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そう思った時、いつも思い出す。
あの時のあの男は、俺をこんな気持ちからも守ってくれる気でいたのだろうか。
腑抜けになるだろう俺を、本当に一生そばに置いておくつもりだったのだろうか。
馬鹿みたいな話。
誘拐犯になにを勝手な期待を寄せているんだか。馬鹿だな、俺。
逃げ出したのは俺のくせに。
あほらしい。あの男だって、ここまでの馬鹿だとは思わなかっただろう。
俺は待合室を出て、ホームに立つ。
電車がもうすぐやってくるのだ。
俺は今日も、会社へ行ってこれが自分の意思なんだと暗示をかけて働く。
ふと、あの時の公園に行きたくなった。
だが、すぐに諦めた。
仕事を放っていけるわけがない。
それに、あの公園は三年前に取り壊された。今はビルが建っている。
周囲の人たちは、みんな俺と同じような表情をしている。駅に並ぶ、自由の人たち。
おかしいな。
なんだってできる世界のはずなのに、どうしてみんなこんなところに立っているんだろうな。
視界の端に、白が映った。上を見上げると、ちらほらと雪が降っている。
今年ももうすっかり冬に染まった。
どおりでこんなに寒いはずだ。
聞き取りにくいアナウンスが流れ、轟音を鳴らし電車が目の前で止まった。
人が流れていく。
俺も人だ。だから人の流れに乗って、電車に乗ろうとした。
だが。
「なにしてる?」
なぜだか耳から離れない声。
はっと曇った視界が鮮明になり、俺は無意識に、声の聞こえたほうへ首を捻る。
そこには、男が一人立っていた。
猛禽類を思わせる鋭い瞳。すっと通った鼻梁と煙草をくわえた厚めの唇が色めかしく、端正な顔立ちを引き立たせている。
見た感じから三十前半だと思う。
若々しさに少し緩慢を感じる渋い男だ。
黒いシャツは腕をまくり、ボタンが第二まで開かれただらしない様相だった。
白いスラックス。
腕に抱えられた同色の上着。パーティーにでも行っていそうな上等なスーツ。
目の前の彼には、あの時の男と重なるところなんてなかった。
そもそも顔を見たことがないのだ。
何年前の話だと思っている。
年齢も名前も知らない。誘拐犯。
なのに、目が離せない。
時が止まったかのような感覚を、初めて感じた。足を止めた俺を置いて、電車は発車してしまった。
駅には、俺と男だけ。
俺はゆっくりと足を進める。
男が、くわえていたたばこを指で挟んだ。
目の前の男の空いた唇に、手を伸ばす。
あの時と同じように、微笑んだ。
「寒いよ」
「ああ、寒い」
「あっちが温かい」
「連れてってくれるか?」
「もちろん。俺は君を守りに来たんだから」
──虹の柱の中にいる者は、自分がそこにいるとは気がついていないのだ。
だが、この男の腕の中は、虹の柱と呼ぶにはあまりにも不恰好であった。
それなのに、こんなにもあたたかい。
俺にとっての虹の柱。
それはきっと、この腕の中。
了
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