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三
車を降りてその家屋を眺める。一番近い街灯の光がなんとかこちらまで届いていて、閉ざされた古い木戸と、横に掛けられた真新しい表札の文字を見て取ることができた。
「黒、墨……」
黒墨。誰の家だろう。
自分の名字は「稲羽」らしいし、京作は「鬼瓦」だと言っていた。するともしかして魁の? 「魁」が下の名前なのかどうかはわからないけれど……。
後ろを振り返る。
魁だけが車内に残っていた。開けた窓枠に両腕を重ね、そこに顎を乗せて京作を見上げ、何やら言い含められている。
「ありがとう、気をつけて帰るんだよ。もう今までのように一緒にいられないけれど、壬生や軍次の言うことをよく聞くんだよ」
「なー、たまにはここにも来ていいんだろ?」
「まぁ僕からもまたお使いやらを頼むと思うが……基本的には勝手に来てはいけないよ。壬生たちがいいと言ったら来てもいい」
「そうかぁ……うーん……」
顎をぐにゃぐにゃ転がす若者は、これまで抱いていた印象よりもずっと幼く見えた。瑠璃子の目にはふたりとも二四、五歳くらいに映っていたのだが、もしかすると魁のほうはもっと若いのかもしれない。
「そういえば君、まだ彼女に名乗ってもいないだろう。挨拶」
京作が体の向きを変えると、魁の視線もつつっと移動した。縫い合わせて作ったみたいに傷だらけの顔が、初めてちゃんとこちらを見たのだ。
「おーい、お豆腐ー」
「お……お豆腐?」
それはまさか自分のことだろうか。彼の中ではさっきの喩え話がまだ続いているのだろうか。呆然とする瑠璃子の視界の横のほうで、京作が片手で頭を抱えていた。
「蜂矢魁だ。またな、お豆腐」
「えっ、あっはい! よろしくお願いします。わたしは、ええっと……稲羽瑠璃子で」
す、と言った時にはもう既にエンジン音に掻き消されている。人気のない深夜の町を、車はまた元通りのすごい運転で走り去ってしまった。
「……ごめんね。悪い子ではないんだ、とても頼りになるし」
「あ、はい。それはもうなんとなく……」
「謝りついでに、もう好きに呼ばせてやってくれるかな……。この際お豆腐だと思わせておいたほうが今後も丁寧に接してくれると思う。そういう子なんだ」
「そうですか……はい。わたしは問題ないです」
「本当にごめん、僕が変な喩え方をしたばかりに……」
「そんな、いいんです、本当に大丈夫です」
頭まで下げられてしまい、慌てて胸の前で両手を振った。
実際、これからも誰にどう呼ばれようが戸惑いだけが先行して、特に何とも思わないような気がする。記憶を失くし、自分がどこの誰なのかもわからないのだ。稲羽瑠璃子という名前さえまだ馴染んでおらず、今だってとっさには口に出来なかったほどなのだから。
顔を上げてもまだ申し訳なさそうな青年を見て、ふと思う。そういえば、この人のことは何と呼べばいいのだろう。
鬼瓦さん? いや、察馬医師はパトロンだと言っていて、医療費はこの人が負担してくれたようなのだ。鬼瓦さんでは気安すぎるかもしれない。
しかも医療費どころか、改造高級車をボロボロにしてまで送って来てくれている。ただのお金持ちとも言えない銃器を行使して。そういえば魁は親分と呼んでいたっけ。だめだと本人に禁止されていたけれど……。
この人は一体何者なのだろう。
「お帰り、黒墨さん」
生ぬるい夜風とともに、突然すぐそばの影が質量を持った。
息をするのも忘れながらゆっくりとそちらを見る。いつの間にか瑠璃子を庇う位置に京作がすっくと立っており、帯に差した刀の鞘に左手をかぶせていた。その奥、「黒墨」家の木戸の隅に、膝を立てて座り込む浮浪者のような男がいる。
背筋に汗が伝った。記憶喪失だと告げられた時よりも、魁の運転に振り回された時よりも、狙撃で窓がひび割れた時よりも、ずっとずっと今のほうが恐ろしかった。
