい光秀の気持ちは、差し掛かる難解な問題点を探し始めていた。しかし、その思いは虚しく打ち砕かれた。忠兵衛の揺るぎない自信は、大木相手に相撲を取るようなものだった。  「その点もご心配なく。根回しは順調に進めております」  「本人が言うのは可笑しいが、私が表に出るのは何かとまずいであろう」  「そうでおますなぁ~せやさかい、陰の、ってついておますのや」  「陰か…最早、明智光秀は、この世におらん、ということだな」  「明智光秀は死して名を残す、ですわ。武士としてのあなたはもう、この世にはいない。武士でないからこそ、安心して家康も組めるのです。気づいて欲しかったなぁ、だから態とだから「あんさん」と呼んでいたのに」  「済まぬ、で、武士ではない、とは、どう言う意味だ」  「それは後程。只、ご自身を最も活かせる舞台を持てるということですよ」  光秀は、自分の置かれている立場を理解しようと努めていた。想像もできない力で呪縛されている自分を。いや、そう思いたかった。呪縛ならいつか解ける、悪夢ならいつか覚めると。  忠兵衛が仲間に的確な支持を出す。支持を出された者たちは、自分たちの裁量で自らの任務を着実に遂行する。お互いを信頼しあって、物事が進む。それを目の当たりにした光秀は、組織の在り方を垣間見た思いだった。  何と私は愚かだったのか。そう思うと自らの行いを悔いた。無念にも命を落とした者、甘さ、器のなさ、言うは易し、行うは…難し、か。  信長の亡骸がなかった時の虚無感。光秀は、自らを心の闇へと追い込んでいった。その時だった。  一縷の光が脳裏に突き刺した。そうだ、私は生まれ変われるんだ。その機会が今、ここにある。ならば、生前の自らの愚かさの犠牲になった者に報いるために、鬼にでもなる。涅槃でそなたらの死を無駄にはしなかった。価値ある死であったと、労えるように。そう、思えた時、スーと憑き物が落ちたように頭の中の霧が消え去るのを感じていた。  「分かった、新たに授かったこの命、そなたらの自由にするがよい」  「おおきに。ほな、これからは、私ら、お仲間ですな」   「よしなに」  「取り敢えず、家康はんの説得やあんさんの身の置き場所への下準備など、まだまだ時間が掛かります。それまでは、私の別荘をお使いくだされ。監禁など無作法な真似はしまへんが、顔がばれたら、どうなるか考えて行動してくれやす。それが出来なければ、それまでのことと、私らも諦めますわ」  私を疑わないのか。なぜ、容易に切り替えられるのか。その忠兵衛の自信が光秀の迷いを払拭さるのに時を重ねる必要はなかった。  「心配はいらん。武士であること…あったことにもう未練はない」  「それで宜しおます、それで」  「また、意味ありげなことを言うのか」  光秀は、忠兵衛の納得する発言に何か裏があるのではと考えるようになっていた。その思いは疑心ではなく、期待感からだった。  「しばらく、新・信長体制を見守ることに致しましょう。その間、あんさんは、心の切り替えに努めてくだされ」  「分かった。この一晩で何年も過ごした様な気が致すわ」  「お疲れどしたな。別荘は温泉地だす、ゆっくり過去を洗い流してくれやす」  一方、三河国に戻った家康は、機微を返し、光秀を討つための軍を召集し、安土城に向かった。出発しまもなくして隊列に向かってくる早馬に、一同は色めきだった。  「お待ちくだされー、お待ちくだされー」  大声を張り上げながら、勢いよく近づいてくる武士は、隊列の前で止まり下馬し、膝をつき一礼した。  「いきなり、道中の妨げとなり、申し訳御座いません」   「そなたは」  「家康公と存じますが、相違御座いませぬか」  「いかにも」  「拙者、秀吉様の家臣、高橋喜一郎と申し上げます。急ぎ、お伝えしたきことありて、馳せ参じました」  「何、秀吉殿からだと。して、何事ぞ」  「光秀、既に討ち取られて御座りまする」  「なんと、誰が討った、秀吉殿か」  「土民で御座います」  「土民とな」  「秀吉様との戦いに敗れ、坂本城を目指すも道半ばにして土民の槍にて致命傷を負い、そのまま自害したとのことで御座います」  「そうか、高橋喜一郎とやら、大義であった。