35. 嫌な予感

1/3

557人が本棚に入れています
本棚に追加
/308ページ

35. 嫌な予感

********【ジョセフ・オーウェル】  鼻腔を(とろ)かすチーズとハーブの香気(こうき)に混じって、どこからともなく何かが焦げたような強い匂いが鼻をツンと刺激する。その原因は言うまでもなくテーブルに出された二つの平皿のどちらかにある。  現実逃避を兼ねて、まずは挽肉を焼いたハンバーグのようなものに目を落とす。光沢を帯びた肉の上に乗っているチーズはこんがりと焼き目がついていて、見ているだけで食欲をそそる。  いかにも美味しそうな香りをぷんと漂わせてくるハンバーグが元凶ではない。となれば、異臭を放っているのは多分、いや、間違いなくその隣にあるご飯だ。心の中でやはりかと確信してそっと目を瞑る。  ……イグ、我が国の特産品である白米を炊いたはずのこれがなぜ茶色いんだ? 「申し訳ありません……ジョセフ様……」  悔しそうに下唇を噛み、イグは俯いた。凹む彼女をちらっと見て、軽くため息を漏らす。  王国にきてわざわざ厨房に入ったのは、我が国の名物を使って聖女の興味を引こうとしたのだろう。その考え自体は否定しないが、でき上がったものがこれだと、さすがに聖女も興味を示さないだろう。  まあ、最初からこうなることは分かっていたが……。  宰相の娘であるイグは普段から料理を作らない。  特に子供の頃から一緒に暮らす私を守るために、イグはひたすら剣技ばかりに精を出してきた。だから、いままでずっと家事全般と無縁の生活を送ってきたのだ。  そんなイグが唯一料理を振る舞う時といえば、それは私が風邪を引く時くらいだ。しかし、それも料理と言えるほどのものではなく、ただのお粥……いや、焦げた米の塊にお湯をぶっかけたようなものなのだが。 <いつもありがとう、セルン>  ご飯ではなく、ハンバーグとパンを前に、聖女は紙で付き人に礼を示す。別に喋れないわけではないのに、なぜか彼女は滅多に口を開こうとしない。私とイグにもずっと手話で返事をしてきたし、もしかして何か特別な理由でもあるのか? 「いいえ……」  聖女に返事しながら、セルンは目を細めて私の前にあるご飯をさりげなく見た。    非難めいたものではなく、単に哀れんでいる彼の視線が鋭く胸に突き刺さる。申し訳ない、イグ。もう少し頻繁に私が風邪を引くべきだった……。  セルンと目線を合わせた聖女もご飯に目を向ける。 <それはお米ですか?>    聖女の文字をよみ、首肯する。 「ああ、我が国の特産品だ」  本来ならこんな黒焦げではなくふっくらと炊き上がるはずなのだが……と付け加えたらイグに文句を言われそう。  私の返事を聞いた聖女は口を噤んでじっとご飯を見つめる。  どうやら王国に流通していない米に興味津々のようだ。一応狙い通りか。よかったな、イグ。 <美味しそうですね。私もお米が食べたいです>  しばらく黙り込んだ聖女は思い切った様子で文字を見せてきた。  美味しそう? ……いや、どう見ても焦げてるだろ。  これはただのお世辞だ。しかし、ただの高慢ちきな令嬢だと思ったのに、まさかイグを配慮してくれるとは。少し意外だ。 「申し訳ありません、ですが、この通り失敗してしまったものを聖女様に召し上がってもらうわけには……」  もじもじしてイグが説明する。  妹のように可愛いイグが頑張って作ったものに文句をつけるつもりはない。ただ、失敗している自覚があるなら、私のほうにもパンを出して欲しかった……。  落ちこむイグをみて、聖女は紙に字を大きく書いた。 <私も炊けないので、気にしないでください>  それをみて、イグは嬉しそうに微笑んだ。 「お気遣いありがとうございます……聖女様」  少し元気を取り戻したようだ。  基本的に令嬢は料理を作らないから、聖女がご飯を炊けないのは当然だ。  本来ならそんな当たり前なことを言われてもなんの慰めにもならない……はずだが、イグも我が国の令嬢だから通用する。  つまり、聖女は前もってイグが宰相の娘だと知っていたのか。  なるほど。だから彼女を配慮したのか。  一瞬だけ誠意を持っているかもと期待したが、でもまあ、聖女はコンラッド家の息女。王国を裏から操っていると噂されているくらいだから、このくらいは把握しているか。謎が解けて少しがっかりしたところ、聖女はセルンをかえりみた。 <セルン、パンと米を交換してもいい?>  え? なに、交換?   ……本気で食べるというのか? いやまさか……。  いくらイグが宰相の娘とはいえ、コンラッド家の令嬢がここまで体を張る必要はないはずだ……。  セルンの困惑した表情をみて、聖女は文字を書き足した。 <お願い、セルン>  相変わらず同じ表情を浮かべる聖女を数秒ほどみてから、セルンは小さくため息をこぼした。 「分かりました。少々お待ちください」    そう言い残して、セルンは厨房へと戻っていった。  まさか、本気でパンと米を交換するつもりなのか?   いや、いくらなんでもそれはないだろう。だって聖女はコンラッド家の大切な令嬢。そんな彼女に焦げたものを食べさせるはずが……。
/308ページ

最初のコメントを投稿しよう!

557人が本棚に入れています
本棚に追加