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夕焼けに照らされた草木の道を、僕は高速で駆け抜ける。
王城と町のちょうど真ん中あたりまで進むと、広大な野原から白く立派な屋敷がぽつんと姿を現した。
無理やり正門をくぐった僕を止めようと、屋敷の番人が長い棒で、僕を馬から突き落としたのだ。
──痛いっ!
強く打った腕の痛みに耐えながら、僕は番人の間をすり抜けて、大きな扉を体当たりして開けた。
「フェーリさまぁぁああ!」
腹の底から声を絞りだし、ひたすら彼女の名を呼んだ。
駆けよってきた番人に押し倒され、身動きを封じられたが、それでも僕は叫びつづけた。
悲鳴に似た僕の声は高い天井まで響き、上のほうでこだまする。
一度でいいからフェーリに会って問いたい。
この地を信仰の泉で潤すことは、本当に僕の使命であっているのか? それとも単に僕が間違えて、この世界に迷い込んでしまっただけなのか。
父様の言ったように、フェーリが神の子ならば、きっと僕の疑問に答えられるだろう。
息が苦しくなっても、僕はかすれた声で叫んだ。もしこれが僕に与えられた一つの試練であれば、ここで諦めるわけにはいかない。
そうして声を震わせていれば、ホールの奥から小さな人影がテクテクと僕に近づいてきたのだ。
ぱっと顔を上げると、その人物がみえる前に、僕より淡い青髪の男にどんと遮られた。
「何事だ?」
ドスの利いた声で、彼が尋ねた。
エプロンを腰に巻いている。この人は護衛ではないのか……?
「そ、それがですね、セルンさん。こいつが突然屋敷に乗り込んで、いきなり暴れ出したんですよ!」
「はぁ⁇ なにそれ。おい、誰だお前?」
と男は顔をしかめて、僕を見下ろした。
それより、彼の背後にいるのはフェーリ様なのか?
無言のまま、僕は必死に首を伸ばした。
すると彼の影から、1人の少女がチラリと顔を出してきた。
腕利きの芸術家が一生をかけて完成させたような、美しい顔立ちで、彼女は僕を覗きこんだ。
喜怒哀楽を感じさせない不思議なその面持ちは、まるで人間の領域を超越しているような、奇妙な雰囲気を醸し出している。
この子が父様の言った聖女……。
確かに普通の人間とはちがう感じが伝わってくる。
青い光彩を放ち、じぃと僕を見つめてくるその瞳に魂を吸われていくように、僕は息することさえ忘れそうになった、その時だった。
「おい、お嬢をジロジロ見んな!」
「!」
バッとエプロン男に襟元を掴まれて、体を高く持ち上げられたのだ。
「あ、フェーリ様……」
と自由になった手をそのほうに伸ばし、あと少しで触れられそうになったところ、ドスンと床に投げ飛ばされた。……痛いっ
「お前、その子爵家の紋章……」
僕の態度で頭にきたのか、男は腰の剣に手を当てた。
「ここはコンラッド家の屋敷だと分かった上で乗り込んできたんだろ? 覚悟はできてんだろうな?」
苛立ったその声と共に、鞘走る長剣の鋭い音が耳の奥に飛び込んできた。
──斬られる!
頭をよぎった恐怖は一瞬にして消えた。
もしこれも神に与えられた試練であれば、ここで僕は死ぬことはない。
そして案の定、僕は彼に斬られなかった。
床に倒れ込んだ僕の前に、フェーリ様は身を乗り出したのだ。
大きなステンドグラスの虹彩が、その小さな背中に照り返して、夢のような輝きをまとっているようだった。
……これが、神の子の光…っ
うっとりとその背後を仰ぎみていれば、
「あー、いきなり前に出て危ないだろ、お嬢!」
男の太い声に呼び戻されて、気づけば、フェーリ様の後ろ姿がサッと離れていった。
あっ! と咄嗟に手を伸ばして、男に抱き上げられたフェーリ様の足首を掴んだ。
「フェーリ、さま……うっ」
落馬の勢いで強く打った左腕から痛みが走った。いまは痛がる場合じゃないのに…っ
「おいお前、いい加減にしろよ! お嬢から手を離せ!」
そう言って、男は僕の左腕を蹴った。
そこから更に鋭い痛みが走り、じっと固く唇をかんだ。
「……フェーリ、さま……」
一心に彼女を見上げながら、その足首に手を回した。
この世界に迷い込んでしまったのは、僕の間違いなのかどうか。一言でもいいから、教えて欲しい…っ
口を開ける前に、また男に蹴られグッと堪えた、その瞬間だった。
──パチン、と大きな音が四壁に反響した。
「……えっ」
とフェーリ様に腕を叩かれ、男は石のように固まったのだ。
そうして彼の腕から抜け出し、フェーリ様は僕に振り向いてくれた。その表情はさっきと変わらず、平然としていた。
「……名前」
重たそうに開いた口から、澄んだ声が溢れでた。
初めて耳にしたその美声に感動して、じーんと胸が震えた。
「……キーパー・ストロング、でございます」
ああ、なんて冷たい眼差しだろう。
一寸も揺れなかったその水色の瞳は、まるで僕の心を見透かしているようだった。
そうしてフェーリ様に視線を投げかけていれば、
「大丈夫」
上から一切感情のこもらない声が降りそそいできた。
「あなたは、間違ってない」
「!」
バクンと心臓が強く跳ねた。
僕は、間違ってない……。
まだ口にも出していないのに、フェーリ様は僕の疑問に答えてくれた。やはり、この人は神の子だ……。
そう確信した瞬間、さっきまでざわめいていた心が、さぁと静まっていくのを感じた。
そうしてふいに息を呑むと、五感が麻痺したような、深い深い海に沈んだような感覚におそわれたのだ。
──僕は、間違ってない
そうだ。
これは神に与えられた僕の試練だ……。
そうだ、僕は間違っていないんだ!
熱くぼやけた視界でフェーリ様をみていれば、すっと目の前に愛らしい手が伸びてきた。
え……。
人間ごときの僕は神の手に触れてもいいのか……?
戸惑いながらそっとその手を握った。
「…………っ」
ああ、温かい…っ
冷淡な顔色と違って、すごい温もりを感じる……。
じわじわと胸いっぱいに熱が広がり、胸の興奮を抑えられなくなった僕は蹲って、泣き叫んだ。
「父様の言うとおり、あなた様は……くっ……」
ああ、これが父様の心を救った聖女の手か……。
僕の心まで温めてくれた。
素晴らしい……。素晴らしいよ、聖女様……!
ああ。やっとわかった……。
僕は神に見捨てられたわけではない。
僕はむしろ神に選ばれたものだ……!
ああ、そうだ。
この枯れた地を信仰心で潤すために、僕は神に選ばれたのだ!
信仰心に枯れた人々の心を救う、聖女様の手……。
この手を人々に届けるのが、僕の使命だ。
ああ、なら届けてみせるさ。
フェーリ聖女の手を必ず、僕が必ず、人々に届けてみせる!
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