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四
「黒墨というのは母親の姓でね。両親は籍を入れなかったので、僕も戸籍上の名前は黒墨京作という。でも生まれてすぐ父親に引き取られたし、その家業を継ぐのもわかっていたから、ずっと父親の性を名乗ってきた」
「鬼瓦組、鬼瓦……」
「うん、そう。ここでは黒墨京作として暮らすわけだが、もう仲間にすらこちらのほうが偽名だと思われてしまっている」
民家にしては変わったつくりの建物だった。
木戸をガタガタと開けると、コンクリート造りの何もない空間がぽっかり広がっていた。ちょうど、さっきまで瑠璃子が入院していた東診療所の大部屋がすっぽり入ってしまうくらいだろう。
そこを突っ切ると、左側の二割ほどはそのまま通路として長く伸びて庭に繋がっており、右側には木枠のガラス戸で仕切られた部屋があった。これもガラガラと開けつつ靴を脱ぎ、膝まである段差をよいしょと上る。玄関ではなく縁側から直接居間に上がり込むような感じだ。
正方形をした部屋に、座卓、黒電話、古そうな壁掛け時計などがある。それに、
「テ、テレビ……テレビがある……」
「奥の台所を右に行くと、風呂場、洗面台、便所だ。その向こうにもいくつか部屋がある。正面から見ると小さそうな平屋建なんだけど、わりと奥行きはある建物なんだ」
「あ、はい……」
「僕はここと右にある六畳を使うから、君は奥を好きに使うといい。ここを通らなくても庭から出入りできる。部屋に鍵が欲しかったら、さっきの魁君あたり呼んで襖をドアに替えてしまうから遠慮なく言うんだよ。それと、察馬先生の奥さんに見繕ってもらったものを置いてはおいたんだが、他にも必要なものがあればすぐ用意するよ。その鞄を置きがてら、少し確認して来てもらえるかい?」
「あ、はい……」
「このテレビもそっちに移動させようか」
「滅相もないです!」
慌てて部屋を出て奥へ向かった。
テレビがあるのだからもう驚かなくてもいいのだろうが、台所には冷蔵庫、洗面所には洗濯機が置いてあった。どれも発売されたばかりの新品だ。この三種の神器にさっきの改造車を合わせようものなら、いよいよ庶民には気の遠くなるような金額になることだろう。
自分にと言われたスペースも広すぎではあったものの、内装や家具はひとまずべらぼうに高そうではなかったのでほっとした。清潔な布団や着替え、机と椅子、箪笥に本棚に鏡台まで置いてあり、困るどころかもったいないくらいだ。
鏡台に鞄を置いてふぅと息を吐いた。黄土色の髪と群青色の瞳を持った少女が、相も変わらず不安そうな顔をして映っている。
「……」
それはそうだ。病室でひとり、夏の夜に染まった窓を覗き込んだあの時から、まだ三十分程度しか経っていなかった。そんな短時間で顔つきが変わるわけもなく、記憶も何ら取り戻せてはいない。
けれどあの白い病室を一歩出た瞬間、まっさらだった瑠璃子の世界は大きく動き始めた。それだけは確かだ。
朱鳥会という組織に命を狙われている。理由はわからない。実感も追いついていないけれど、でも、そう言っていいのだと思う。
そして、護られている。鬼瓦組に。鬼瓦京作という人物に。
あの人は、この柊木町から出られないという制約を自らに課してまで。自分の人生を犠牲にしてまで、この身を護ろうとしてくれている。
「……?」
鏡の中の瑠璃子の口元が動いている。
――それは。
――そんなのは、だめ。
ぐしゃりと顔が歪んだ。怒りに満ちた目でこちらを睨めつけている。それは鏡面に走り寄り、こぶしで打ち叩き、悲壮なまでに絶叫した。
――早く、早くここから出て行って!
――これでは一体なんのために!
――こんなのは、絶対に受け入れられない!
「ひッ!? いやっ、いや! いやあーっ!」
鏡台から鞄が落ち、中身が足元に散らばった。両手で頭を抱え、髪を振り乱し、よろめきながら後ろに下がっていく。
「いやっいやあ……! あああ……!」
「どうした!」
背中から襖に倒れ込む寸前、それがパッと開け放たれ、力強い手のひらに受け止められた。
下半身が萎えて、抱えられたままずるずるとへたりこむ。
髪の隙間から鏡をめがけ、手元に転がっているものを何でも投げつけた。全力で投げているつもりなのに、とてもそこまで届かない。うまく手が上がらないのだ。
誰だ、この体を締め付けているのは誰の腕だ。恐ろしいものがそこにいるのに。どうして、どうして、どうして邪魔を。
「……瑠璃子ちゃん」
その男は、とても大切そうにその言葉を囁いた。
「瑠璃子ちゃん」
「……あ……」
それは、自分の名前だ。
右手で掴んで投げようとしていたものが、ぽとりと畳の上に落っこちる。古ぼけた黄色いキャラメルの箱だった。
男の腕は少し力を緩めたあと、撫でるように体の上を移動して、もう一度やさしく抱き寄せてきた。ただそれだけのアクションに、ぴくりと体が反応する。
「んっ……ふ……」
短い息を続けざまに吐く。あたたかな未知の感覚に戸惑いを覚えながら、なんとか息を吸いこもうとする。
それと一緒に顎も上がり、ふと鏡に映るものを見上げる形になった。後ろから京作に抱き締められながら、パンツ丸見えで床に座りこむ自分が映っていた。
「あわわわわわ」
急いでスカートを引っ張り脚を伏せる。一気に現実が押し寄せてきて、今すぐ消えてなくなりたいという気持ちになった。