だっておかしい、絶対におかしいのだ。さっき見た時は誰もいなかったはずなのに。
「そんなに驚きなさんな、俺はずっとここにいたよ。気づいてくれてたのはそこの二枚目だけだがね」
思考を読んだかのごとく男は言い、薄い唇の端で笑った。顔の上半分に薄墨を零したみたいな大きい痣がある。
「調子はどうだね、稲羽瑠璃子。いや、光瑠かな。それとも葵太佳あたりが少女の振りをしているのかな」
「なに……な、にを、言って……」
痣の中から暗い双眸が現れ、それを向けられたとき、耳鳴りを伴う頭痛が瑠璃子を襲った。足元がくらりとし、思わず黒い着流しの背中に縋りつく。
「耳を貸すことはないよ。あれは高取正助。例の朱鳥会の人間だ」
京作が静かに言う。
「高取。そこで黙って座っているだけなら放っておいてやるつもりだったぞ。どうせ監視はされるんだろうからな」
「黒墨さん、そこなお嬢さんはずいぶん俺を恐がるね。本当に記憶を失くしているのか疑わしくなってしまうなぁ」
「君がどう思ったところで事実は変わらないし、君たちの頭領は既に条件を飲んでいる。余計なことを言ってないで姿を消せ。もうこの子の前に現れるんじゃない」
「取り決めを破ったあんたに言えたことかね。これから永久にこの町から出ないと誓ったじゃないか。ありゃ嘘か。あんたの無力化という美味い条件があったればこそ、うちの頭は頷いたのだ」
「……」
ぶわ、と、黒い背中が熱を持ったような気がした。
「……だったらこの子の居場所を東診療所と突き止め、その周りでこそこそしていた連中は何だ。鬼瓦組があそこに張っていなかったら、僕たちがこの子を引き取りに行かなかったら、何をするつもりだった。朱鳥会がまだこの子に危害を加えるつもりなら、それこそ約束が違う。契約違反されたとわかって座っていられるほど僕はお人好しじゃなかったというだけのことだ」
――これは何だ。いったい何の話をしているのだろう。
熱い背中に隠れながら、瑠璃子は瞬きすらできずに硬直していた。ドクドクと自分の心臓だけが暴れているのがわかる。
稲羽瑠璃子は朱鳥会に狙われている?
この人は、鬼瓦京作は、永久にこの町から出ることができない? 朱鳥会とそういう取り引きをした?
……稲羽瑠璃子の身の安全と引き換えに?
まさか。
なんだそれは。
そんな馬鹿な話があっていいわけがない。
だって、そんな。
この人にそこまでしてもらう価値が、自分にあるわけがない。
「……すまない。いきなりこんな形で聞かせるつもりじゃなかった」
うまく呼吸もできなくなった瑠璃子に、青年は小さな声でそう詫びた。苦しげなその言葉が、高取から目を離さないその鋭い態度が、すべて事実であることを痛いほどに物語っていた。
興味深そうに京作の顔を眺め、高取が続ける。
「診療所の周りにいた連中、ね。朱鳥会はそんな奴ら知らんぞと言ったら終わってしまう話だが」
「車の中の僕ならなんとかなると考えたらしく、走ってる間に襲って来たんだが、そうか、知らないのか。実はいつまでも人参畑に寝かせておくのも良くないと思って、もうみんな鬼瓦組が連れ去ってしまったんだ。起きたら話でもしてみるか」
「なんだ、殺さなかったのか。……禁を破ったあんたのせめてもの誠意なのかもしれんが、こうなると逆手だね。それにしても、いやはやこれは。……うーん、ちょいと試してみたいな」
「……何を」
「……」
高取はどす黒い痣の中で、いよいよ針のように目を細くした。
やおら立ち上がる。座っているときは老人のように小さく見えたのに、立つと壮年の男にしか見えなかった。痣こそそのままだが、顔まで生気が満ちてまるで別人のようだ。