今宵は疲れを労い、戻られたら秀吉様に、家康、御報告に礼を申すと、伝えてくだされ」  「しかと、お伝え致しまする」  隊列の前に現れた高橋喜一郎は、半蔵の配下の成りすまし、だった。  半蔵は敢えて配下に秀吉に伝えた内容とは違い、土民に刺されたことを強調して伝えさせた。それは、秀吉が討ったとなれば、家康は遅れをとった自分を責め、秀吉に対して卑下するのに違いないと、家康を気遣ってのことだった。  半蔵は、秀吉と家康の中を取り持つことで、やっと、次なる手の好機を迎え機は熟したと感じた。「後は、家康を取り込むのみぞ」と思っていた。  その晩、家康は上機嫌で祝宴に酔いしれていた。  半蔵は、家康が酔いつぶれる前に、伊賀越えについて大事な報告があると、耳打ちし、密かに会う機会を得ていた。半蔵とは、伊賀越えの苦楽を共にした仲。それ故、格別な信頼を深めた仲となっていた。  「話とは何じゃ、改まって」  「家康様が、落ち着きなされてから、御報告致そうと」  「して、何かな」  「驚きなさいますな。今よりお話するのは、我らが調べた真実。心して、お聞きくだされ。なぜ、あの時、信長の包囲網を突破できたのかを」  「うん、信長様の包囲網とは」  半蔵が信長と呼び捨てにした事が気にはなった。また、追手が信長からだと聞かされ、そんな馬鹿なと眉をひそめた。しかし、それは、酒の仕業と聞き流すことに家康はした。  「そなたと伊賀者のお陰であろう、違うのか」  「確かにそうでは御座いますが、あの時、三河までの道中、来るはずの追手の姿がなかったことにお気づきで御座いましょうか」   「そう言われれば…。しかし、危うく命を落としかねなかったではないか、ほれ、この傷、今も痛むことがあるわ」   「それはお大事に。確かにあれには、私も驚きました。まぁ、あれ位は臨場感があって、宜しいかと」  「馬鹿を言うな」  「失礼、致しました」  「それより、答えろ。なぜ、伊賀越ができたのか」  「そもそも、あの場で、下準備もなく、山歩きの経験のない家康様に対して、あの伊賀越えを思いつくのは、困難ということです」  「可笑しなことを言うではないか。そなたの言い方では、事前に知っておったように聞こえるぞ」  「御意」  「何と、襲われることが分かっていたと言うのか」  「はい。ですから、伊賀者が援護に駆けつけておりまする」  「うむ…確かに」  「ならば、もっと安易に回避出来なかったのか」  「秘密裏に動きますと、予期せぬことが起こりまする」  「まぁ、良い。詳細を説明せい」  「家康様においては、信じがたい、お話御座います」  「信じがたい話だと、えぇい、勿体ぶらず、早う、言え」  「では、ご要望通りに。家康様、可笑しなことが起きておりましょう」  「何がじゃ」  「そもそも、信長様が家康様を三河からお呼びになったのは、お茶会あってのこと。それゆえ、警護も手薄で、と言うことで御座いましたな」   「ああ、逆らう者はないゆえ、警護も手薄で良いということだった」  「それで、なぜ、茶会に出られておりませぬ」  「それは、信長様が折角、三河から来たのだから、堺遊覧でもして来いと」  「ならば、最初から、そう言えばいいではありませぬか。そもそも、呼びつけておいて京ではなく大坂の堺とは、遠すぎませぬか」  「…」  「真実はこうです。あの茶会は、ある堺商人によって、設けられたもの。それを信長様が利用して、家康様、毒殺を企てたので御座います」  「な、な、何を申す。信長様が、私を毒殺とな、馬鹿を、馬鹿を言うでない」  「そうで御座いましょうか。私が得た情報では、秀吉の援軍に向かう途中、堺に立ち寄り、家康様を討つ。それを信長より託されたのが光秀であっと」  「何と、信長様が、光秀に。