けれど、京作は半狂乱になったばかりの子供を放っておいてなどくれなかった。膝立ちになってするりと前にやって来る。うつむいた顔にかかる黄土色の髪を指で直しつつ、やさしく声をかけてきた。
「大丈夫かい? 瑠璃子ちゃん」
「……」
「ごめんね。急にいろいろなことがあって疲れてしまったね」
「……」
「事情を説明すると言ったけれど、それは明日にしよう。今日はゆっくり休むといい」
「……いいえ。お話が聞きたいです」
「おやすみ」
大きな手は髪を直し終え、頬を撫でてからそっと離れていこうとする。瑠璃子は涙をこぼしながら瞳を開けて、縋るようにその手を見つめた。
この人の前から消えることができないのなら。それならば、もっともっと触れていてほしい。名前を呼んでほしい。そうでなければ、この人にそうしてもらえなければ、一晩と保たず自分の存在を見失ってしまいそうだった。
宙で動きを止めた手をおそるおそる取って、もう一度自分の頬に持ってくる。硬くて熱い、それでいてとてもやさしい手のひら。自分のかたちを教えてくれるその熱を、とても大切なものだと自覚する。
「……君は、見てはいけないものを見てしまったんだ」
すり、と親指が動いて、とめどなく涙のあふれる瑠璃子の目元に触れた。
「朱鳥会はその情報が流出することを恐れている。追われる君を匿ったことで、僕は彼らに敵愾心ありと見なされるようになった」
「……」
「フフ、そんな顔しなくてもいい、どうせ嫌われて困るほど朱鳥会のことを好きではなかったのだし。……だが本当に、君から情報を得てどうこうしようという気はなかった。君を護れればそれでよかった。けれど君は自分を責め、僕を護るために、すべての記憶を捨てて姿を消すという道を選んだ。君にはその方法があり、実行することができるということを、その時の僕は知らなかった」
「……」
「僕は記憶を失った君を再び保護し、馴染みの察馬先生に託した。そして朱鳥会には、君が行方をくらました、記憶を失っていたからもうこれ以上追いかけても意味はないと伝えた。……だが、それでも事態は変わらなかった。……僕にも仲間というものがいる。鬼瓦組だ。これ以上彼らまで危険因子と見られてしまうわけにはいかなかった」
「……」
「鬼瓦組は、表向きはただの解体業者だ。だけどずっと前の代から裏の仕事もやっていた。汚れ仕事の下請け屋みたいなものだ。朱鳥会のような大きな組織から金をもらい、どんな仕事でも引き受けて淡々とやっていた」
「……」
「そんな僕が突然、誰に頼まれたわけでもなく君を匿ったりしたので、朱鳥会はびっくりしたということだ。手下のようなものだからと安心していたのに、これが敵対するとしたら? ……僕が思っていた以上に朱鳥会は鬼瓦組を評価していて、その分驚異と考えたようだった」
「……」
「僕は朱鳥会の頭領と交渉した。朱鳥会はもう稲羽瑠璃子を追わないこと。その代わり、鬼瓦組は間違っても朱鳥会に刃向かえないよう力を削ぐこと。あちらからは僕を殺せという意見も出たが、仲間が粘ってくれて、結局この町に軟禁という形で落ち着いた。今夜は早速そのどちらも破られることになったが。……高取にも言った通り、僕は殺し合いがしたいわけじゃない。君を護れれば、それだけでいいんだ。……」
「……わたしは」
また離れかけた手をしっかりと捕まえて、自分の手と涙で挟みながら、瑠璃子はとうとう訊いた。
「わたしは、誰なんですか。あなたはどうしてそこまでしてくださるんですか」
「君は。……君は、この暗い世界に何の関わりもない人だよ」
「本当に?」
「そうだ。今はここで暮らしてもらうしかないが、事態が落ち着いたら必ず元の世界に帰す。約束する」
「元の世界って、なんですか。わたしはどこに行けばいいんですか。なんにも覚えていないのに。あなた以外に誰も迎えに来なかったのに」
「きっとある。君の本当にいるべき場所が」
「そこにあなたはいますか?」
「いない。それが正しい」
「――だって、あなたが。あなたがわたしを捕まえたんでしょう。わたし、もうさようならだと言ったのに、あなたが、あなたが。それなのに、もう一度離れていくなんて、わたし、絶対にできません」
「……覚えているのかい?」
「覚えてません、何も、何も……」
「……そうだ、それでいい。何も思い出さなくていいんだ。さあ、お話は終わったよ。もうおやすみ」
「っ、やだ、やだぁ……」
「だめだよ……」
泣きじゃくって駄々をこねて、よろよろと黒い着物の胸に身を寄せる。
そのまましくしく泣いていると、本当にしばらく時間が経ったあと、そっと頭と背中に腕がまわった。全身をすっぽりと黒に抱かれて、ほうと安堵に満ちた吐息が漏れる。
「……わたし」
「うん」
「わたし、もっと昔、子供の頃。あなたに会ったことがありますか」
「うん、あるよ」
「……わたし。わたし、なくしてしまいました。大切な思い出なのに」
「僕が覚えている。なくなったりしないよ」
「……」
「……」
「……お、おにがわらさん」
「……」
「くろすみ、さん」
「……京作でいいよ。瑠璃子ちゃん」
「……京作さん」
「うん」
「京作さん。京作さん、京作さん……」
そのまま泣き疲れて眠ってしまうまで。瑠璃子は何度も何度も、その懐かしい名前を口の中で転がし続けた。
いつかの甘いキャラメルのように、ころころ、ころころと。
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