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一
ノートに描かれたその物語を、病室の少女は揺れる瞳で見つめている。
「……う」
ずきりと頭が痛み、反射的に手を当てた。
ほんの一瞬のことではあったが、目の前が点滅するほどの頭痛だった。ベッドに腰掛けていてよかったとどこかで思う。
回復した視界には、ノートと自分の膝、それに髪。大きく波打つ、黄土色の長い髪だ。
「……」
少女はそっと立ち上がり、窓辺に近づいた。
外には夏の夜が広がっている。星の瞬く黒い窓に歩み寄る姿を確認する。
白い長袖のブラウスに、細いリボンタイ、紺色のスカート。骨っぽく頼りない体躯を、胸の下まで伸びた黄土色の髪がぼわぼわと覆っている。
それを見つめる瞳の色まではよくわからないが、さっき脱衣所で鏡を見たとき、黒くはないことを知った。暗く青みがかっていて、そう、これは――群青色なのだろう。
そんな容姿を持った一六歳の少女。
「……これが、わたし」
窓に触れ、あえて確信を持っているかのように言葉にした。だが、鏡像の少女はひどく不安げな表情のままだ。
見るのをやめて、ベッドのそばまで戻った。
シーツの上に広げたままのノートがいやでも目に入る。そこでは黄土色の髪の小さな女の子が、怒ったりいじけたり泣いたりしている。
拾い上げて、今度は正直に自信なく呟いた。
「これも……わたし?」
一体誰が描いたものだろう。何の目的で? 先ほど医師から返却された鞄に入っていたものだけれど、なぜこれが自分の持ち物であるのかがわからない。
絵物語を指でなぞる。丁寧に描いてはあるけれど、プロの作家が描いたものとは思えない。もしかすると、いつか自分で描いたのかもしれない。
「……」
仮にこの女の子が自分の幼少期の姿だったとして、これは本当にあった出来事なのだろうか。
だとしたら、ここに描かれているもうひとりの人物も、どこかに実在する人なのだろうか。
「……」
黒いシャツに黒いズボン。黒い髪に黒い瞳。
穏やかな物腰、優しい語り口。
キャラメルを食べさせてくれた。
お守りの青い石をくれた。
頭を撫でて励ましてくれた。
君を忘れないと言って微笑んだ。
――片方だけ開いた、黒い瞳。
「……うっ……!」
ああ、まただ。また頭が痛い。
板張りの床に膝をつく。ベッドにすがるようにして堪えていると、扉をノックする音がした。
「入りますよ。……あっ、大丈夫かい?」
消毒液の匂いがする白衣の腕。支えられてベッドに座り直す頃には、もう頭痛の波も去っていた。
落ち着いた様子を確認すると、医者も近くの椅子を引き寄せて腰掛けた。
四十代くらいの男性だ。短く刈り揃えた髪に白いものが混じっている。丸い縁無しの眼鏡をしているけれど、つるがない。鼻筋を挟むことで身につける眼鏡。
ちらりとベッドの上のノートを見てから、医者は物柔らかに言った。
「持ち物を確認したんですね。でも、無理をして思い出そうといけません。今朝あなたが目覚めたばかりの時にも言ったが、自分を労りながら焦らずに向き合っていきましょう。記憶喪失という病に」
「……はい」
記憶喪失。確かにそうかもしれない。
言われた時は何が何やらまったくわからなかったけれど、医師と話したりひとりで過ごしたりするうちに、本当に自分が何も覚えていないということを理解することができた。
どうしてこうなったのか。目覚める前までどこで何をしていたのか。住所は。職業は。家族や友人がいたかどうかも思い出せない。顔や体に触れたとき、これが自分のものだという当たり前の実感さえできない気持ち悪さがある。
医師は穏やかに質問した。
「あなたが目覚めたあと、私はあなたの名前を伝えましたね。それを言えますか」
「稲羽瑠璃子……」
「そう、稲羽瑠璃子さん。では私の名前は言えますか」
「東察馬先生」
「そうです。ここはどこですか」
「東先生の診療所……。千葉県万年青町」
「うん、いいですね。前向性の記憶障害はないようだ」
「……?」
「あなたは以前の記憶をすべて失ってしまったが、これから見聞きすることについてはちゃんと覚え、積み重ねていけるようだということです」
「……」
「また、記憶を失くしたといってもそれは主観的なものがほとんどで、客観的な知識に関してはいろいろと保有できています。十年前に戦争が終わったことは知っているけれど、その頃自分がどこでどのように暮らしていたかはわからない、といったように」
「……」
「日常生活を送るにあたっては問題がなさそうでよかった。この数時間、問題なく箸を使って食事ができ、ひとりで入浴ができ、服もそのようにきちんと着られています。言葉も不自由なく使えていますしね」