なぜじゃ、何ゆえにこの私を」  「それが、信長ということでしょう」  「どう言うことだ」  家康は、半蔵の信長、秀吉と呼び捨てにし、自分だけに「様」を用いるのを怪訝に感じつつ、何か意図があるのかと聞き流すことにした。  「あの襲撃隊は光秀の差金ではなく、信長の命を受けた者たちです」  「信長様が、私の暗殺を…」  「確実に家康様を討つには、失敗など許される訳が御座いません。信長は用心深いお方。もしも、企てを光秀に気づかれ、正義感の強さから邪魔をされては、堪ったものではない。さすれば、秀吉の援軍に行けと追い出し、厄介払いをした」  「そのようなこと…」  「茶会に招かれた者をご覧くだされ。秀吉様は、遠征で除外するにせよ、光秀は当初から入っておりませぬ。側近を飛び越えて、家康様は呼ばれた」  「そうじゃ、ゆえに、私は認められたと、喜ばしく思っておった」  「そこが、信長の思う壷、だったとしたら」  「何と、そのような…」  「側近だからこそ、信長の本性、気質がよく分かる。それを踏まえて光秀が何故、謀反に至ったかと言うことです」  「私もそこが気になる、そなた知っておるのか」  「いいえ、今となっては本人以外に知る由もなく、でしょうな。しかし、考えられる光秀の思いは、分かる気が致します。それで良ければ」  「おぉ、聞かせてくれぬか、その思いとやらを」  「光秀の家臣、斎藤利三には、旧知の長宗我部元親がおります。元親は、信長から四国征伐を任されていたのです。その元親でさへいつしか自分の敵になる。確実な支配下に置けるや否か、不安を払拭できなければ、倒してしまえってのが、信長。元親は戦う気はなく、譲歩案も受け入れると、利三は光秀を通じて訴えていました。しかし、その願いは叶わなかった。まさにあの日、元親の四国討伐が間近に迫っていたのです。  更に付け加えなければならないのは、イエズス会の動きです。イエズス会は、信長に入信を迫っていた。宗教の名を借りた侵略であるとを理解していた信長は、それを拒否した。イエズス会は、本能寺の至近距離にある南蛮寺の展望台に新式火薬を持ち込み、信長爆死を企んでいたのです。隠れキリシタンだった光秀は、信長の付き人である黒人の彌助からそれを聞かされていた。  爆死となれば、世の中が再び戦火の渦に巻き込まれる懸念があります。異国との揉め事にも発展しかねません。それは、避けなければならない。光秀は天下の在り方に不安を感じ、刻限に迫られ、あの謀反を引き起こしたのです」  家康は、目を閉じ感慨深く考えた後に、重い口を開いた。  「自分が手をくださなくてもイエズス会が信長を始末する。勢力争いが勃発する。光秀は悩んでおったのか…。警護手薄の二度とない暗殺の機会か…。儂を葬るための舞台を用意したつもりが、墓穴を掘るか…。ほんにこの世は面白いわ」  「そこに、家康様の暗殺命令が下った。その時、光秀の心は決まったはず。イエズス会に討たせるより、信長傘下の謀反であれば、上手くすれば、勢力図を継承し、維持できると。そこで光秀はある者を通して、家康様を本能寺から遠ざけさせた、と言うことです」  「何と、私を信長から救ったのは光秀と申すか」  「左様で御座います。ゆえに、奇襲からも逃げられ、事前に伊賀者を手配することもでき、伊賀越えもできた。その結果、こうして家康様を三河国までご無事にお連れ致すことができた、と言うことです」  「信じがたい、信じぬぞ、信長様が私を…」  「家康様は、三河国を中心に勢力を拡大されております。長宗我部元親が、受けた仕打ちは、家康様にも、及んだことでしょう。 将来、力を付ける者は身方に取り込む。いつ裏切られるか不安なら、潰せるときに潰しておく。それが信長でしょう」  「そのようなこと…」  「天下を取ろうとする者は、隙あらばでしょう。家康様も口には出さぬとも天下人は夢に思われるはず。それを信長は、敵とみなされるのですよ」  「信長様にとって、私は敵か…」  「事実、お命を狙われたでは、御座いませぬか」  「…」  「このこと、他言無用でお願い致します。混乱必定ですので」  「わ、分かっておるわ。