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32. 早起きは三文の徳
********【フェーリ・コンラッド】
『昔から、余は……』
気づけば、コスモスの咲き溢れる芳しい畑で、ニロと向かい合っていた。私を見つめてくるその面持ちは、いつにも増して真剣にみえる。
『あの口づけは、あれは……』
ぽぅっとニロの頬が赤くなった。
口づけ……?
あ、そうだ。私と、ニロが……っ。
ドクンドクンと心臓の鼓動が乱れて、目を泳がす。
『……あれはただの事故だ、フェーリ。勝手に勘違いするな』
甘かった雰囲気が一転して、にわかにニロが迷惑そうな様子を見せた。
((ただの、事故……?))
一瞬だけ自分の心臓が動きを止めた気がする。
『当然だ。ずっと仲間だと言ったはずであろう?』
鋭い声と共に、ぼやっとニロの顔は霧がかり、表情が見えなくなった。
『フェーリ様、私という立派な婚約者がいるのに……』
『王子とはただの仲間なんでしょう』
『がっかりしたぜ……お嬢』
『え? 期待してたの? 図々しいわね』
『フェーリ、よくも私の顔に泥を塗りましたね』
次から次へと周囲に大勢の人が現れて、非難と嘲笑いが八方からとどろいた。
中にはキウス、セルン、ドナルド社長まで……。卑しめるような眼差しに耐えられなくなり、一歩後ずされば、背中が誰かとぶつかった。
振り向くと、舞踏会で会った令嬢たちがいた。顔を歪めて、チッ、と一つ舌打ちする。
『本当、いやらしい女ですこと』
令嬢の声は何度も反響して、ぐらりと視界が歪む。
振り上げられた美しい扇は、ありえないくらい大きくなっていく。
その場から逃げようとしたが、金縛りのように体が硬直して、動かない。
──潰される……!
バサバサ、という音がなった。それに続いて、重いものが床と衝突したような、鈍い音が耳元にひびく。
ぼんやりと瞼を開けると、見慣れた書物の山が崩れて、床いっぱいに散らばっていた。
ここは、私の書斎……?
周りを見廻して、目を擦る。さっきのは、夢、だったのか……。
身を起こすと、散らばっている書物のまんなかに人影のようなものがみえた。
あれ? セルン、じゃない……。
ぼやけた視界でその人物の顔を凝視する。誰だろう? 見慣れない顔だ。
灰色がかったブロンドの癖毛に、小さな丸眼鏡……って、ジョセフ⁇
無表情だろうけど、驚愕した。勢いよく立ち上がると、跳ねるようにジョセフは後ずさった。
その肘が書類の山にぶつかり、ぶわっと紙が舞い散る。
「す、すみません……!」
顔を蒼ざめて、ジョセフが書類をかき集める。慌てて私もしゃがみ、一緒に拾った。全部積み上げると、額に汗をにじませて、ジョセフが呟く。
「すごい量ですね……」
<見苦しい、ところを、お見せしました>
昨日ジョセフと付き人の間で交わされた手話を真似て反応した。
「……ここは君の書斎ですか?」
辺りを見て、ジョセフが訊く。その表情は昨日とちがって、敵意に満ち溢れていなかった。
手話で少しは打ち解けた、のかな……?
嬉しくなり元気よく頷くと、ざっと私を上から下まで見て、ジョセフが怪訝な表情を浮かべる。
「……昨日の夜からここにいたのですか?」
自分の格好を確認すると、昨日と同じ服装を身につけていた。あ、やっちゃった……!
あのあと書斎にこもり進捗確認をしていたら、そのまま寝てしまった。よりによって、こんな姿をジョセフにみられた。万が一ドナルド社長にバレたら……。
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