「……あの」
「はい」
「あの、わたし、これからどうなるんでしょうか。東先生や奥様にこんなに良くして頂いてますけど、その、入院費や診察代を……お支払いできる経済力がわたしにあるのかどうか……」
「ああ、はは。そんな心配はしなくていい。大丈夫、あなたには心強いパトロンがいるから」
「パ、パトロン?」
「もう迎えがこちらに向かっている。それで呼びに来たのさ。荷物をまとめたら玄関に来なさい。忘れ物のないように」
「えっ、えっ……」
「退院おめでとう。これからは親しいご近所さんとして、察馬おじちゃんとでもと呼んでくれないか」
出し抜けにウインク付きの笑顔を披露して、東察馬は白衣を翻し部屋を出て行ってしまった。
少し呆然としていると、窓の外から車の音が聞こえてきた。
どんどん近づいてくる。黒い窓を黄色い光線がなめるように過ぎったあと、やがて建物のすぐそばでエンジンが止まった。
「迎えって……あれのこと?」
何がどうなっているのかわからないけれど、察馬医師は玄関に来いと言っていた。とにかく早く行かなければ。
慌ててノートを拾い、ベッドの乱れを直し、帽子掛けから鞄を取って部屋を飛び出した。
でも、自分で考えていたよりも、稲羽瑠璃子という人物はよほど運動神経が悪かったようだ。何もないまっすぐな廊下で派手に転倒しながら、そう自己認識を更新することになった。
ひとり無感動に上半身を起こす。
鞄は紐ごと体にまとわりついていたけれど、ボタンを開けっ放しにしていたせいで、中に入っていたものがばらばらと床に散らばっていた。――こんなにいろいろなものが入っていたのか。さっきは最初に目に入ったノートを取り出しただけで、他のものは今初めて見た。
でも、ゆっくり見るのはあとでいい。
膝をついたまま急ぎ鞄に詰め直していく。が、最後のひとつに手を伸ばしかけたとき、ピタリとその動きが停止した。
止めようと思って止めたわけではない。体が勝手に止まり、そして、微かに震えながらそれに触れた。
「……」
それは、小さな黄色い紙の箱。
古ぼけたキャラメルの箱。
「……」
ころころと、中で何か小さなものが転がった。
開けてみると、そこにはキャラメルではなく、群青色の石がひとつだけ入っていた。
海より深い青に、夜空を瞬く星のような白が散りばめられている。まるで天の川を閉じ込めたかのような、美しい群青色の――。
「こんばんは」
瑠璃子の目の前に、誰かがしゃがみこんでそう言った。
黒い着物。黒い帯。
黒い髪に、黒い瞳。
それは――片方だけ開いた、黒い瞳。
「……どうして泣いているの?」
心配そうに頬に触れられて、瑠璃子はびっくりと身を引き尻もちをついてしまった。
触れられたところが熱い。いや、目の中も鼻の奥も、いつの間にか痛いほどに熱くなっている。
その人物を見上げて、キャラメルの箱を抱きしめて、わけもわからずぽろぽろと涙を流してしまった。
「……? ……? ……?」
「……驚かせてしまったね。ごめんね。さあ、立てるかな」
自省っぽく淡く微笑み、手を差し伸べるこの青年を、瑠璃子は知らないけれど知っている。格好こそ洋服から和服に変わっているが、あの絵物語に出てきた人物にそっくりだ。
記憶はなにもない。でも、正体のわからない感情が、身体中の血液が、まるで激流のように自分の内側を駆け巡って暴れている。
「だれ、ですか」
溺れそうな呼吸をして、やっとの思いで口にしたのはそんな言葉だった。自分の台詞を自分で聞いたとき、どうしてなのか、またボロボロと大粒の涙がこぼれていった。
「……鬼瓦京作というんだ」
男はそれだけ答えた。知らない名前だった。
それでもなぜか、その手を取るのに十分な答えだと思った。
キャラメルの箱を抱えていた手をひとつほどき、おそるおそる伸ばしていく。
その指先に触れるまであと少しという瞬間。じっと待っていたはずの青年のほうが不意に動き、少女の手を掴み取った。大きくて硬い、熱い手のひらだった。
「……」
「……」
そっと瑠璃子を立たせて、それでも手を放す気配がない。戸惑って見上げた群青色の瞳を、ひとつきりの黒瞳が優しく、しかしどこか苦しそうに見下ろしている。
「君を迎えに来た。なにもわからなくてつらいだろうが、どうか一緒に来てほしい。説明はあとでする」
「……」
こくりと頷いた黄土色の髪の中で、からっぽの記憶がふわふわと揺れている。
うれしい。
今度は連れて行ってくれるんだ。
わたしはもうひとりじゃないんだ。
どこかで誰かがそう言った気がした。
涙が止まってしまうくらいに、なぜだか満ち足りていた。
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