第一章 想像と妄想

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第一章 想像と妄想

 遠藤璃偉子(えんどうりいこ)は電車に揺られながら、今日も目が疲れたなあと思いながらウトウトしていた。  璃偉子は電車が好きだが乗鉄や撮鉄の人のように気合の入った「電車好き」ではない。おしゃれに路面電車というけどチンチン電車という言葉の響きが好きという、しょうもない理由なのだ。  この前、出張で広島に行った時に 「この町はバスも電車も全てが広島駅へ向かうのだ」  と友達から聞いた。  電車の種類はざっと見かけただけでも三種類ぐらいあり、車両の長さもマチマチで、古そうな電車もあれば新しそうな電車もある、過去と現在と未来がごった煮になった遊園地のような街だった。  百九十円という恐ろしく払いにくい運賃も「なんでやねん」とツッコミ不可避だ。ほとんどの乗客は交通系ICカードで乗車していたけど二百円にしても誰も怒らないと思う…いや、怒るのかな。揚げ紅葉と一緒に買ったご当地缶ビールもにごり酒のようになっていて、うっかり勢いよく飲むと足腰が立たなくなりそうだった。  いつもの電車のガタンゴトンも睡眠を促してくれるのだが、時々下ネタでクスッと笑いたい時もある。しかし他人に言われたのでは興ざめだ、息子なら許可しても良い。璃偉子は独身なので妄想の息子壱と息子弐がいる設定にしている。 (おかあさーん! チンチン!) (チンチン来たよー!) (おかあさんはチンチンじゃありません)  スマートフォンから得る情報は正しい事もあるけど間違っている事もある。正しい事は日々更新されていくから、自分の小さい時には正しいとされていた事が今では間違っている事が多々ある。正しい事が世間の多数決で決まってしまう危ない時代なのだ。  息子達(妄想)は私が守る!  璃偉子は戦隊物も好きだった。  ふふ…へへへ…むにゃむにゃと夢見心地になりながら、しょうもない妄想をする時間が楽しい。羊が一匹、羊が二匹の感覚でこのしょうもない妄想を繰り返す。人に言うほどでもない(人には言えない)璃偉子の楽しい妄想の時間が電車の時間だった。  数か月前、新型のウイルスがあるらしいとニュースが出て、遠い国の話だと思っていたのだが、あっと言う間に広まった。  感染者がA市在住だと報道され、しばらくしてB市でも感染者が出た。  A市とB市を結ぶ路線が、ちょうどいま璃偉子が乗っている路線だった。この路線便利だもんなあ…時差出勤やテレワークが推奨されている事もあるが、朝の乗車率が目に見えて下がっているので皆「この路線やばいな」と薄々気づいているのだろう。  最近、帰りの電車の床が毎日ピカピカになっていて、消毒しているような雰囲気も感じる。いよいよ由々しき事態になってきた。  そんな時も電車の発車の音が、♪チンチン という甲高い音だったら、十人中六人ぐらいは「なるようになるさ」と気持ちが安らかになると、璃偉子は勝手に仮説を立てていた。  タイプライター、ホテルのフロントの呼び鈴、風鈴、ちょっと高貴さを出しつつ、人の気持ちをリセットする高さの音もしくはそれを連想する言葉。♪チンチン ♪チリンチリン たくさん鳴るとイライラするので、この音には人の思考にズバッと横槍を入れる事が出来るすごい力があるという仮説だ。  走り幅跳びをした後の砂場をトンボで更地にするぐらいスッとリセットされる。気持ちがシュッとするのだ。  それに、駅のホームなどで大きいクシャミをする人をみかけなくなった。前の職場の元上司はマスクをしている人と見ると、 「言う必要ないと思うけど、受付が始まる五分前ぐらいにはマスクを外しておくの、もちろんわかってるよね?」  と言ってくる人だった。  マスクを外す? 風邪をうつすかもしれないリスクは二の次らしかった。直接的には言わないが、顔のパンツを履いているのはみっともないという表現をしてきたので、 「はは、対面でクシャミをして唾を飛ばすのは、パンツ履かないで急に顔に射精してくる変質者と一緒ですね。もしくは、ちょっと君パンツ脱いだらどうだねという意味合いかと思うと更に気持ち悪いですね。すいません、言い間違えました。変質者というより合意を強要してくる強姦でした」  と言いたいところを一応理性で我慢した。  言っても良いのだが、元上司と一緒に部長に呼び出しをくらうのは面倒くさい。  その元上司も今は新型ウイルス対策でマスクをしているのだろうか。 「マスク絶対外さないでね、誰が見ているか分からないから」  きっと今はそう言っているのだろう。外面が良いというか…マスクをしていても、していなくてもムカつく事案である。  元上司の手持ちマスクが早く無くなってしまえば良いのに。 (はいはい、♪チンチン)  チンチン電車を想像して、気持ちを落ち着ける。周りから璃偉子は落ち着いている、物静かだと思われているようだが、すごく怒りっぽいのをこうやって昇華しているだけなのだ。
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