31. 狸の巣

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<通じて、よかった、です。この、手話、面白い、ですね>    つたない手話だが、なんとなく言いたいことが伝わった。 「子供のころ読んだおとぎ話を真似しただけです。聖女様にそう言ってもらえると、すごく嬉しい」  純粋な笑顔でイグは恥ずかしげに言った。 <ルセハン、と、ルテグレ>  小首をかしげながら、聖女は手話で名前を当ててきた。  私とイグしか知らないはずなのに、なぜ分かったのだ⁇  驚いて目を見開くと、イグは感嘆した様子で呟いた。 「聖女様、すごい……」  本当になぜ知っているのだ……。  聖女を怪訝そうに睨むと、<私も、読み、ました> と表情は変わらないのに、聖女はワクワクする身振りを見せた。  魔女に聴覚を奪われた兄妹の冒険を描く『ルセハンとルテグレ』。  イグと一緒に読んだこの本を真似して作った手話だが、2人でかなりアレンジを加えている。  同じ本を読んだだけでこの手話がわかるなど、納得できない。 <これは、おとぎ話、から、特定の、母音を略して、語順を、逆に、して、それで……>  淡々と難しいことを説明してきた。聖女は言語学に精通しているのか……?  唖然としていると、「フェーリネシア……」とイグは潤んだ目であの紛らわしい称号を囁き出した。  それで聖女は手の動きを止めて、小首を傾げる。  さすがにすべてを把握しているわけではないのか……。  少し安心した。 「その称号はやめなさい」  イグを咎めるようにそう言ったが、<ネシア?> と聖女は興味を示してきた。 「つまり救世主のことらしいです」  キラキラとイグの目が眩しい。  一方の聖女は顎に手を当てて、思い悩んでいる様子。  別に間違えたままでもいいのだが、やはり気になる。 「シア、です……」  諦め気味で小さくそう呟くと、 「……イエス、キリ、スト?」  唐突に聖女の声が響いた。発音が微妙にズレたが、キリストって言った気がする。  イエス・キリストはこの世界に存在しない。それを聖女が知っているなら、もしかして……!  興奮して彼女の両肩をつかみ、揺すぶった。 「君は──!」 「ちょっと、何するのですか、ジョセフ様!」  気づけばイグに手を掴まれた。  断りもなく淑女に触れるのは礼儀違反。  分かっているのだが、高揚した気持ちを抑えきれず、イグの手を振り払おうとした、その時だった。 「どうしたんです?」  ドナルドの声に、はっと我に返る。わずかだが、書類を握るその手に力がこもった。これはやってしまった……っ
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