恋しい人と手を繋ぐ、たった一つの確実な方法【完】

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 【手順6 生と死の境界線を引きましょう】  弟はいつも俺の仏壇を拝む。  隅々まで綺麗に手入れして、花を変え、線香をあげ、俺の好きなみかんを置いて、時間の許す限り拝む。  これが弟の毎朝の日課だ。  遺影の中の俺は無愛想に拝まれる。  大学の生徒手帳と同じ写真。写真が嫌いだった。だからこんな味気ない、恨めしげにレンズを睨みつける仏頂面の写真しかなかった。  もともと風前の灯火のような精神力が更に貧相な時、弟はブツブツと拝みながらつぶやく。  ごめんなさい、ごめんなさい、と。  これを言う時、弟は拝み終えたあとふらふらと出かけてしまう。大学に行かず、死の臭いのするところへ歩く。  棒きれのようにやせ細った弟は、今日はどこへ行くのだろうか。  早朝、弟は歩き出した。  どこに行くわけでもなく、弟は歩いた。何時間も亡霊のように歩き、不規則に足を動かした。  そして、あの日別れた駅に着いた。  車を止め俺を送り出した場所に座り込む。俺はそれを見降ろした。  ずっと。  誰に邪魔そうに見られようが舌打ちされようが、弟はそこに座り続けた。  空が暗くなり始め、寒くなってきた。  弟はまだ動かない。  何度目かの電車の大きな音が聞こえると、弟は立ちあがって歩き出す。  駅の時計に目をやると、俺がいつも帰ってくる電車の時間だった。  弟がフラフラと歩く街は輝いている。  二人並んで歩くことなどほとんどなかった。  俺に当たった人たちは俺がいると気がつかない。残りカスの俺は、霊感のちょっとあるぐらいの人には見えないだろう。  ごく普通の人の弟も俺に気がつかない。死んでから何度も街を一緒に歩いてる。コイツは飛び上がって喜んでもいいはずなんだけど。  輝いている街とは裏腹に、弟の顔は死人同然だった。  だらりと垂れ下がって揺れる手をそっと握る。  俺は弟と、並んで歩いた。  到着したのは、昔弟が立ちつくしていたと聞いた橋だった。  たまに近所の人がここを通るが、今は誰もいない。日が沈む。弟を真っ赤に照らす夕日がきれいだった。  弟はじっと流れる川を見ている。そこそこに深い川は、穏やかに流れていた。  また眺めて帰るのか。  そう思ってはいたが、予想外。  弟は手すりに上ってその上に立った。  川を背にして立つ。夕日が王冠のようだった。弟は橋の王様だ。  真向かいに立つ透明人間俺は見つめられているような感覚になる。だけど王様に俺は見えないのだ。  王様は笑う。 「今は死ねる」  はっきりとそう言って、躊躇もなく後ろに倒れた。スローモーションのように弟が水面へ落ちていく。  穏やかな表情で。  至高の笑顔で。  バシャンッ、と水の跳ねる音を聞いた。  だけど俺には、弟を掬いあげることはできないのだ。  王様は人魚になった。  泡となりたかったのだろうか。その答えは俺の心にはなかった。
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