1 シズカ

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 諸角が帰るそぶりを見せ始めた頃には、彼女もだいぶ寛いでいるようだった。諸角と入れ替わるようにして化粧室から戻ってきた彼女は少し胸をなでおろすように息をついた。  フロアに向かいがてら、レモンの輪切りを入れたレモン水のグラスを彼女の前に置いた。  目をあげた彼女は「ありがとうございます」と丁寧に頭をさげて、すぐに口をつけた。形のいい唇が、グラスの中のレモン水を一気に飲み干す。相当酔っているのだろう。 「もっとお持ちしましょうか?」  グラスの底が見えたレモン水のおかわりを促すと、彼女は頭を振った。 「大丈夫です。お食事もおいしいから、ついお酒も進んでしまって」 「気に入っていただけたらよかったです」  笑みを浮かべると、彼女が少し眩しそうにしながら、柔らかに目を細めた。見惚れてくれている、とわかって、「どうなさいました?」と尋ねる。 「え、あ……いえ、本当に、おきれいな方だなと思って」  ささやくような声音に、体の芯が、つ、と熱くなった。  彼女は、シズカを女性だと思っている。それでも彼女のその両目が自分を映し、そして彼女の心を揺らしていると知れただけで、じわりと柔らかな火が灯った。 「そう言っていただけると光栄です」 「ふふ、光栄、なんて。私より全然若そうなのに」  言葉遣いが彼女のツボに入ったのか、小さく肩を揺らして、彼女が笑う。その内側に秘めた柔らかな光が垣間見えた気がして、今なら、と思った。 「今度はぜひ、お一人でいらしてください。褒めていただいたお礼、そして、上で助けていただいたお礼、させてください」  少し目を見開いてから、彼女が笑みを深めた。 「今度は迷わないで来ますね」 「迷ってもご連絡いただければ、お迎えにあがりますよ」  手近なカウンターからコースターを引き寄せ、胸元のペンを抜きながら言葉を続けた。 「連絡先です」  さらさらとコースターの裏に数字と英語を書きつける。  それが何を示すか、彼女はすぐに気づくだろう。そう思うといつになく心臓の音が煩わしく、厭わしく、そして、くすぐったい。 「ありがとう」と彼女が言いつつコースターに目を向けた時、諸角が戻ってきた。  彼女がそのコースターの裏の数字と英語の羅列の意味に気づく間もなかった。客と店員でしかない関係に、新たな名前をつける日がほしいから渡したコースターは彼女のバッグの中に消える。  今すぐ見てほしかった。  そして彼女の反応がほしかった。  今、ここで。  その性急さにシズカは自分で気づかないまま、剣呑とした視線をゆっくりと彼に移した。諸角が動揺するのがわかった。  表に出せない怒りや苛立ちがあると、シズカの目つきは凄みさえ感じさせる色気に染まるらしい。相手、諸角の反応が如実にそれを物語り、ハッとする。意識的にそれを封じる冷たい鎧をまとい直した。  バッグの中から財布をとりだした彼女に、諸角は「今日は」と制した。 「あ、えーっと、真尋さん、そろそろ出ましょっか。すみません、シズカさん、お会計お願いします」  自分の名前を、真下からでも聞いたのだろう。とはいえ、さん付けされたということは、諸角が自分を女性と見ているのもわかった。どこか近寄りがたいと言われるためか、明らかに年上の人間からでも、シズカをさん付けする人は多い。それも女性だと勘違いして。  いろんな意味で好都合。そう思いながら、諸角に「少々お待ちください」と、改めて笑みを浮かべ、精算作業に入った。 ***
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