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(side男)
早泉 泣野。
男。二十六歳。
身長百八十三センチ。体重六十八キロ。血液型B型。誕生日五月十三日。牡牛座。
黒い髪。黒い瞳。力強いまなざしと端正にまとまった顔立ち。
夏の潮風のような笑みと気のいい物腰が特徴。努力家で忍耐強い性格から、営業マンとして好成績を残していた。
──……というのが、ついこの間までの彼の情報だ。
俺が出会ったのは、もっと昔のこと。
この家の数少ない窓から覗く、かつて住宅地の陰にこじんまりとあった小さな公園が舞台だった。
その公園で一人俯き、ブランコをこいでいた小さな少年が泣野である。
自分に自信がなく、目的もなく、希望もなく、ないない尽くしの根暗な中学生。
友達もいない。親に縋れず黙り込んだものだから愛想をつかされ、学校では一人きり。登校しても玩具にされ、指をさされて笑われる日々。透明人間になる日もある。
この世の摂理に縛られて、抗おうにもその力がない、無力な一人。
というのが昔の彼だ。
俺は……そんな彼に惹かれた、ただの男だった。
こういう生き方をしているのは、人より少し要領がよく、人より少し運ってやつに好かれていたせいだろう。
若くして家を持ち、そこに籠って、埋まらない穴を金で埋めるように手段を選ばず荒稼ぎをしていた。
金の匂いのする話はなんでも嗅ぎつけて噛み、広いパイプを持つ裏の組織と提携し、弱みは片っ端から握って吸収した。
憑かれていたのかもしれない。
渇望の亡霊に。なにを望んでいたのかすらわからないが。
そんな、笑って人を陥れながらどこか腐った日常を過ごしていた時だ。
ふと、歌が聞こえた。
『~~~~♪』
やたらと明るい音の羅列に、つい眉をひそめて声のほうへ足を進める。
歌詞にあった。なんのために生まれてなんのために生きるのか。
知ったこっちゃねえよ。そんな与太。
そう思って声が聞こえた窓に近寄り、分厚いカーテンの隙間から外を覗く。
ブランコに小さな人影。
泣野との出会いは、そんな意味のない日常の綻びだった。
『~~~~♪』
一人きりの彼は、俺のような誰かが聞いているとは思ってもいないのだろう。
鼻歌のようなうきうきとした旋律を、のんびりと奏でている。
俺は彼が身を包む学生服から、近所の中学の生徒だということがわかった。
平日の昼間になにをしているのか、なんて野暮なことは考えない。
なんとなく目が離せなくてぼうっと眺めていたが、彼はそれ以上歌うことなくだまりこくって俯いてしまった。
なんだ、面白くない。
その日は俺の興味は、彼が動かなくなったことで終わった。
次の日、彼はまた歌っていた。
窓の向こうから聞こえる明るいトーンの歌声に、そういえば昨日、と少年のことを思い出す。
また気まぐれに、俺は窓を覗いてみた。
『~~♪ んん~~♪』
『……くく……』
歌詞がわからないのか適当な歌声に変わる彼に、少し噴出する。
そんな自分に驚いた。
嘘じゃない、意味を持たない笑みを浮かべたのは、いつ以来だろう。
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