虹の柱と呼ぶには。①【完】

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 そう思った時、いつも思い出す。  あの時のあの男は、俺をこんな気持ちからも守ってくれる気でいたのだろうか。  腑抜けになるだろう俺を、本当に一生そばに置いておくつもりだったのだろうか。  馬鹿みたいな話。  誘拐犯になにを勝手な期待を寄せているんだか。馬鹿だな、俺。  逃げ出したのは俺のくせに。  あほらしい。あの男だって、ここまでの馬鹿だとは思わなかっただろう。  俺は待合室を出て、ホームに立つ。  電車がもうすぐやってくるのだ。  俺は今日も、会社へ行ってこれが自分の意思なんだと暗示をかけて働く。  ふと、あの時の公園に行きたくなった。  だが、すぐに諦めた。  仕事を放っていけるわけがない。  それに、あの公園は三年前に取り壊された。今はビルが建っている。  周囲の人たちは、みんな俺と同じような表情をしている。駅に並ぶ、自由の人たち。  おかしいな。  なんだってできる世界のはずなのに、どうしてみんなこんなところに立っているんだろうな。  視界の端に、白が映った。上を見上げると、ちらほらと雪が降っている。  今年ももうすっかり冬に染まった。  どおりでこんなに寒いはずだ。  聞き取りにくいアナウンスが流れ、轟音を鳴らし電車が目の前で止まった。  人が流れていく。  俺も人だ。だから人の流れに乗って、電車に乗ろうとした。  だが。 「なにしてる?」  なぜだか耳から離れない声。  はっと曇った視界が鮮明になり、俺は無意識に、声の聞こえたほうへ首を捻る。  そこには、男が一人立っていた。  猛禽類を思わせる鋭い瞳。すっと通った鼻梁と煙草をくわえた厚めの唇が色めかしく、端正な顔立ちを引き立たせている。  見た感じから三十前半だと思う。  若々しさに少し緩慢を感じる渋い男だ。  黒いシャツは腕をまくり、ボタンが第二まで開かれただらしない様相だった。  白いスラックス。  腕に抱えられた同色の上着。パーティーにでも行っていそうな上等なスーツ。  目の前の彼には、あの時の男と重なるところなんてなかった。  そもそも顔を見たことがないのだ。  何年前の話だと思っている。  年齢も名前も知らない。誘拐犯。  なのに、目が離せない。  時が止まったかのような感覚を、初めて感じた。足を止めた俺を置いて、電車は発車してしまった。  駅には、俺と男だけ。  俺はゆっくりと足を進める。  男が、くわえていたたばこを指で挟んだ。  目の前の男の空いた唇に、手を伸ばす。  あの時と同じように、微笑んだ。 「寒いよ」 「ああ、寒い」 「あっちが温かい」 「連れてってくれるか?」 「もちろん。俺は君を守りに来たんだから」  ──虹の柱の中にいる者は、自分がそこにいるとは気がついていないのだ。  だが、この男の腕の中は、虹の柱と呼ぶにはあまりにも不恰好であった。  それなのに、こんなにもあたたかい。  俺にとっての虹の柱。  それはきっと、この腕の中。  了
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