1 シズカ

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 休憩も残り5分を切ったところで、ため息をつきつつ裏口のドアに手をかけた時だった。  路地の向こうに、いかにも原宿とは縁のなさそうなビジネススーツの女性が姿を見せた。その足取りは重く、表情も暗い。というより、どこか途方にくれた雰囲気だ。  なんとなくドアノブに手をかけたまま様子をみていると、女性はスマホに視線を落として、それからくるりと回した。あたりを見回して、さらにスマホをくるり。くるり。……また。  その様子にすぐに彼女がどんな状況に陥っているか想像がついた。なぜ地図が読めない人は地図を回そうとするのだろう。そのまま放っておけもせず、呆れつつ声をかけた。 「どうされました?」  人がいると思っていなかったのか、彼女はびくりと震えて、それから改めてシズカがいる方を認めたようだった。  そして一瞬の間を置いて、シズカに向かって足を踏みだしてきた。 「すみません、このあたりにHigh 0/1というカフェバーありませんか?」  張り上げられた声は凛と路地に響いてシズカの耳に届いた。  「それなら」と同じくらいの音量で言いかけた時、まだシズカからは離れていた彼女が身をこわばらせたような気がした。その瞬間、背後に気配を感じて振り返ったと同時に腕を強く掴まれた。 「見つけたぞ、シズカ」  内心舌打ちをして、向き直る。  そこには、わずかにスーツをラフに着崩した20代半ばぐらいの男が立っていた。 「久しぶりですね、垣沢さん」 「久しぶり? ずっとオレを無視しやがって」  剣呑とした声音に、相手の男、垣沢の掴む手に手を添えた。 「無視だなんてそんな、お客様にできませんよ」  やんわりと押し留めるようにしながら、強い力で掴まれた腕をねじるようにして引き離していく。  それと同時に垣沢の顔が歪んでいくのを遠い世界のことのように眺める。 「客? 客だって?」 「店に来ていただいてる大事なお客さまです、垣沢さんは」 「ふざけんな、シズカ、お前、客と簡単にヤんのか……!」 「垣沢さん、言葉が過ぎますよ。あの時はあんたが弱ってらしたじゃないですか。元カノそっくりだ、慰めてほしいだ、そんなふうに切なく訴えられればそういう気になる時だってあるでしょう?」 「じゃあ、なんだ、あれは同情だってのか!」 「そう思いたければどうぞお好きに」 「お好きに、って、だ、だってお前、あんなに……」  そこまで言いかけて垣沢が口を開けたまま空気を求める魚のように喘いだ。  シズカとセックスした男が、いや女もだが、言いたいことなど聞かなくてもわかる。というより、誰もがそう言って別れの際にすがりついてくる。  忘れられないとか、あんなに愛しあったのは初めてだとか、最高の相性だとか。  わざわざ時間と体力を使ってセックスするのだから、気持ちよくなりたいだけだという、その単純な理由に誰も何を重ねているのだろう。  面倒くさい。  思わずため息が小さくこぼれた。 「垣沢さん、寝たことに意味なんて求めるのやめましょうよ」  垣沢の顔が怒りで赤く染まった。 「シズカ……! お前……」  男同士の腕力は拮抗していて、無理に腕を押さえ込まれつつあった垣沢のもう片方の腕が動いた。  殴られるとハッとした瞬間、鋭い声が響いた。 「やめてください!」  近くに人がいることに気づいていなかったのか、垣沢が動きを止めた。  声がした方を見ると、さきほどの女性が2メートルも離れていないところから、嫌悪と怒りとに染まった眼差しで垣沢をまっすぐ見据えていた。  黒々と深く濡れた、その確固とした意志のある双眸は強烈で、一瞬、シズカは吸い込まれるかと思った。  垣沢の反応はどうか知らないけれど、息を飲んで彼女を見つめた。  この数秒、呼吸するたびに、彼女が深く自分の内側に入りこんでくる気がする。  彼女はヒールの音を地面に打ち付けるようにして近づいてくると、垣沢を見あげるようにした。  シズカと同様、垣沢も上背がある。2人並ぶとそこそこ迫力があって、女性陣には黄色い悲鳴で騒がれるか、怖がられるかのどちらかなのだが、彼女は微塵も動じていない。 「警察呼びますよ」  強い言葉に垣沢が怯んで、腕の力が緩んだ。あまりに情けない表情に、さすがに少し哀れだった。 「垣沢さん、また、お店でお待ちしてますね」  すかさず、たいてい相手を黙らせると言わしめる微笑みを浮かべた。  それに惚けた顔を見せた垣沢は慌てて目をそらし、毒気を抜かれたのを見られたくないかのように足早に立ち去った。  すぐに彼女に向き直って「ありがとうございました」と言うのと、彼女がシズカに「ごめんなさい」と謝るのは同時だった。  一瞬戸惑ったのは彼女も同様だったらしい。  ふと落ちた沈黙が乾ききらぬうちに思わず小さく吹き出すと、彼女はどんな顔をすればいいのかわからないといったふうにかすかに首を傾げた。 「ごめんなさい、その、事情もわからずに」 「いいえ、変なことに巻き込んでしまって」  深く突っ込まれたくない。なによりさきほどの垣沢との関係を誤解してほしくない。なかば微笑でねじ伏せるような形で言葉を続けた。 「High 0/1でしたよね? すぐそこなので、案内します」  よくわからない焦りのような気配を身のうちに感じながら、促すように軽く背中に手を添えると、彼女との距離が一気に縮まった。  ほんのかすかに、甘さと爽やかさと、汗が混じった香りが、彼女からする。  一瞬、シズカの顔を見た彼女は目が合うとさりげなく伏せながら言った。 「背、高いですね。モデルさんみたい」  彼女も女性にしては低くくない方だろうけれど、シズカとは頭ひとつ分以上の差がある。 「よく言われます。でも」 あなたも、モデルみたいに綺麗ですね。  接客商売柄、いつもならそんな言葉がためらうことなく出るのに、喉の奥に引っかかった。  彼女に惹かれたその理由を探しながら、それでも今の言葉は彼女のほんのかけらも表さない。むしろ、その俯き加減の横顔は涼しいのに、隣の店がガラス越しに残した店内の光が顕にした彼女の耳を染めた赤さが鮮やかに触れてみたい欲望にかられる。  性別に関係なくたいていの人が、シズカにそうされると顔を赤らめる。そんなことには慣れっこだったのに、見ず知らず相手である彼女が内心動揺していることがほのかに胸の奥を揺らす。 「でも?」  ハッとして、言いかけた言葉の先を待つ彼女になんでもないと頭を振り、それから目の前の雑居ビルの通路に誘い、奥に顔を向けた。 「あの奥の階段を降りていくとHigh 0/1です」 「これは……わからないですね」  苦笑した彼女を先導するように通路を歩いていく。 「初めての方はたいてい迷われます」  通路には小さな裸電球がぼうっと等間隔で灯され、わずかな灯りを足元に投げかけている。彼女は少しためらうようにしてからシズカの後ろについていくる。 「あの、もしかしてお店の?」  背後の言葉に頷き、階段を3段ほど降りて、手を差し伸べる。 「暗いですから、手を」  彼女が少しためらい、それから手をのべた。  細い指はひんやりとしていて、秋口のかすかな風に胸の奥を撫でられたような心地よさを感じた。 「同じ女性にエスコートされるって、不思議な気分ですね」  照れ隠しなのか、彼女が少し早口で言った。  その言葉を訂正しなければ、彼女にもっと触れていられるだろうか。よぎった計算を肯定して、沈黙を返したままゆっくり階段を降りた。 ***
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