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1 シズカ
その日はやけに静かな空気が原宿に降りていた。
いつもは日付が変わった後でもぶちまけた玩具のがちゃついた感じや、目を覆い隠すウエーブがかった前髪の毛先にも黒いネイルをした指先にも粘着的な感じがまとわりつくほどだ。なのにどんなに細く複雑な路地にも人の匂いというものがない。
年に数度しかないこういう夜を嫌いではない。むしろこんな夜の方がいい。
ほんの15分の休憩のはじまりにタバコに火をつけた。今は電子タバコのほうが多勢だけれど、どうもあのスマートでない形になじめず、頑なに紙タバコのままだ。
減り続ける喫煙場所も紙はだめで電子ならよいという流れができている今、紙タバコにこだわっている方がむしろかっこ悪いかもしれない。
店の裏口のドアの横にしゃがみこみ、店の中から拝借してきた灰皿に灰を落とした。その時路地を挟んだ正面のドアが開いた。
ブラックのコック服に身を包んだ髭面の男が顔を出した。
「お、シズカ。休憩?」
「っす。高橋さんとこどうっすか」
「……ヤンキー座りのその顔で、っす、とか言われっとビビんなあ」
イタリアン料理店のオーナーシェフである高橋は苦笑を浮かべながら、しげしげとタバコを吸うシズカを見下ろした。
「髪長いし、メイクしてんのもあんだろうけど、やっぱ女にしか見えん」
「ふふ、この顔に騙されて何人男が泣いてきたんでしょうね?」
甘い声音とともに、流し目で高橋をみあげる。
「こっわ。シズカが言うとマジ冗談に聞こえんわ」
高橋は震えるかのように両腕で自分の腕をさすって、それから裏口のそばに据え置いてある大型の冷蔵庫から肉をとりだした。
「髪短くしてメイクやめときゃいいのによ。まあ……オレが口出す部分じゃないんだけどさ、ただこの前だってヤバかったんだろ?」
「あー……っすね」
「けっこう周り、気ぃつけてお前んこと見てやってんぞ?」
「すみません」
「いや、別に謝ってもらいたいんじゃなくてさ。シズカ、ストーカー製造機すぎんだよ。いつかマジで男に殺されんじゃないか気が気じゃない」
高橋の言葉に苦笑しながら、最後の一服を吸う。そして肺に吸い込んだ煙を吐きながら、灰皿に残りを押しつけた。そのタバコの吸口には赤い跡がしっかり残っている。
誰に何を言われても、メイクをやめたいとは思わない。男の体をもつ自分が、格好も含めて見た目が女に見えたところでどうだっていい。別に誰かのためにメイクをしたり、女物の服を着たりしているわけではない。
立ち上がりながら、ブラックのワイドパンツに寄ったしわを軽く直し、それからサロンと呼ばれているロング丈エプロンを整えた。ロールアップしていた袖をおろし、手首を一周するトライバルタトゥーがしっかり隠れるようにボタンをきっちりしめる。くつろげていた白いバンドカラーもきっちり上までしめた。
「高橋さん、もう閉店時間じゃないすか?」
「これから明日の仕込みだよ」
高橋はもの言いたげな顔をしながら、「本当に気をつけろよ」と言いながら中に入っていった。
顔を仰向けると、アパレルショップと飲食店で密集した路地の狭い空が見えた。
普段から星も月も見えない空はいつにもまして黒々としている。今にも落ちてきそうな雲が含む湿気に肺がタバコの匂いで重くなる気がした。
高橋をはじめとした知り合いの心配や不安がわからないではない。
女だと勘違いして口説いてくる男は実際に多いし、その中から粘着的につけまわす男もいなくはない。だからといって、自分の好きなものや信念を曲げたら、それこそ相手に屈したようでおもしろくはない。
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