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31. 狸の巣
********【ジョセフ・オーウェル】
信頼できる人に後押しされ、嫌な思いで王国にやってきた。だが、やはり我慢できずニロ王子と険悪な雰囲気になってしまった。
右腕であるイグのお陰でなんとか不愉快な食事会を乗り越えたが、これからあと三日間ここに滞在しなければならない。気が遠くなる。
もともと伝統的な国教を誇る我が国──テワダプドルは、歴史的背景のある聖地の観光収入に頼ってきた。
6年の戦争がようやく幕をとじた。が、ストロング一家とその信者によって聖地は無残に破壊され、国が財政難に陥ったのだ。
イルナ川のお陰で、我が国は肥沃な地に恵まれている。のだが、王国の輸出に阻まれて、供給が大幅に需要を上回り、お陰で長年破格な値段での取り引きを余儀なくされてきた。
農産物による経済の復興は望めない。
政策に苦しんでいるところ、コンラッド家から手紙が届いたのだ。
新たに国教となった聖女教の中心人物。フェーリ聖女の父親を名乗るドナルドは、妥当な値段で農産物を買い占めてくれると買って出た。
怪しくて断るつもりだったが、これは経済を救う唯一の機会だ。イグに説得され、私は渋々この屋敷に訪れたのだ。
「ジョセフ様。例の取引ですが、ご了承いただけるとのことでよろしいですか?」
自称聖女のフェーリと王子が部屋を出たとたん、清々しい笑顔でドナルドが声をかけてきた。
見事な笑顔だ。作り物とは思えない。その顔をみているだけで、抑えられないほどの怒りがコンコンと湧き起こってくる。
取引で苦しむ我が国の経済を援助したい? ふん、響きのいいことを言うが、本当は自分たちの利益しか考えてない。
狐。いや、狸の巣に来てしまったな。
「ああ」
失礼だと承知しているが、それでもできる限り会話を避けたい。
「値段の方ですが、このくらいを考えています。いかがでしょう?」
ドナルドから綺麗に畳まれた紙を差し出された。慣れた手つきでそれを受け取ると、イグは私に手渡す。
「……!」
期待していなかったが、予想を遥かに上回る数字だった。
これはすぐにでも了承したい。しかし、なにか裏がありそうだ。一先ず平静を装い、イグにそれをみせた。
イグ・クニヒト──子どもの頃から私の傍に付き添ってきた子だ。イグは剣の腕だけではなく、頭も切れる。その助言で何度か命を救われたから、私は特にイグを信頼しているのだ。
しばらく黙ってから、2人しかわからない手話で助言をくれた。なるほど、と頷き、ドナルドに顔を向ける。
「手紙通り妥当な値段ですね」
「ええ。満足いただけてよかったです」
「はい、大満足です。……ところで侯爵。良い取り引きのお返しに私ができることはありますか?」
そう唆すと真顔でドナルドの反応を窺う。
「ええ、そうですね。可能であれば取り引きのことを内密にして欲しいですね」
紳士的な口調でドナルドが条件を言い出す。
理由を聞いても素直には教えてくれないだろう。ただ、聞かないで引き受けるのも不自然だ。
「表沙汰にできない理由でもありますか?」
わざと怪しむ様子を見せると、ドナルドはにこやかに笑った。
「いえいえ、そんな。大それた事情はありませんよ。ただ価格も価格ですから、市場のことを考えて口外しないほうがいいかと」
「……そうですね」
「ええ。コンラッド家は純粋にテワダプドルの現状を危惧しています。できる限りの支援を差し上げたいのですが、万一それで市場価格に影響が出てしまうと、困ります。取り引き自体がなかったことになりかねますからね」
明らかな脅し。
純粋に危惧するとはよく言えたものだ、狸め。
公表されてはいないが、ストロング一家を我が国に送りこんだのはコンラッド家だろう。知らないとでも思っているのか?
何を企んでいるのか分からないが、元はといえば全て王国のせいだ。
図々しくも自分の娘を聖女と偽り、国民を惑わす。
そのせいで罪のない人間が多く死んだというのに、その聖女やらがのうのうと生きるなんて……。許せない。
「……おほん、ジョセフ様」
つい黙り込むと、イグの声がひびいた。
この取り引きが成立すれば、国内の戦争孤児を養える。
その資金のためにきたのだろう? 感情的になってコンラッド家と喧嘩するな。長期的な未来を考えるんだ。
じぃと自分の怒りを抑えこんで、ドナルドに頷く。
「……分かりました。そうしましょう」
「ありがとうございます、ジョセフ様。ではこの値段で書類を用意してきますね。応接の間でしばしお待ちください」
優雅に辞儀をして、ドナルドは部屋をでた。
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