32. 早起きは三文の徳

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 嫌な汗が背筋をはう。しばらく口を噤むと、ジョセフはすまなそうな風で言った。 「君が寝ていると知らずに、勝手に入ってしまいました。……すみません」  淑女の寝顔を見るのはあまりよろしくない。  しかし、ここは寝室ではなく書斎だ。そもそも、こんなところで寝てしまった私の不徳の……って、ん? そういえばなぜジョセフは私の書斎にいるの……?  ジョセフをみて、小首をひねった。 <ジョセフ様は、なぜ、ここに>  ぎくっ、とジョセフの肩が跳ねた。 「……と、扉が空いてたものですから、つい、その……」  あたふたと言葉を濁して、ジョセフが目をそらした。間違えて入ってしまったのか? なるほど。気を利かせて、手話で話題を変える。 <今日は、お一人、ですか> 「……ああ。朝早くから起きたもので、イグはまだ寝てると思います」  丸眼鏡を押し上げて、ジョセフがボソボソと答えた。  イグはあの綺麗なお姉さんのことかな?   ちらりと時計に目をやると、針はまだ朝の5時を指している。  あ、確かに朝早い……!   慣れない部屋で落ち着かなかったのかな?  「……フクリコウセイ?」  開きっぱなしの計画書に視線を投げかけて、ジョセフがつぶやいた。あ、いけない……! さっと間に入って、書類を隠した。  一応社長に認められた計画書だけれど、まだまだ問題点が多く残っている。こんな中途半端なものを人に見せられないわ……。  おどおどしていると、ジョセフは訝しげに眉をひそめた。 「私に見られて困るものですか?」  ジョセフは明らかに私を嫌っている。せっかく、普通に接してくれたのに、このままだと、また険悪な雰囲気に戻ってしまう……。 <まだ、書いている、段階で、問題点が、多いです>  もじもじして手話で説明する。 「君が書いているのですか?」  恥ずかしそうに頷くと、ジョセフは目を見張った。 「……私に見せてもいいですか?」  なぜか興味津々だ……! <まだ未完成で、ジョセフ様に、お見せできるものでは、ないです>  婉曲に断ってみたが、「それで構わないです」と全く通用しなかった。そういえば、これはニロにしか通じない。いつか、はっきりと人を断れるようになりたい……。  食いついてくるジョセフを断りきれず、しぶしぶ分厚い書類を差し出した。なさけない……。  丸眼鏡の位置を軽く調整して、ジョセフは計画書を精読しはじめる。  真剣な表情で、最後の1ページまで読んでくれた。嬉しいけど、なんだか怖い……。 「ちゃんと書けるのですね……」  途轍もなく意外そうな表情だった。一応褒め言葉だよね……?  違和感を覚えつつ、手を動かせて礼を伝えた。 <ありがとうございます> 「非常によく纏まっていて、特に問題点はないと思うのですが……」 <労働者の、働く意欲を、維持できないと、利益の、保証は、できません」 「そもそも、これは利益を出すための計画書ではないですよね?」  ズバッと返された。  うっ、根本的に否定された。これは鼻で笑われるよりもかなり痛い……。 <利益が、でないと、お父様の、許可が、おりません> 「……本気で利益を出したいなら、労働環境よりも事業を立案したほうが……。というか、むしろ、ちゃんと実験までおこなった君なら分かっているはずですが……」  率直な意見はぐさっと胸を突き刺さる。皮肉ではなく、純粋な疑問であって欲しい……。 <働き手の、労働環境を、改善したいです> 「……利益よりも、ですか?」  凝然とジョセフが私をみた。なにをこんなに驚いているの? 変なこと言ったかな……?  ジョセフの問いに答えようと、手を動かした時、 「──もう! 今日に限って書斎にこもるなんてお嬢……んっ?」  突然セルンが書斎に入ってきた。 「えっ? あ……、これは、ジョセフ様。大変失礼致しました」    一拍遅れてセルンが頭を下げると、ジョセフは気まずそうな風で、「……ああ」と冷たく返した。
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