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「名前を聞いただけで、トリップしてたんじゃないか、秋はやはり変態だな。千ちゃんの言う通りだ」
突如ぼうとした僕の顔を今井が覗き込む。
「違うよ。あまりにもコーヒーが旨かったから味わっていただけだって、結局千ちゃんと僕って殆ど話した事ないんだよな。多分数える位しか無いよ」
人は変わるとは言うが、僕と千ちゃんの関係は変わる事が無かった。何も始まらないままに、終わった。
終わったと言うよりも、何も始まっていない。
千ちゃんを好きだと高校に行く前には気が付いていたが、それでも話しかける事は出来なかったと思う。
どうしてあの日、変態扱いされたのかも当然聞けてはいない。今井米が言うように恐らくはストレッチをじっと見て居た中学一年の僕が覗きでもしている様に見えたのだろう。その後も、ずっと見ながら練習していた僕は、千の言うように変なのだろう。
「そうだっけ、なんか秋はいつも、千ちゃん千ちゃん言ってたから、もっと私達の知らないところでは仲良くしているのかと思ったよ。二人とも都道府県の代表だったし、色々話せたんじゃないのか」
そう、確かに中学で僕らは都道府県駅伝の代表に選ばれた。選ばれたと言っても男子と女子で一緒に練習している訳でも無く、話す事は少なかったと思う。千が三年の時、僕は二年で代表と言っても補欠だった事も有り、話したとしても、お疲れ様ですくらいだろうか。
「まあ、集合写真は一緒に撮ったかな。それくらい」
半分以下になったコーヒーを啜る。
「そうだったっけ、私は時々話したけどなぁ」
「え、なんで。接点無いだろう」
二杯目のコーヒーを注ぎながら、今井はうーんと唸った。
「確かさ、秋の事を聞かれた気がするんだよね」
「僕の事、なんで千ちゃんが、お前に話すんだよ」
「いや、いうても長距離界期待の星だったでしょう。あの人、だから憧れてる女の子は多かったよ。アンタと違って高校でも怪我せずに結果出していたでしょう。だから、そう高校の時だよ。向こうから話しかけてくれたからさ。ビックリしたもん」
二杯目はお勧めと言うミルクを淹れていたが、二杯分の料金が後で取られるのだろうか。などと聞いている場合では無い。
「千ちゃんが、米に僕の事を聞いたのか、いやいやソレは嘘だろう。だったら絶対僕に言うだろうが、初めて聞いたぞ。まあいいや、それで千ちゃんは何を聞いて来たんだ」
憧れていた人が、気にかけてくれていたのかと思うと胸が苦しくなった。どうして僕はそんな事に気が付かなかったのだろうか。
後ろで騒ぐパフェ撮影の女の子たちの声が聞こえなくなる程僕は、米の話に没頭していた。
「ああ、ほら、秋が悪いんだよ。あの時、高校二年生の春の大会だね」
「春の大会と言えば、千ちゃんがマイルリレーにも出てた時か」
長距離の選手が、マイルに出る事は珍しい、無い事では無いのだが、その時の彼女の四百のタイムは僕よりも速かった。
「え、何それ気持ち悪い覚え方だな。その時、なんでか秋って断れなくて新入生のマネージャーと付き合ってたじゃん。一週間で別れてたけど」
一週間後に降られた。
なんか違うと言われて振られた記憶が蘇る。
「確かに」
「うん、そうだよ。その事を聞いて来たんだよ。秋君って彼女できたのって」
頭が真っ白になる。
中学一から高校二年どころか千が卒業して地元から離れても好きだったのに、その一週間に、そんな事があったのか、断れなかったというふざけた理由で付き合った僕が悪いのだけれど、マネージャー。
不知火衿(しらぬいえり)。
衿は僕を好きだと言った。
中学の時から僕の走る姿が好きだと言っていた。ずっと話せなくて、やっとココまでこれたのだと言う彼女の姿が、千に見向きされない自分に重なって見えたのだ、そして何度も告白され、試しに付き合おうとなった。
今思っても、酷い話である。
試しにって、罰当たりである。
本当に天罰の様に僕の初恋はそこで終わったのかも知れない。
「おーい聞いてる」
「大丈夫だ。コーヒーが美味しくって味わっていたよ」
「目が怖いよ。そうだ。思い出してきた。それで、最近できたんですって話をしたんだけど、今更伝えても遅いし、衿ちゃんと上手く行くか心配だったから、秋には伝えていなかったんだ」
ポンと手を打つ。
「いや、それなら墓場までその秘密は持っていってほしかったぞ。三十歳になるこのタイミングでまさか、初恋は親友に潰されたという事実を知らされることになるとは、衝撃だよ。え、でもじゃあ千ちゃんって僕のこと好きだったのか」
くすくすと笑い声が聞こえる。
いつの間にかパフェの撮影を辞め、僕らの話に聞き耳を立てていたらしい。
僕の顔は真っ赤になっているだろう。
「そうかも知れないけれど、違うんじゃない。ずっと自分の事好きだと言っていた筈の人間がコロリと恋人作ったもんだから、呆れたくらいじゃないかな」
確かに、それは呆れる。
真実の愛だなんて有るものかと思う。
「それでも、なんだろうな。僕ってその一週間を覗いたら一生千ちゃんの事が好きなんだが、その一週間の所為で全て白紙って感じなのか」
くすくす笑いは、既に普通に笑っている。
「いや、一生千ちゃんを好きとか言うくせに、地元から直ぐに逃げて行ったでしょう。それに白紙に戻ってと言うよりは、台無しになったって感じじゃないか」
声をあげてパフェを食べ終えた学生たちは笑っている。
このやり取りが店の売り上げにつながるならいいのだと言えるほどの大人でも無い。既に三十歳に成ると言うのに。
「台無しか、確かに、一生好きだとか、一番好きだとか、あんなセリフ嘘っぽいもんな。そしてそんな事を言い続けていた僕は一週間とは言え恋人を作りやがった訳だ。台無しというか、台も残らないくらいに崩壊してる」
胸が苦しくなる。
「まあ、秋の実家変わってるからね。逃げたくなるのも分かるけど」
「人んちの悪口言うなよ。確かに変な家族だけど、アレでも家族だぜ。今は少しまともに戻ったしね」
だから戻ってこれたのだ。
「そう言えば、僕さ千ちゃんに逢ったんだ。彼女が高校卒業してから」
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