このようなこと、誰に、言えるか」  家康は、混乱の極みを味わっていた。主君と慕い、亡き後を追う程に思っていた信長が、自分を葬ろうとしていた。主君の敵と命を狙った光秀が、自分を救った。その光秀がある者に通じていた。ある者とは、誰なのか、知りたい気持ちより、動揺の方が強かった。問いたくなる気持ちをぐっと抑えいていた。信じがたい話に動揺は隠せない。  しかし、落ち着いて思えば、信長に手痛い思いをさせられた伊賀者が救援に出向いてくれていた。伊賀者からすれば憎っき信長の鼻をあかせる良い機会となったろう。  家康は気持ちを抑制した。ここまで話す半蔵が、ある者については話さない、それは時期早々か、隠密にしておく必要があるからだと理解できた。  戦国の世、信じられるのは自ら築いた勢力圏だ、と家康は自分に言い聞かせていた。下克上はある。ましてや、他の勢力圏下に入れば、いつ何時、今回のように裏切られるか分からなかったからだ。  服部半蔵は、この日を皮切りに光秀が恩人であり、信長が敵であったことを、さりげなく幾多に渡って家康に刷り込んでいった。  家康は本来、さみしがり屋で、臆病者。それを、情報や裏付け、信頼関係で補っていた。石橋を叩いて渡る。それが、徳川家康だった。  半蔵は、命懸けで自分を助けてくれた、謂わば命の恩人。その忠誠心は、家康にとって心強かった。そんな半蔵の言葉だからこそ、家康自身も耳に入ってきていた。少なくても、半蔵は自分の為に動いてくれている。情報網も持っている。信頼できる男であるという気持ちは、日増しに高まっていた。  半蔵の家康への刷り込み報告を受け、忠兵衛も動いた。  忠兵衛は、思案していた。光秀の処遇だ。武士でもない、商人でもない、利害関係が生じにくく、また、自活することなく、人目にもつかない場所…。  それは、灯台もと暗しの場所にあった。先方に話を持ちかけると、これが思いのほか、好感を持って受諾された。忠兵衛は、光秀の隠れている温泉地の別荘に赴いていた。  「如何ですかな、隠居生活は」  「ほんに、そなたの言葉には、棘があるな」  「あはははは。まぁ、気になさるな」  「それで、嫁入り先ならぬ、婿入り先でも見つかったか」  「ほぉー中々、言うようになりましたな」  「そなたの病に侵されただけだ、気にするな」  「よい、よい。それでよい」  忠兵衛は、憑き物が取れたような光秀を感慨深く、見ていた。  「要件とは、お察しの通り、婿入り場所とはいきませぬが、新たな生き場所が見つかったのですよ」  「それで、何処へ行けと言うのだ」  「驚きなさるな、天台宗総本山の比叡山で御座りまするよ」  「何と、比叡山とな。焼き討ちを行った場所ではないか」  「そうなんですよ、いろいろ考えて、木を隠すなら森の中、と申しますからな」  「出家せよと言うのか」  「まぁ、そう言うことになりますかな。隠れキリシタンの光秀はんには酷な話しですかな」  「いや、そのような気遣いは、要らぬは」  「あらまぁ、キリシタンであることをお認めになりましたね」  「この場に及んでは、そんなこと、どうでも良いは」  「僧侶は仮の姿。飽くまでも、家康の懐刀になって頂きます」  「そんなことが、できるのか」  「できるか、できないかは、あなたの努力次第。根回しは半蔵はんが、粘り強く仕掛けてくれてますよって」  「努力とは、別人になりきると言うことか」  「なりきる?いいえ、なるんです。まぁ、ええわ。努力とは、密教、神道、道教、陰陽師、風水学などに精通して頂きます。宗教人ではなく、知識人であれ、と言うことです」  「一応聞いておくが、相手は快く、受け入れてくれるのか」  「それが、歓迎されましてなぁ。延暦寺を焼いたとされる信長を討った光秀様と聞いて、それはもう」  「そうか、反感贔屓か。まぁ、よい、歓迎して頂けるなら有り難いことよ」  「そこで、いつまでも光秀の名を使うわけには参りません。