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『ん~、ん、ん』
彼は歌い終えると、ぐっと拳を空にあげる。だがその拳は糸が切れたようにぱたりと垂れ下がり、歌は終わってしまった。
彼はまた電池切れになったのだ。
今日は昨日のようにすぐ興味を失わず、少しだけ眺めていた。
時間にするとわずか五分程度だが。
その間、彼は微動だにせず俯き、ブランコに揺られていた。
そこで俺は興味を失い、またドロドロと粘ついた黒い世界へと戻る。
その日。大手銀行重役の脱税の証拠をつかみ掌握する時、頭の中で、一瞬彼の歌声がちらついた。
次の日も、また次の日も。
彼はやたらに明るいトーンで明るい歌を歌い続けた。
平日の朝からは、彼のワンマンライブ。
それをカーテンの隙間から眺めるのが日課となり始めた頃のことだ。
その頃には、俺は柄にもなくずっと年下の少年に恋慕にも似た感情を抱いていた。
そのひねり出した悲鳴のような歌声をガラス越しに聞いているだけでは、満足できない。
直接鼓膜を震わせ、酔いしれたい。
肌に触れて、瞳を飴玉のように舐める。
髪の香りを嗅ぎ、その体をかき抱いて滅茶苦茶に快感を共有したい。
──俺だけのものに、したい。
甘い恋をしたことなどなかった。
だが恋をしたならばきっとこんな感情なのだろう?
彼を照らす太陽にすら嫉妬する。
日の光にすらさらしたくない。
一生俺のそばに置いておきたい。
捕えてつなぎたい。
絶対に離れられないように。
グズグズに甘やかして、俺がいないと生きていけないように、腕も足ももぎ取ってハチミツ漬けの毒で犯してやろうか。
俺だけを見つめて、俺だけに語り掛けて、俺だけに微笑んで、彼の幸せを眺める存在は俺だけになればいい。
俺だけに。
なくした大きな穴を埋めるものが彼なんだと、俺は唐突に理解した。
いや、違っていても構わない。
とにかく彼が欲しい。
手元の資料と写真を夜ごと眺めて、醜い衝動を抑え込む。ぎりぎりと噛みしめた唇を舐め、誤魔化すように煙草を咥える。
孤独の両手を意味なく宙に突き出しても、なにも掴めない。
欲しいものは、ここにない。
──触れちゃあいけねぇだろうよ。
若造の俺は、下手に手を出して彼を壊さない自信がなかった。
ある日から、彼は歌わなくなった。
代わりにブランコに揺られながら、肩を揺らしてすすり泣くようになった。
声を殺して唇を噛み締め、ボタボタと涙を降らせる。時たま嗚咽交じりにしゃくりあげるが、叫びだしたりはしない。
毎日毎日。
飽きもせずに泣いている。
なぜかは知っている。
調べさせたから、予測もついている。
教室の彼の席が行方をくらませたのだ。
親にも言い出せずに黙っていたら、ついに諦められたのだ。
ちっぽけなプライドが〝助けて〟と言えずに悲鳴をあげて、泣き叫んでいるのだ。
わかっている。
それでも、どうにかしようとはこれっぽっちも思わなかった。
もし俺が学校に手をまわしてなんらかの措置をして彼が学校に行くようになれば、ここにはこないだろ? 助けるわけがない。
悲しむ彼は見たくない。
でもここにこなくなるのはもっとイヤだ。
だからずっと、彼の泣く様子をただ見ているだけ。
俺はそれでも胸が痛まず、平然と煙草をふかしていられるような人間だった。
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