花言葉は知っている

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 SNSの距離感は絶妙だと思う。一方的にいいねを送るだけの関係でも、ちっとも押しつけがましくない。相手はわたしとちがう次元で息をしている、ただそれだけのこと。  何千人ものフォロワーを抱えるあの人にとって、わたしという存在はきっとこの握り飯を構成する米粒以下なのだろう。三角の頂にかぶりつく。中にはほぐした鮭が詰まっていた。  毎朝、教室の扉を一番乗りでくぐる。窓側から二列目の、前から三番目、そこがわたしの席だ。朝練習で消耗したエネルギーを握り飯で補給しながら、SNSのタイムラインを惰性で眺める。あの人が投稿した写真には、いつも夥しい数のいいねが付いて、あの人を知らないだれかのもとへ拡散されて、そこでまたいいねが増えて。もしかしたら地球の裏側まで届いているのかもしれない。わたしは赤いポピーの花畑を素通りして、鉢植えで凛と咲くピンクのコチョウランのアップにいいねを送った。  教室には徐々に人が増えていく。視界の端をスクールバッグが素通りして、キーホルダーがじゃらじゃら揺れる。その中のひとつ、某テーマパークのマスコットキャラクターと目が合った。 「中山さんって、いつもおにぎり食べてるよね。ウケる」  斜め後ろの席の北川さんがスクールバッグを肩にかけたまま、わたしの前に回りこむ。キーホルダーはあさっての方向を見た。  北川さんは面白い玩具を見つけた子どもの表情でわたしを見下ろす。何がウケるというのだろう。腹が減ったらものを食べてはいけないのか。と思ったが「そうだね」とだけ返事をした。噛みつかないほうが得策なのだ。北川さんはつまらなそうに視線をめぐらせ、それに合わせて水玉模様のシュシュで束ねたポニーテールの毛先も揺れる。  北川さんは次の標的を見つけたようだ。隣の席の谷部(やべ)くん。猫背ぎみの背中、分厚い前髪で目元を隠し、授業以外はいつもカメラ雑誌を開いている。いちばん上まで留めた詰襟のボタンが窮屈そうだ。  北川さんが「すごーい。難しそうなの読んでるんだね」と一緒になって雑誌を覗き込み、谷部くんはのけぞるように距離をとる。北川さんは乗り出した姿勢のまま上目遣いに、「そうだ、今度さ、アタシを撮ってよ。可愛くね」と図々しくのたまう。谷部くんが水槽の中の金魚みたいに口をぱくぱくさせているうちに、どこからともなく男子の下卑た笑い声がさざめく。 「二人きりで撮影会とか、エッロ」 「ばぁ〜か。谷部くんはそんなことしないもん、ねぇ?」  谷部くんは耳まで真っ赤になった。北川さんもキャハハと笑う。 「やだー。ちょー可愛い」  猫背の背中をさらに縮こめる谷部くんに、わたしは同情した。 「ほら、席に着けよ」  開け放たれた前方の扉からひょっこり顔を出して、クラス担任の西田先生が教室に張りのある声を響かせる。チャイムが鳴る定刻一分前にやって来ては、教室をぐるりと一周しながら雑談に興じるのが先生のルーチンだ。馬鹿騒ぎをする野球部男子の坊主頭をファイルでぺしりとはたき、吹奏楽部の女子には金賞受賞を称える言葉をかける。北川さんも席に着くなり手鏡を片手に念入りにチェックし、近づいてきた先生には猫撫で声で接する。語尾にはハートマークがついているんじゃないだろうか。 「谷部」 「っはい」  背筋を伸ばし、返事する谷部くんの声が少々上擦った。西田先生は無言で野球部男子の頭をはたくのに使ったファイルを差し出す。ジャケットの袖口から覗くごつめの腕時計が銀色に鈍く光る。ファイルの表紙には「写真部活動記録」と題字されていた。谷部くんは真面目に活動している我が校唯一の写真部員で、西田先生は写真部の顧問だ。谷部くんが無言で受け取り、ファイルが先生の手から離れたタイミングでチャイムが鳴って、西田先生は教壇に向かった。 「HRはじめるぞ」  ちらりと視線をやった隣の席で、谷部くんは俯いて西田先生手書きの題字をなぞったあと、おもむろに机の中にしまった。
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