そこで、お布施をた~んとお支払いして天台宗総本山の住職より有難~いお名前を預かって参りました」  「ほぉ」  「その名は、慈眼大師南光坊天海と申します」  「大層な名だな…、南光坊天海か、うん、気に入った」   「天海さんのお力を発揮して頂くのは、まだまだ、先の話になりましょう。それまでは、光秀はんの過去を隠蔽し、光秀はんに関するもので利用できるものは、無許可ですべて利用させて貰います」  「好きにせい。光秀はもうおらん。遠慮はいらぬは」  「早速、その遠慮とやらを使わせて頂きますわ」  「なんじゃ」  「私はご存じのように気弱な者で臆病者で御座いましてな」  「どこがじゃ。海鼠の様な得体の知れぬそなたが」  「喰うと旨いと聞きますが、私は遠慮致しましょう」  「それで」  「この先、天海殿が光秀ではないかと疑う者も出て来るやも知れません」  「光秀は死んだ、そう広まっておるのにか」  「人の噂とは面白可笑しく広まるもので御座いますよ」  「人の口には戸が立てられなぬからな」  「所詮、噂は噂。押し寄せる波に逆らおうとするから、波風が立つ。波は上手く乗り切れば、済むことですよ。噂程度で足元を掬われるようでは、それまでのお方。翻弄してこそ我らが欲するお方」  「減らず口は、枯渇することはなさそうじゃな」  「まぁまぁ、冗談はそこまでにして、私が言いたいのは、噂も裏付けされる証があってこそ暴かれまっしゃろ。ならば、証とやらを片っ端に闇に葬ることだす」  「私に如何致せと」  「光秀と天海を結びつける目に見えて明確なるもの全てです」  「この姿は変えられぬぞ、どうする?」  「心配はいりまへんわ。容姿は修験道にて変貌なされまするでな。それは気にも掛けておりまへんわ。気にするのは人の癖が染みついた字による書ですわ」  「筆運びか?」  「はい。私もね。覚書の真偽を確かめるに幾度か用いました。癖はその者の生き様ですよって、厄介な証となるのですよ」  「書、か?ならば、筆を捨てよう」  「ですが、要職に就けばそうは行きませぬぞ」  「ならば、代筆を託すはまだ幼い我が子、光慶に任せることに致そう。私が見るもの関わるもの全てを学ばせましょう。筆運びは除いてな」  「宜しいのですか、息子さんを巻き込んでも」  忠兵衛は、含み笑いを浮かべて天海を見つめた。    「そなた…それも狙いか、ほんに喰えぬわ」  「だから、食っても旨くないって言いましたやろ」  「…そうか、そう言うことか」  「何がそうかなんだす」  「光慶に光秀天海を継がせようと考えておるのか」  「お察しが宜しいようで。この国の往く先を見守るには私たちは少々歳を重ね過ぎておりますわ。天海殿と家康が天下を治めれば、早々に家康は重職から退かせて裏で糸を引く存在に。万が一を考え、影武者を立てねばならないことを案じて。その予行練習ともなる光秀はんと光慶はんの入れ替わりですわ。身代が変わるは謀反の種。ならば、裏で睨みを効かせて謀反を封じるのが最善かと。それを可能にするには、影武者にお人を近づけないこと。表に立つのは天海を継ぐ者のみ。その天海も幻の様な存在でなければなりません」  「確かに」  「商売人が身代を継がせるのとは訳が違いますからな。武将となる者も命は尽きるもの。武田信玄のように。新たな武将を幼き頃より跪かせる仙人になって権力を振るうことこそ謀反を防げると私は考えております。それらを凌駕し、超越してこそ望みが叶うものと」  「そなた、そのような先の事を読んでおるのか」  「何度か聞きましたなその言い回し。まぁ、宜しい。今は目出度い時、苦言は控えましょう」  「いや、気になる申せ」  「では遠慮なく。先を考えていると思うのは、あんさんが先を考えていないと言うことを自ら暴露しているようなもの。気を付けなされ」  「分かった、くそー何か腹が立つ」  「だから、やめておこうと申し上げたのです」  「分かった、私が浅はかだった」  「分かって頂ければ宜しおます。え~と、そうそう、何故、先読みするかでしたな。それは、考えれば考える程、面白うなりましてな、幾多の局面を思い浮かべて楽しんでおりましたら、あれやこれやと、とんでもなく広がりましてな。