38. 朝の香り

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 下を向いたまま語りを終えたジョセフは、悲痛な面持ちで下唇を噛む。 「責任をとってこのまま王位を放棄すれば、また国が混乱して人々が苦しんでしまいます。すべては、私一人のせいで……」 「いいえ。それは、……違います」    すっくと立ち上がり、握り拳を作った。 <諸悪の根源は、ジョセフ様では、ありません> 「……え?」  きょとんとするジョセフに、熱意のある手話で説明を始める。 <戦争は複雑な事象がつながって、引き起こされるものです。あまたの条件が全部揃わなければなりません。ですから、特定の誰かのせいには、できません>  一区切りをつけて手を休ませると、戸惑った様子でジョセフは口をひらいた。 「いいえ。今回は確実に私一人のせいです」  ぷるぷると首をふり、精いっぱい手話で補足する。 <もしジョセフ様が正室の王子であれば、もし国民が聖女教を拒んでいれば、もしストロング一家が王国から追放されなければ、もし私が誘拐されなければ。これらすべての条件が揃わなければ、戦争は起こり得ません。考えようによっては全員に非がありますし、裏を返せば誰も悪くありません。正解のない責任を、ジョセフ様が無理してとったところで、終わった戦争をなかったことにはできません。それ、でも、責任を感じるなら、いま、できることを、考えて、最善を尽くす、しかないと、……思います>  途中で手が震え、ぎこちない手話になったが、なんとか伝えたい言葉を伝えた気がする。  固まるジョセフへ視線を固定したまま、必死になって言葉をつむいだ。 「ジョセフ様が、いま、できることは。……なん、ですか」  かっと目を見開いて、ジョセフの瞳がゆれた。  そうして太もものあたりで拳を握り込んでから、ぐいっ、とジョセフは紅茶をあおり、力強く答えてくれた。 「……王になって、国を守ることです」  こくこく元気よく肯定すると、ジョセフは口元を綻ばせてみせた。憂愁と安堵の色が混ざり合ったような、不思議な表情だ。  何気なく切なそうな表情だけれど、はじめて彼の笑顔をみた気がする。  回避できなかったとはいえ、事実として苦しんでいる人がいることに変わりはない。  戦争のない平和な世界。  ジョセフほど素晴らしい理想を持っていないけれど、それでもニロと生きるこの世界を大事にしたい。  そのために自分のできることをする。  それしかないのだ。  登りはじめた陽光に包まれながら、立ち上がったジョセフと向かい合っていれば、「……あっ!」と急にジョセフは頬を真っ赤にして、くるりと私に背を向けた。  どうしたのかしら? 「暗くて気付きませんでしたが、君のその服は……!」  服? 服がどう──ってああ!   朝日を浴びて薄っすらと透けて見える自分の身体を慌てて両手で隠す。  昨日の夜、セルンとモンナに無理やり寝室に入れられた後、こっそり抜けて書斎に戻ったから、 ネグリジェ(寝巻き)のままだった!  ジョセフにこの姿を見られたなんて、モンナとセルンにバレたら……! 「……失礼、します」  ゾッとして屋敷へ戻ろうと速足で歩き出したところ、 「聖女!」  とジョセフに呼び止められた。  振り向くと、陽光を弾いて金色に光るジョセフの髪がぱっと目を惹いた。  ……わぁ、きれいな色。  思わず見惚れる私に目をやることなく、ジョセフは俯いたまま辿々しくつぶやいた。 「よかったら、また、……その、……美味しい紅茶を、淹れてくれますか?」    紅茶を淹れたのはセルンだけれど、とりあえず頷いた。  ジョセフとの誤解が解けて本当によかったわ。  これで南の国とうまく外交を結べるといいね。  その期待を胸に、張り切って声をだした。 「……もちろん、です」  それから音を立てないように聞き耳を立てながら、自分の寝室へと忍び込んだのであった。
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