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目の前には、あえて腐食したかのように錆びた鉄のドアがある。シズカの目線よりは低い位置には、鉄でつくられた文字が「High 0/1」と刻んでいる。オーナー真下の趣味だが、悪くはないと思う。ドア脇の裸電球がなければ、その文字も読めないほどに薄暗い。
裏原宿の中心に近いながらも地下にあるHigh 0/1はメディアにも登場することのない隠れ家のカフェバーだ。店が開くのも夜8時以降とあって、常連以外の客が訪れることは少ない。かといって新規の客を拒んでいるわけではないけれど、店内がたいてい常連客で埋まってしまうため、他から訪れる客がなかなかリピーターにはなりにくい店でもあった。
無骨なレバーハンドルタイプのノブを押し開けて抑え、改めて彼女を見ながら「いらっしゃいませ」と微笑んだ。彼女はシズカの笑みを眩しそうに見上げて「ありがとうございます、助かりました」と頭をさげた。それから照明を抑えて夜の底でひっそりと息づいているようなカフェバーの店内を興味深そうに見渡しながら、店内へ足を踏み入れた。
「いらっしゃい。お一人ですか?」と店のオーナーである真下がキッチンカウンターの向こうから声をかけた。
「あの、待ち合わせしていて……」と彼女が店内を見回したとき、カウンターの奥に一人かけていた男が立ち上がって両手を大きく振った。
「真尋さーん」と呼ばれた彼女は、ホッとしたような笑みを浮かべた。
それはシズカのような他人に見せるものとは違う、親しみを含んだもの。心臓の深くに疼きを覚えて、それを引き起こさせた相手――仕立てのよさそうなスーツに身を包んだ男を見た。
20代後半ぐらいの、最近よく店に姿を見せるようになった諸角という客だった。もともと真下と顔見知りだったらしく、シズカをはじめスタッフはなんとなく丁寧に応対している相手だ。
シズカは真下がおしぼりをクーラーから用意しているそばに近づき、「かわります」と声をかけた。真下は小さく頷いてさがった。
レモン水をグラスに注ぎ、諸角という男性の隣に座った彼女のもとへ向かった。
「いらっしゃいませ」と声をかけながら、広げたおしぼりを差し出した。
彼女が顔をあげて何かを言いかけた時、諸角が顔をのぞかせるようにして「彼女に生ひとつ、それからカツサンド」とオーダーした。
彼女が振り返ると、諸角は少し茶目っ気をくりっとした両目に浮かべた。
「ここのビーフカツサンド、絶品なんです。よね?」
同意を求められ、にっこりと諸角に笑みを投げた。この笑みにやられない男はたいていいない。案の定、諸角は彼女の手前、態度にもたせていた余裕をなくしたかのように視線をそらした。
「少しお時間いただきますが、よろしいですか?」
「大丈夫。諸角くんがそこまで言うなら、きっとそうなんですね。楽しみ」
シズカを見上げた彼女は少し楽しそうに笑って、「それでお願いします」と注文した。その注文を改めて確認しながら、2人の距離をも確認する。
たぶん、まだそういう関係じゃない。互いになんとなく気になりつつある相手、というところか。
シズカはそれからもフロアで接客したり、2人の元に料理やお酒を運んだりしながら、それとなく様子をうかがいつづけた。
諸角はテンションが高いのか、それまで店で見せていた大人びた様子とは違い、少し無邪気な感じだ。いろんな話題を口にしているのか、表情がくるくると変わる。それに応じて、聞き役の彼女もまた相槌を打ったり小さく笑ったりしている。
誰の目からもいい雰囲気だ。
「いい感じだ」
カクテルを作っていた真下が2人の様子を微笑ましい目でちらりと見た。
「……ですね」
今まで感じたことのないべたりと体の内側にビニルが貼りついたような感覚に息苦しい。
「お似合いじゃないすか」
ちらりと真下がこっちを厳しい目で見やり、乱暴な口調を引き締める。客がいる場での口調に、真下はとてもうるさい。
「ようやく誘えたらしい。これ、5番に」
そう言って真下はワインレッドよりも鮮烈なカクテルを差し出した。5番は諸角の隣、彼女の座る席だ。華奢な脚のカクテルグラスの中で情熱的にも見えるアルコールは美しい。
「お待たせしました」と彼女の前にもっていくと、彼女は驚いたように顔をあげて、それから諸角を見た。
「諸角くんが頼んだの?」
「そ、真尋さんみたいじゃないですか?」
違う、彼女はこれじゃない。
酔いに任せた諸角の言葉に思わず否定の言葉が出かけて飲みこんだ。
そう言う諸角はいつになくその目元を軽く染めている。酔いだけじゃないのだろう。彼女への好意がわかりやすいほどだだ漏れしている。
そしてそれはたぶん、彼女もわかっている。わかっている彼女は、どうする気だろう。どうもしないでほしいと、意地悪な気分が頭をもたげるのから目をそらした。
「諸角くんの中では、こんなに鮮やかなイメージなんだね」
席から離れかけた時、穏やかにお礼を言った彼女の横顔がわずかに曇ったように見えた。
真尋という名らしい彼女もまた自分のイメージに違和感を覚えているのかもしれない。
だって彼女は、そんなわかりやすい赤ではない。そう、自分なら、とシズカはふと視線を彼女の横顔に戻した。
とろりとした白をうわべに含む、一見は暗めの青碧。底にいくほどに濃く、深みを増した紫みのまじった夜のごとき。でも光に透かせば燦然と澄んだ水色に輝くけれど、それはそうしなければ気づけないもの。こういった薄暗い店にある時や普段。そういう日常では、むしろ暗い影に身をやつしているかのようで、その秘めた輝きは簡単にはうかがい知れない。
そんな静謐さ。複雑さ。ならば、あのラベンダーシロップ、それからレモン、ベースは何がいいだろう。テキーラかウォッカか。
あなたをイメージしたカクテルだと差し出してみたら、彼女はなんというだろう。微笑んで、黙って口をつけるだろうか。それとも、感想を言ってくれるだろうか。おいしいと、そう言葉にして、シズカの存在を心に落としてくれるだろうか。
仕事をしながら、そう想像したら、彼女の心の襞にふれてみたいと思った。
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