薄く瑠璃子に笑いかけた一瞬後には、京作の目の前、数歩あった距離をほとんど詰めている。手にはナイフ。同時に京作も一歩踏み込み、鞘ごと刀を走らせた。柄頭で高取の上腕を下から突き、右手で顎を掴んでそのまま地面に叩きつける。
高取は激しく背と後頭部を打ちつけたように思えたが、飛んだナイフがまっすぐ木戸に刺さった音以外、夜の町には何の空気の震えも生じなかった。代わりに、くつくつと幽霊のような笑い声だけが地べたから聞こえる。喉を押さえつけたまま、京作は無言で仰向けの腹の上に座った。
「なんという貴重な体験だ、まさかあんたという人に斬られるでなく投げられるとは。これも誠心か? それとも、どうしてもその少女には血を見せたくないというわけかね?」
「……」
「まぁ見事に負けたんで、こりゃ脅しでもなんでもなく、俺の立場を抜きにしたただの忠告だが。……ぎりぎりだよ黒墨さん。朱鳥会と鬼瓦組の間の何もかもが危ないよ。鬼瓦組ごと朱鳥会と刺し違える覚悟だと思われても仕方がない事態になってしまっている。いくらなんでもその少女を柊木町に連れて来るのはまずかったよ。封じ込めたつもりのあんたが結局大変な脅威になってしまった。あんたが付きっきりで護るんじゃどうにもできない」
「あの子をどうにかしようと思っていたのがそもそも間違っている」
「だがよく見てみると、あんたの方にも、今日のことが原因だと言い張るには苦しいところがある。俺はちょっとあんたに詳しいんだ。はなから朱鳥会を信用なんぞしていなくて、ずいぶん前からそのつもりで準備していただろう」
「すべてあの子を護るためだ。護りたいだけだ。朱鳥会が恐れていることは何も起こらない。君たちと殺し合いがしたいわけじゃないのは重ねて主張しておく。……もう帰れ高取。頭領殿に会って、ぜひそうならないようにしてくれ。朱鳥会が約束を違えない限り、君たちの望みも叶う。鬼瓦京作はここで寝て暮らすだけだ」
「俺たちの望み、ね。……」
京作は腕の力を抜き、静かに立ち上がろうとした。それを阻んだのは高取の手だ。帯を掴まれて立てなかった京作は、数瞬遅れてぎょっとした顔をし、何かを避けるように、なおかつ瑠璃子から何かを隠すかのように素早く腰の位置を変えた。
「はあ。黒墨……いや鬼瓦さん。事ここに至ってはもうこれから気安く話を聞いてくれそうにないから、この際、今まで言ってなかったことをちゃんと告白しておきたいものだ」
「き、聞きたくない」
「まぁ聞いてくれ。鬼瓦さん、実は俺は昔からあんたのファンなんだ。この通りあんたでいきり勃っ」
「わかった聞く、聞くから、せめて今じゃなくて僕ひとりの時に言え、お願いだから」
「ああ、ああなんていい顔だ。こんなに素敵な景色を見られる夜が来るとは。ふう、では、さて……そこらですっきりしてから帰るとするかね。……」
「……おい。あの子に少しでも汚いもの見せたらその瞬間に斬って捨ててやるからな」
「そりゃあいい、夢がまたひとつ叶うわけだな。いつかのために取っておこう。……」
おぞましげに京作が距離を取ると、高取はゆらりと立ち上がってナイフを回収し、歩いて去って行った。それを瑠璃子が本能的に群青色の目で追うのを、京作はそっと袖で阻止した。
「あっ……。あの、お怪我はありませんか?」
「ないよ、ありがとう。それより……あいつの言ったこと、君は聞いていてわかったかい……?」
「それは、えっと、ごめんなさい……できるだけ聞いたつもりですけど、あまりにも大変なお話だったので半分もわかっていないと思います。特に後ろのほうの、あの人が一番言いたそうにしていたところが全然わからなくて……」
「そうか、それはよかった。ああ、いい子だ……」
急にぎゅうと両腕で抱き寄せられる。瑠璃子はぽかんとしたあと、あわあわと顔を赤くした。
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