だからと言って焦って土台作りを怠れば屋台は思わぬ処から崩れ落ちるもんだす。ほら、急がば回れと言いまっしゃろ、それですわ」  「尋ねてよいか?」  「なんでしゃろ」  「光秀と言う者が信長を討った。幾多の過程はあれど、そなたが言うには秀吉が天下人になると。なのに家康を天下人にしようと画策しておる。以前聞いた気がするが今一度聞かせてくれないか、それはなぜか?」  「そうだすな、以前と本気度が違うでしょうから捉え方も違うやも知れませんからなぁ。それではお答えします」  「秀吉が天下では何か都合の悪い事でもあるのか?」  「これは…私の勘、何ですがね」  「勘とは随分、あやふやだな」  「この、勘で今の私がありますのや」  「なら、その勘とやらは信じるに値すると言うことか」  「有難き幸せ、と言うんでしゃろかお武家さんの間では」  「ふざけないで、続けろ」  「そうですな、宜しおます。何故、秀吉では不都合、か、でしたな」  「ああ」  「確かに秀吉は今までの天下人とは違う方法で天下を治められるでしょう。頭も行動力もある。非の打ち所がない。でも、生い立ちが引っ掛かるのですよ」  「確かに秀吉は武家の出ではない。しかし、信長の家臣として立派に務めを果たしておった。それで今の地位を築いておる、その何が引っ掛かるのか?」  「武家のお方は対面とやらを大事になされる、家柄や血筋をね。信長はそれを破った。型破り、その例えが秀吉。秀吉は信長を親の様に慕い自分でも気づかぬままその思いを血肉にしているように見受けられます」  「師と仰ぐ者を追いかけて何が悪い」  「悪くはありまへん。しかし、家柄も血筋にも目もくれず有能な者を取り上げ、異例とも言える職に尽かせば武家社会にどっぷり浸かったお武家さんたちはどう思はるでしょう。しかも、頭のいい者は武術より算術ですよ。武芸百般など秀吉に取れば何の役にも立たない、いや、捨て駒としては重宝するでしょうけどね。私ならそうさせて貰いますわ」  「そなたまさか…」  「そのまさかが火種となる。秀吉が健在なら逆らう者を片っ端しに抑え込むでしょう。燻った火種は秀吉と言う鉄壁を失った時、乱れた流れを元に戻そうと異例を排除する氾濫を起こす。その勢いは、異例排除に留まらず、これ幸いに新たな覇権争いとへ繋がる、私はそう思います」  「ううん…、そなたの勘は興味深いわ」  「それは嬉しおますな、ほな、調子に乗らせて貰って続けさせて頂きます。 秀吉への懸念は自我が強すぎる処だす。私も閻魔会を作って組織を動かす立場になって気づいたんですがね、長にはふたつの顔があります。聞く耳を持つ者と持たぬ者。聞かぬ者は、天上天下唯我独尊。この世にたった一人の存在。信長と秀吉ですわ。これでは続きはありまへんわ。  慎重で心配性の家康は聞く耳を持つ人。私が知っている範疇で半蔵はんと木俣守勝はんの言うことは聞いてはりますわ。人の意見を聞くとは周りが見えている、いや気づかされることが多いと言うことだす。危険察知に敏感であれば、事前に手を打ちやすく、継続も叶い易くなる。金を投じるのなら継続する方に注ぐ方が得でしゃろ」  「分かった。では、信長を追いやったように秀吉を、と考えないのか?」  「考えましたとも。調べれば調べる程、私たちに勝ち目がなく、勝ち馬に乗るのも鶴の一声で翻るやも知れまへん。お武家さんを秀吉を脅かす程、牛耳るのは無理、無理、無理。それに光秀の謀反、首級の件で半蔵はんに骨を折って貰った際、自分が天下人になるのを邪魔しないことを条件に突きつけてきた。こちらの弱みを見越してね。その冷静さと損得勘定の決断に秀吉暗殺は諦めました。それに秀吉を強引に葬った後の第一人者が見当たらないのも要因のひとつです。織田家の牙城でいきなり派閥違いの家康が入り込むのも無理かと。それに骨を折ったとしても今の家康では、相手に屈することも十分にあり得ますさかい。そんな採算の取れない商売はできまへんわ」  「そなた、謀反と首級の件と言わなかったか?」  