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33. 竜虎相搏
「聖女、丁度いいところにきました」
朝の支度を終えてセルンと二人で応接間に入ると、ジョセフに歓迎された。窓際の席でビスケットを頬張りながら真剣に何かを書いている。その隣にイグが立っている。
「勝手に考えてみたのですが、利益確保が難しいであれば逆に経費削減のほうに力を入れるのはどうですか?」
<経費削減、ですか>
どうやら計画書の改善案を考えてくれたらしい。その向い席に座り、首を傾げる。
「ああ、例えば現在の賃金から毎月20分の1を差し引いて、医療資金に当てるとこのくらいの余裕が出ますよ」
そう言ってジョセフは数字を見せてくれた。
なるほど、医療保険的な発想か……。
いい案だが、突然賃金を減らすなんて言ったら、労働者は戸惑ってしまう。
<賃金を減らすと、不満が、積もりませんか?>
「無料で医療を受けられるなら、大丈夫だと思うのですが……しかし、そうですね。不安なら増給額から引くのはどうですか?」
<増給額、ですか>
「そうです。この国の通貨、リエでいうと、10リエから半分を引いた5リエを名目上の増給額とすれば、労働者は賃金が減ったことを自覚しないし、その分経費は抑えられるのです」
こっそり抜くということか、なるほど。
一つの手段としてありかもしれない。けれど、それだと増給額を当てにできない一年目の医療費をコンラッド家が負担するということになる。
最初から確実に利益を確保できなければ、当然社長は許可してくれないだろう。根本的な問題を解決できないわ……。
<1年目は、コンラッド家が負担する、ということですか>
不安げな手振りでジョセフに尋ねた。
「いいえ、それだと許可はおりないでしょう」
手に持っているビスケットを全部口に入れて、ジョセフは軽く両手を擦る。
「前倒しで労働者から料金を頂戴することになるのですが、1年目はとりあえず全員分の増給額が出るまで一方的に調整させてもらう。それで集めた予算を使って2年目以降の医療費に当てる。多少身勝手だが、確実に侯爵の許可が欲しいならこれは仕方ないことでしょう」
確実に許可が欲しいならって……まだ何も言ってないのに、ジョセフはドナルド社長の方針を把握しているみたいだ。
「この方法を使えば1年でこのくらいは確保できますよ」
ささっと紙に数字を書いて、ジョセフはそれを私に差し出す。すごい、一瞬で100人分を2年目まで計算してくれた。
<なるほど>
疑っているわけではないが、ジョセフの計算を一度脳内で照合する。うん、全部合ってるみたい。さすが王様、しっかりしているわ。
瞼を閉じたままこの数字をコンラッド家の労働者数、千単位に換算する。1年目はそうでもないけれど、2年目以降はかなりの経費を抑えることができる。
毎月全員が病気になるわけではないから、順調にいけば5年目になると逆に資金が余るくらいだ。これならいけるかもしれない……!
<浮いたお金を、一番利益を出した事業の労働者に、賞金として分配すると、ある程度働く意欲も、維持できますね>
この手話にも少しなれてきたわ。
ワクワクそう伝えると、ジョセフは目を大きく見開いた。
<ここで少々、お待ちください>
舞い上がって椅子からすっくと立ち上がり、扉に向かってスタスタと足を運ぶ。
本当はジョセフを書斎に招きたいところだが、
『お嬢の計画書はもういいんだけど、ほかは機密情報だから、絶対にジョセフ様に見せないで!』
と先ほどセルンに厳しく注意されたのだ。仕方なく一人で書類を取りに行く。
「……本気で利益を気にしないのですね」
よく聞こえなかったが、背後にジョセフの声が響いた。重要なことならあとでもう一度言ってくれるだろう。そう思い、ジョセフに振りかえることなく、早足で二階の書斎を目指した。
私の中途半端な案を否定するどころか、ジョセフは親身になって、一緒に解決策を考えてくれる。このまま彼が知恵を貸してくれるなら、もしかしたら念願の計画書を完成させることができるのかも!
初対面の冷たい反応でジョセフに嫌われたと思ったが、いまはちがう。素直にお願いすれば、不思議と手を貸してくれる気がする。
怪訝な表情で何か言いたげな顔のセルンを素通りして、分厚い計画書とペンをさっと掴み取ると、うわずった気分で応接間の方へと足を運んだのだ。
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