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当たり前のことを必死に説明したのに、彼にはいまいちわからないらしい。
俺を殴るために彼が振りあげた拳は、皮膚が剥けて血が滲んでいた。コンクリートで摩り下ろしたような傷だ。
血を見ると顔が青くなる俺からすれば、それは見ているだけで痛ましい傷である。
だというのに本人は痛いのかどうかすら自分では決められないのか、説明しろと言わんばかりに俺に尋ね返すのみ。
なんでだ。全然理解できない。
俺に聞いてなんであんたが痛いかどうかわかるんだ。俺から見ると痛いでしかないのに。
「俺が痛いとお前も痛い? じゃ、俺は痛くねぇからお前は痛くねぇな? お前、赤くねぇから。黒だぜ」
「いや黒は俺の髪の色で、痛そうな人を見ると俺まで痛くなるというか、痛いのは嫌だってことなんだが……とはいえ俺もよくわからん。人を殴ったっていいことはないから、ええと、とにもかくにも、俺を殴らないでくれっ」
「よくわかんね」
「あ、あんたのその振り上げた手を下げてくれたら、俺はうれしいな〜……っ?」
「ん」
質問攻めにされなつつ貧弱な語彙でとにかく生き残れと説得すると、意外にも男は素直に手をおろしてくれた。
なんなんだこいつは。
言葉がなかなか通じないぞ。
見た目が普通とズレているこの男は中身もズレているようで、自分の拳と俺の拳を見比べて一人でふむふむと頷いている。
なんの確認なんだ。
いくら確認しても見ていて痛々しい手だが、彼は本当に痛くないのだろうか。
危機が去って余裕ができた俺は、擦り剝けた手を改めて見つめてうわぁと内心ドン引きした。心から痛そうすぎる。
俺は暴力をふるう人は嫌いだが彼は素直にやめてくれたわけだし、根は悪い人ではないのだろう。
悪い人じゃないならこのケガはあんまりだな……お、そういえばあれがあったような。
「ちょっとここに座ってくれ」
「……あ? ここ?」
「立ったままではやりにくい。うおっ」
ここと地面を指さすと、彼はほうと俺を見て、それから地面を見て、糸が切れた人形のようにドサッと座り込んだ。
び、びっくりしたじゃないか!
崩れ落ちるように、とはこんなことを言うんだ。受け身もあったもんじゃない。
座り込んだ彼は相変わらず濁った色味なのに混じりの感じない不思議な瞳で、じーっと俺を見つめる。
次はなにをするのかと様子をうかがっているようだ。
なんだか野生の動物を相手にしている気分になる。
俺はビクビクと若干腰が引けながらも同様に地面に座り、肩からかけていたスポーツバッグをガサガサと漁った。
確か癖で持ってきていたはずだ。
えーと、ううん、ああそうそうこれだ。
よっとバッグから手を引き抜く。
取り出したのは小さめの青いポーチだ。部活時代から使っている救急ポーチである。
俺はポーチから消毒液とポケットティッシュ、絆創膏を取り出し、皮の剥けた彼の手を取って消毒液をじゃばじゃばとかけた。
「ええと、染みるかもだけど我慢するんだ。菌を殺してるんだからな」
「染みる? 俺はシャツじゃねぇよ。なあ、なんでシュワシュワしてんだ? シュワシュワなら、これは炭酸ジュース。喉が渇いたから飲んでもいいか?」
「えっ。絶対、飲んじゃだめだぞ……? 絶対だからな……?」
「じゃあ喉が乾いたらどうすりゃいいんだ。俺がミイラになっちまう。かわいそうだ……あぁ、辛い。辛いと、飛びたくなるなぁ」
「あ、あとで俺のスポドリを分けてやるから地に足つけてくれ。さあ拭き取って、絆創膏を貼って、……よし」
怯えつつも治療を終わらせた俺は、消毒液のビンを名残惜しそうに眺める彼から隠すようにさっさと道具をしまう。
綺麗に絆創膏を貼った手は、傷が隠れて痛々しさがマシになった。
彼はその自分の手をもの珍しそうに眺めて、太陽に透かす。
手の影で目を細めると、クククと喉を鳴らした。どこか機嫌がよく見える。
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