31. 狸の巣

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 もう帰ってきたのか? 慌てて眼鏡を掛けなおすと、上品な空気を醸し出す聖女の姿が視界に飛びこんだ。  平然とした顔で、笑顔どころか、感情の色がいっさい見られない。しかし、その頬に紅色を帯びているだけで、愛らしくみえる。何をしにきたのだ?    ゆっくりとソファに近づいてくる彼女にぱっと眉をひそめる。  元の国教を信じているから、聖女教に敵意を持っているわけではない。  むしろ国が平和であれば、国教自体あってもなくても別にいいとさえ思う。  ただ利欲のために戦争の火種を撒いた聖女教、そしてそれを助長しただろうコンラッド家をどうしてもよく思えない。  なにより、堂々と自分の娘を聖女に祭り上げる図太いところが一番気に食わない。 「おほん」    ついつい本気で彼女を睨んでしまい、イグに注意された。  イグの言うとおり、民にとって聖女の存在は大きい。そんな彼女を否定すれば、また紛争が起きてしまうだろう。  情けないが、国民が聖女を拝んでいる。  今の段階で彼女を受け入れ、コンラッド家と友好的な関係を結ぶほかない。  内心でわかっている。ただ、前世も列強(れっきょう)によって苦しむ人々を目の当たりにしてきたから、おのずとコンラッド家、そしてこの王国に拒否反応が出てしまう。 「先ほどは、申し訳、ありません……でした」  鈴を転がすような声で、聖女がゆっくりと謝罪の言葉を口にした。  ふんっ、と鼻を鳴らして、無視する。 「謝らないでください、聖女様……! あなた様に非はありません」  眉をハの字にして、イグが聖女を慰める。それから怖い顔で私を睨み、<全てはジョセフ様がいけないです> と手話で文句を言ってきた。  イグとは家族同然で一緒に育った。礼儀上の問題ではなく、聖女を庇うイグの態度が気に触る。  不満げに手をふり、手話で言った。 <本当のことを言っただけです> <私情ではなく、国のことを優先してください、ジョセフ様>  しかめ顔で正論を返された。  あれだけフェーリネシアを連呼した君に言われたくない!   そう言いたいところだが、イグの言うとおりだ。  いくら彼女が嫌でも、ここは国のことを優先して、いい顔を見せるべき。  キーパー・ストロングに騙されて、聖女を信仰するようになってもイグは国の利益を最優先にできる。色々な意味で私より冷静で遙かに優秀だ。 <ジョセフ様。意地を張らないで聖女様と会話してください> <……なにを話せばいいか、わからないです>  ふてくされてそう言い訳をすると、突然。 <雨、すごい、です、ね>  聖女は手話で話題を振ってきた……!  私とイグしか分からないはずなのに、なぜだ……⁇ <先ほどの雷はすごかったです、聖女様>  動揺することなく、イグは手話で聖女に返事をした。 「イグ……!」  忠告のごとき彼女の名を呼ぶと、「ほら、聖女様ですから」と逆にイグが諭すように言ってきた。  どう考えても可笑しいだろ!   しかし、私とイグで作った手話をなぜ使えるのだ? 理解できない。  訝しげな目を彼女に向けると、なにかを察知したのか、聖女は手を動かした。 <通じ、ました>  ……質問、しているのか?   表情がピクリとも動かないから、彼女の手話から感情は伝わってこない。よくわからず聖女を睨んでいると、 「通じましたよ」  ハスキーな声でイグが肯定した。  言ってはダメだろう! と首を横に振ると、イグは困ったような表情を浮かべて、小声で耳打ちしてきた。 『事実を否定しても仕方ありません、ジョセフ様。友好的な態度を示して、聖女様のご機嫌をとるほうが大事です。それで、是非即位式に参加してもらいましょう』  それが狙いか……。  やはりイグは冷静だ。諦めて、ふう、とため息をつき、険しい表情で聖女に頷く。
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