「こらぁ、参りましたな、良くお気づきで。そうだす、謀反の知らせをいち早く知らせたのは私共です。中国大返しにも協力させられましたよ。抜け目がないと言うか、計算高いと言うか」  「それによって私が、いや光秀の謀反は叶わなかった、と言うことか?」  「ほんまにそう思はりますか」  「違うのか」  「違いますなぁ。寧ろ感謝して欲しい程ですよ」  「感謝だと…」  「そうお怒りにならずに冷静に。もし、秀吉が中国大返しを行わず戻ってきていれば、もっと体制を整え、信長を恐れる各地の大名に脅しをかけるのは必至。そうなれば、光秀は袋の鼠。仮に光秀に一旦ついたとしても歯が抜け落ちるようにボロボロになるのは目に見えて明らか。現に協力を求めても叶わなかったでしょ。山崎の戦いで生き延びられたのは、秀吉の狙いを光秀から次期天下人に変えたからですよ」  「…。やはりあの謀反は無謀だったのか…」  「よく言い張りますなぁ、それは光秀はんが一番、ご存じのはずでは」  「なぜ、そう、言える?」  「ならば、お聞きします。光秀はんが戦場に必ず持って行ったと言う念持仏である地蔵菩薩仏像を山崎の戦いの前になぜ、京都・盧山寺に預けやはったんですか」  「それは…」  「ご自分でも覚悟なされていたと言うことでしゃろ。そもそも天下人になるのが目的ではなく、信長の排除。そこに信長の心変わり、イエズス会、私たちの企てが絡み、準備不足を余儀なくされた、謂わば、不本意での行い、でっしゃろ。一旦、天下人になりかけたものの不利と見るや直ぐに、他の者に譲ってもいいなど、本気で天下を狙い、動いた人の言葉とは思えまへんわ」  「…。もう、過ぎた事よ。口は禍の元か。思うとことを口に出すのは配慮がいるようじゃな」  「分かって頂ければ宜しおます。嫌な思いをさせたついでに言わせて貰えれば、下準備、根回しは事を成し遂げるには大事と言う事。念には念を入れたつもりでも、上手の手から水が漏れるのは心得て動かねばなりまへん。窮屈な企ては破綻しやすい。出来るものとそうでないもの分別、ゆとりが大事ですわ」  「学ぶべきことは多いようじゃな」  「はい。お気張りやす」  「…。しかし、そなた、なぜ、そのような先の事まで気に掛ける」  「冥途への土産、ですかな…。まぁ、今までの行いが行いですから極楽浄土とはいきまへんやろ。でも、地獄の沙汰も金次第と言いましゃろ。地獄で金がものを言うとは思えまへん。なら、鬼が楽しめる芝居とか催しでも出来たら鬼が面白がって何かと便宜を図ってくれるやも知れまへんがな」  「そなたと言う奴、どこまでが本気で冗談か分らぬな」  忠兵衛は、急に真顔になって強い口調でこう言い放った。  「冗談やおまへんで!」  その決意に天海は、本当にこの忠兵衛と言う得体のしれない男は、この国のこれからを思っている、と改めて確信を得た気がした。この時、天海として生まれ変わった光秀もその壮大な夢物語に新たな生き甲斐を見出したのです。  「うん、そなたの気持ち、確かに受け取ったわ」  「御無礼致しました年甲斐もなく…恥ずかしく存じ上げまする」   「構わぬわ。それより、今後は、本音で話し合えることを望む」  「有難き幸せで御座います」  「話し方が変わってはおらぬか」  「おおぉ、気づいてくだされましたか、成長されましたな」  「ほんに、逆なでするのが身についておるな」  「恐れ入ります。これからは、天下人になられる家康様の参謀としての天海殿にお仕えする気持ちで、私も鍛錬致せねば。壁に耳あり障子に目あり。親しき言葉は、今後、どのような災難を招くやも知れませんからね」  「見ておるがよい。そなたが減らず口を叩けぬような人物になってやるわ」  「ほぉー頼もしい。そのお言葉、お忘れなきように、天・海・殿」  ここに、後に黒衣の宰相・南光坊天海と呼ばれる謎多き人物が、誕生した。波乱万丈の明智光秀の生涯・第二幕が静かに上がったので御座います。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加