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「フクリコウセイ?」
私の提案書を片手に、完璧すぎる笑顔でドナルド社長は説明を待った。
息を呑みこっくりと頷き、事前に用意した説明書きを社長に見せる。
<賃金の他に住まい、食事と医療を提供することで働く意欲を高めることができます>
具体的な計画書を提示すると、手を顎に当てながらドナルド社長はそれを真剣に読んでくれた。そうして慈愛に満ち溢れる表情を浮かべ、
「うん。説得力はあるけど、利益が出る保証はないから採用できないね」
と華麗に却下した。
長年提案書を拒否されてきたから、このくらいは予想内よ……! とすかさず成果報告書を差し出す。
コンラッド家の一部領地に実施した実験成果の報告書だ。
それも一つの事業に限ったものではなく、特に生産が低迷している様々な事業を中心的に実施したものよ。
ソワソワしながら社長の顔をうかがう。重たい沈黙ののち、社長はゆっくりと目を開けた。その口元にはいつもと同じ素敵な笑顔があった。
「うん。よく頑張ったね、フェーリ」
褒めてくれたが、結局肝心の承認はおりない。またダメか……とがっかりしたところ、社長の優しい声が聞こえてきた。
「実験の対象事業を増やして、それでも利益が認められたらまた報告しなさい」
そう言って報告書を返してくれた。
実験を継続してもいい……? え、一応社長に認められた、ということ?
不思議と提案書が通る気がして、今にも躍り出しそうな勢いで報告書を胸に抱き、自分の書斎へ戻った。
「ん? どうしたの、お嬢?」
速足で帰ってきた私に、セルンが驚いた素振りを見せた。その手はまだせっせと書類の山を片付けている。
喜びのあまり胸に抱いている報告書を彼に突き出し、
「実験を、続けていいと、お父様が、……言った」
頑張って声を出した。やったね! と喜んでくれると思ったが、予想と反してセルンは怪訝そうな表情を浮かべた。
「……続けるのそれ?」
<それって、なに?>
無表情だろうけど、口を尖らせるつもりで不満を表明した。
「うーん、そうだな……。フクリコウセイとか謎の用語はさておき。普通は使用人に賃金でさえ渋る貴族がいるというのに、お嬢は衣食住に医療も支給しようとするだろう? そりゃ無茶だよ……」
<それで働く意欲が高まれば、生産量は増えるの>
「一時的に意欲は高まるかも知れないが、長期化するとそれが普通になる。意欲の維持はできないだろ?」
正論で殴られた。
やっと社長に認められたと思ったのに、まさか水を差してくるとは……。悔しいけれど、セルンの言う通り。まだまだ問題点が多いわ……。
しょんぼりしてふかふかなソファに腰をかけた。
「……悪い、落ち込ませちゃったかな?」
すぐさま片膝をついて、セルンは不安げな表情で私を見上げた。相変わらず私の気持ちに敏感なのね。弱々しく首を横に振り否定してから、紙に返事を書く。
<大丈夫。セルンは正しいと思う。指摘してくれてありがとう。どうすればいいのかもうちょっと考えてみるわ>
「考えるってお嬢……まだ続ける気なのかい?」
頷きで返事をすると、セルンは眉をハの字に下げた。
「お嬢、あのさ。率直に言うけど本当は政治のほうを優先したいだろ? ならばこんな無茶な計画を諦めて、進捗確認に専念したほうがいいんじゃないのかい? いま書類が滞っているのも実験に時間をかけているからだろう?」
とまたしても正論で私を殴ってきた。
う、なかなか痛いよ、セルン……。
確かに提案書を作らなければ、少しは政治の書物に手を出す余裕はできる。しかし奴隷のように働く労働者たちを見捨てるわけにはいかない。
少なくとも最低限の環境を整えて彼らによりよい生活を送って欲しい。
せっかく権限のある家に生まれたのだ。
前世と同様でただただ穏便に生きようとして、今の自分にできることをしなければ、きっと後悔すると思う……。
正直にその思いを紙に記すと、なぜだかセルンが目を丸くして、つぶやいた。
「……本当の意味で聖女かも知れないな」
聖女……? なんだろう、どこかで聞いたことあるような……。
<本当の聖女って、どういう意味?>
その質問に答えることなく、そっとセルンが私の手を取った。どうしたの? と首を傾げたところ、セルンが自然と手の甲に唇を押し当ててきたじゃない……!
温かい感触が伝わり、はっと息をのむ。
子どもの頃から私を見守ってきたから、セルンは私を非常に大切に思ってくれている。その気持ちを表したいの分かるけれど、儀式の時以外、女性の手にキスをするのは告白同然の行為だよ……!
ふいと頬に熱を感じて、ピタリと固まれば、セルンは満足げな表情を浮かべてクククと小さく笑った。
うぅ、また私をからかって楽しんでいるのね……。
セルンにとって私はまだまだ子どもに見えるかもしれないけれど、私の精神は昔から立派な大人だから……!
こうして私をいじるの、本当にやめてほしい……。
困ったようにセルンの顔へ視線を固定すると、ふわっと頭をぽんぽんと撫でられた。
<私はもう子どもじゃないよ、セルン>
こんなことしたら誤解を招いてしまうよ、というつもりでセルンに文字を見せたら、指先でトントンと鼻先をなでられた。
それから首筋にセルンの顔が近寄り、「……知ってるよ」とくすぐったそうな囁き声が響いた。
うっ、絶対わかってないよ、これ……!
かっかと全身が火照った。
ああ、もう……。ただのイタズラだと分かっているけれど、体が勝手に反応しちゃうから困るの……っ
1人でドキドキしていると、突然セルンが意気込んだ様子で拳を握った。
「よし、頑張るお嬢のために美味しい料理でも作ってくるか」
ほぼ毎日作っているからか、近ごろのセルンの料理は料理人並みに美味しくなった気がする。私の体調を考えて作ってくれるので、優しさを感じてとても好きなのだ。
そうか、今晩もセルンのご飯を食べられるのか……って、そういえば、セルンはまだ私の質問に答えてなかったわ。
慌ててセルンを呼び止めようと重たい唇をひらいた。
「セルン……」
「ん? ああ、大丈夫。分かってる。とっておきのケーキも用意するから楽しみにしてよ、お嬢!」
え⁈ ちがうちがう、ケーキじゃなくてさっきの質問の答え、……というか、ケーキは本当にいらないから……!
ブンブンとかぶりをふったが、私の思いはセルンに届かなかった。
「ちょっと待ってな?」
それだけ言うと、セルンは廊下のほうへ出ていった。
え、うそ。ケーキだけ確定なの……。
バタンと閉められた扉を眺めて、しばらくポカンと立ち尽くしたのだ。
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