第二章 世の中そういうものだ

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第二章 世の中そういうものだ

 そうやって妄想して遊んでいたら、斜め横ぐらいで何かが動いている。チラッと視線を向けてみると、つり革をかろうじて持っているがライブ中のヘドバンのように頭がぐらんぐらんとしている女性がいた。体もふらふらしている。  しんどくて立っていられない状態だと危ないので、しばらく観察していたら、どうやら酔っていてほぼ寝ている状態のようだった。電車が加速、減速、駅に停車する度にユラリ…ドスンと足音を立てて体勢を持ち直す。満員電車だったらきっとこんなに揺れずに立っていられるのに、下手に空間があるので反復横跳びのようにかなりふらふらだ。席を譲ってあげた方が良いのだろうなあと思いつつも、酔っている人に下手に近づいて何か暴れだしても困る。 (こういう時、♪チンチン と鳴れば、きっとこの人も目が覚めると思うのになあ…プシューというドアの開け閉めの音だけじゃあ弱いよねえ…)  そうして三駅ぐらい見守ってしまった。さてどうしたものかと思っていると 「あ、ふぁい…ふぁい。そうです、飲んでました。へへっ」  と急に女性がしゃべりだした。ブルートゥースで接続してイヤホンをしていたらしい。車内なのだが、家を勘違いしているのかそのまま女性はしゃべっていた。 「はあ、何ですか? 薬箱? 体温計?」  体を支えられないぐらい酔っているのに、電話にそのまま出てしまうとは、この女性もなかなかの社畜だなと思いながら様子を見ていたら不穏な単語が登場した。新型のウイルスは「とりあえず熱を測るのが目安」という事になっているからだ。 (…体温計) (…体温計って言った? この人)  車内の空気が少し変わる。 「なんですか? はあ、体温計…〇〇さん、はあ、ボードに横に置いてた薬箱の中、はあ」  酔っているから聞き取れないのか、薬箱と体温計という単語を繰り返し始めた。 「〇〇さん、そうです。熱を測りたいと、薬箱から私が出して渡しました………あぁ、マジですか」 (…キタ) (…これはキタ) 「私は…はあ、とりあえず土日様子みる…はい…はい……何かあったら連絡します」  もう女性は返事もしっかりしているし、体もふらついていない様子だ。さっきまで「ふぁい、ふぁい」と返事をしていた人の酔いも醒ましてしまう事態は、十中八九、新型ウイルスだろう。やはりこの路線はアタリだ。 ―プシュー、△△駅です。電車とホームの間が広く開いている部分があります。ご注意ください。  女性は丁度ドアが開いた△△駅で降りて行った。本当にそこが最寄り駅なのかどうか分からないが足取りはしっかりしているようだ。車内で騒ぎ出す人がいなかったのが幸いだった。もしかしたら、ここで騒いだら別の人から陽性反応出る可能性もあったからかも知れない。ゴトン、ゴトン、電車が発車した。 (…ふぅ~…はいはい、♪チンチン)  璃偉子は深呼吸をして、少し座りなおす。一応SNSを検索してみたが「あの乗客怪しかった」「やばくない?」「新型ウイルスかも」という呟きは見当たらなかった。周りの人も、家に帰るまで冷静にならなければと思ったらしい。  ここ最近SNSは本当と嘘とデマが前にも増して混在している。  不用意に呟くと自分の身が危ない。  人を疑う事は簡単で、疑いを消す事は難しい。先入観は更に怖い。  この電車に乗っていた女性が体温計を渡した相手〇〇さん、薬箱から体温計ぐらい自分で出せよ。  前の職場の元上司にちょっと気持ちをやられてしまった璃偉子は、丁度いま女装している。この電車に乗っている全員を検査しなければならないとなったらややこしいのだ。 「私は人に寄生して生きるなんて絶対嫌。働いていたい。働かなくても良いよ、とお金を積まれても嫌」  と元上司は飲み会で言っていた。なぜ働かなくてもよいシチュエーションが発生するのかさっぱりわからない。誰も止めないので、這ってでも働けばよいと思う。  元上司もなかなかの妄想家である。  どうしても優劣をつけないと気が済まないらしく、他人事ながら言動がハラハラするのだ。厳しい意見を言う事がするどい指摘だと勘違いしている。この人の視野は猫の額よりも狭い。  昔、自分が海外旅行をした時、美術館で名前も知らない作家の絵を何枚か写真に撮り、その絵が後々有名になっていたと自慢していた。自分には良い物を見分ける目があるという話だった。それは自分が知らなかっただけで、美術館にある時点で有名なのでは…物は言いようである。 「わざと英語っぽくしゃべる人いるでしょう? 私苦手なの。知性と教養って内からにじみ出てくるというか。なんていうの? 自然に出てくるから、ひけらかさないのよ」  だんだん痛々しく聞いていられなくなってきたので、つい 「過去の武勇伝はもう十分聞きましたので、現在の話をしてもらっても良いですか」  と言ってしまった。  沈黙。  …あ、やってしまったと思った時には遅かった。  俺は仕事が出来ないくせに口だけは達者、他人の気持ちが分からない冷血漢、女性に言葉の暴力を行った「人でなし」の加害者と喚き散らされた。よくそんなに悪口が出るものだ。裏切り者呼ばわりである。  その場にいた同僚たちは「上司が悪いのだ」と裏から色々尽力してくれようとしたのだが、この戦いは同僚に迷惑をかけてしまうなと思い、俺は退職願を出した。しばらくして、少々ごたついたがこの元上司は部長へ昇進したらしい。  世の中そういうものだ。  △△駅で降りて行った彼女も、そういう不条理に巻き込まれないと良いのだが。
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