千ちゃん

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千ちゃん

「久しぶりの帰省だな」  カウンターを挟み声をかけたのは、中学、高校と同じ部活をしていた今井米(いまいよね)。旧姓は桶狭間だったか川中島だったか高校在学中に結婚し名前が変わった。 「そうかも知れない。私の家は厳しいから、あまり戻る気にならなくてさ」 「なにその、私って」  今井は呆れながらコーヒーを淹れた。 「会社で私って言うのを義務付けられているんだ。元々おいらは自分を何と呼んでいただろうか、拙者だっけ」  喫茶店には近所の高校生が数人巨大なパフェの写真を撮っている高校生以外に客は居ない。少し心配になる。 「おいおい、しっかりしなよ。千歳秋(ちとせあき)。お前は生涯自分の事は僕と言い続ける宣言していただろう」  ふむと、顎に手を置く。 「そうだった。それで、今井は元気でやってんの。立派な店まで持って。いいなぁ店長とか自由だな」  コーヒーカップに口をつける。 「どこが良いんだい。自営業なんか、先の見えないギャンブルだよ。客なんか居る方が珍しい」  時々寂しそうな眼を見せる。  この店は、もともと彼女のモノでは無かった。 「そうかな。僕は毎日頭を下げてばかりで猫背に拍車がかかっているよ。昔は空ばっか見ていたのに、いや空ばかり見てたから大人になってこの様なのか」  頭は下げるだけではなく地につく事さえしばしば有るとは言えない。  オルゴール調で流れる綺麗な曲が沈黙を埋めてくれる。 「あの頃の私たちは確かに空ばかり見てたね。懐かしいな。今の私は世間からの店の評価しか見てないな。そうだ」  そうだと今井は間を開けた。 「秋はずっと千ちゃんを見てただろう」  千ちゃん。  佐藤千(さとうせん)。  千ちゃんは、可愛い。歳は僕より一学年上で、中学の時は小柄で子供みたいな、赤ちゃんみたいな綺麗な肌で、男の僕ですらも無い筈の母性をくすぐられる様な少女だった。そんな少女が誰よりも早く、飛ぶように走る姿はカッコよくて、男女問わず人気が有った。  そう、僕はずっと千が好きだった。いつも眠たそうな二重の目はキラキラしていて大好きだった。  彼女は元気だろうか。
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