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俺は一瞬、男が吸血鬼なのではないかとあほらしいことを考えた。
生活や身体的に不自由がなくとも顔もわからない変な男と四六時中一緒にいるのは、精神が疲弊する。
なまじっか雰囲気が不気味なので、余計に恐怖は増す。
なにをするでもないから、更に気味が悪かった。男は、俺になにも求めない。
家族のことを思い出した。
俺を「どこで間違えたのか」なんて溜め息混じりに諦める人たちだが、両親の顔を見たくて仕方がなかった。
学校のことを思い出した。
こんなことならいくら心を抉り出して踏みつぶされるようなイジメにあおうとも、あの日真面目に学校に行けばよかった。
日常の何気ないことが、幸せに思える。
好きなように走り回って、太陽の下で生き、自分の思うとおりに動ける幸せ。
自由。
行きたいところへ、気づかなかっただけで、俺はいつだって駆け出せたんだ。
勇気がなかっただけ。
覚悟がなかっただけ。
こんなに苦しい思い、怖い思いをしないで済むのに、俺は世界が嫌いだなんて子どものわがままじゃないか。
後悔ばかりが押し寄せてくる。
人のせいになんてしなければよかった。
男は俺に触れない。
会話も最低限しかしない。俺の存在なんて、男にとっては無為なもの。
人とのかかわりが恋しくて仕方がなかった。もっと、もっといろんな人と話せばよかったと、嘆いた。
外の世界なら、自由に、誰とでも、無限に仲良くなる可能性があるのに。
自分ではなっから否定して、馬鹿みたいだ。好かれる努力を怠った自分の責任じゃないか。他人任せに腐った自己責任。
せっかく気がついたんだ。
手に入れようよ、自由を。
その日も男はいつものとおり、仕事部屋に引きこもっていた。
俺は黙って見送ったのち、動き出す。
光を嫌う男が近寄らない窓。
成長途中の小柄な中学生である俺ならば、そこに身をねじ込めばどうにか外に出ることができることに気がついた。
問題は、ここが二階だということ。
危険ではある。
だがここ以外に、抜け出せそうな出入口はなかったのだ。やるしかない。
俺はもともと着ていた制服に身を包み、カバンをまず窓から投げた。
それからなるべく慎重に体を窓枠に通し、目を閉じて一気に飛び降りる。
ドスン、と背中に強い衝撃。
しばらく痛みに唸ったが、久しぶりの日光の眩しさにそれどころではない。
振り向くことはなく、脱兎のごとく走り出し、できるかぎり全力で逃げた。
わき目もふらずに走る。
裸足のままに、ひた走る。
足の裏の痛みも、背中の痛みも、倒れたくなるような疲労も無視して、必死に自分の家を目指した。
懐かしくすら感じる家の中に飛び込んだ時、俺は初めて泣いたのだ。
俺の証言により、男は捕まった。
両親は泣きながらテレビのインタビューに答えて示談金だ賠償金だと喚いていたけれど、もうどうでもいい。
少しだけ、残念に思うこともある。
微笑みを浮かべてパトカーに乗せられていく彼の顔は、最後まで見ることはなかった。
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