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「……なんで寝ないで本を読んでるんだ、お嬢? 目の下にくまができちゃうよ?」
扉に鍵をかけて、セルンはにんまりと笑った。それから本を抱いている私を見て、困ったような顔をする。
<寝ないじゃなくて眠れないの>
テーブルの上にある紙を手にして答えた。
「眠れない? 船酔いしてるのかい、お嬢?」
<ううん。違う。最近嫌な夢ばかりを見て、寝るのが怖いの>
「どうしたんだい……? 悩み事でもあるのかい?」
心配してくれるセルンに首を横に振った。
<なんでもないよ>
「なんでもなくないだろ? どうしたんだ、教えて?」
と真剣な口調で言ったセルンに再び首を横に振り、やんわりと目を逸らす。
私の反応に敏感な彼にこのくらいのごまかしは通用しない。
分かっているけれど、正直にニロのことで悩んでいると言ったら呆れられてしまいそうで怖い。
「……オレが信用できないのかい?」
おずおずしていると、セルンは悲しげな目で私の顔を覗き込んできた。
うっ、これは正解のない質問だ。
だって明らかに信用しているという回答しかない。
でも、普通にそう答えたらセルンは絶対に教えてと迫ってくるから、結局彼に話すことになる。
セルンはわかっていてそう聞いてきたのね……。相変わらず手強いわ。
うーん……。これは誰かに相談するほどのことでもないのだけれど、セルンに言ってもいいのかな?
<教えたら秘密にしてくれる?>
そう確認すると、セルンはわずかに目を見開いた。
あ、セルンが固まった。
心配してくれたとはいえ、いきなり秘密にしてとか、やはり変、だよね……。
言ったそばから後悔していると、セルンにふわっと頬を撫でられた。
見上げれば、そこには艶っぽい笑顔がある。
「……うん。いいよ。……二人だけの秘密にしよう」
耳元で囁かれて、かあと首すじから火照ってきた。
セルンの魅力に耐性ができたと思ったけれど、どうやら気のせいだったみたい……。
深呼吸をくりかえして、紙を握りこむ。
このまま一人で悩んでも解決できそうにないから、思い切って彼に打ち明けた方がいいのかもしれない。
ベッドに腰をかけてその隣に座るようぽんぽんと叩くと、セルンはキラキラとした笑顔を見せた。
なんだかすごく嬉しそうだ。信頼されて喜んでいるのかな……?
特別だと思っていることもそうだけれど、普段から信用しているのにいままで伝わらなかったのかな?
「さあ。なんでも言って!」
うきうきと聞く体制に入ったセルンにこっくりと頷き、紙に字を書きはじめる。
「……えーっと。つまり、ニロ様に告白されて眠れないほど悩んでるってこと?」
さっきとうってかわるように、セルンはつまらなさそうな顔でそう確認してきた。
首を縦に振って肯定すると、
「いや、これは別に秘密でもなんでも……。はあ……」
セルンはなんとも言えないような表情でガックリとした。
それから真剣な眼差しで私を見つめて、質問を口にする。
「で。……お嬢はさ、ニロ様をどう思っているんだい?」
ニロのこと……?
『余がお前を守れるようになるまでの辛抱だ、フェーリ』
私は……。
『……必ずお前を幸せにする』
ニロのこと……。
『余はお前が愛おしい……仕方ないほどに』
ドキッと胸がふるえた。
そうしてニロとの思い出がまざまざと瞼に浮かんで、ドンドンと顔に血が上ってきた。熱くなった頬で返事に困っていると、
「ごめん聞いたオレが悪かった! いまの質問を忘れてくれ……」
ひどく落ち込んだ様子で、セルンは再びガックリと肩を落とした。
「……それで婚約者に不誠実じゃないかって悩んでるのかい?」
疲れた顔のセルンにコクリと頷き、紙をみせる。
<キウス様と婚約している身なのに、ニロのことで喜んで浮かれるのはどうかしているわ>
「よろこ……、はあ……。別にいいんじゃないの? そんくらい……」
<よくないわ。セルンはいつも私にはキウスという立派な婚約者がいるって言ったじゃない >
「……いや、あれはただの口実で……。でもまあ、正直言って、政治上の都合でお嬢とキウスの婚約は簡単に破棄できないとオレは思った。だが、血眼になって、権力を増やしてきたニロ様の様子を長年見てきたから言える。あれは無理にでも解消させる気だから、心配することはないよ」
<そうなのかな……?>
「大丈夫だよ、お嬢。貴族間の婚約なんて口頭約束みたいなもんだし、本当に解消できてもキウスに悪いと思うことはないよ。そもそものんびりしすぎるあいつが悪いし……」
そう呟くセルンの声はだんだんと小さくなっていき、最後の方になるとまったく聞こえなくなった。小首をひねると、セルンは姿勢を正して、言葉をつづけた。
「いや、とにかく! まだ結婚してないんだから、まじで気にするな。少なくとも、オレはお嬢が悪いとこれっぽっちも思ってないから、もう悩むのやめようぜ?」
まだ結婚していないから悩まなくてもいい。そういうものなのかな……。
でも、仮にキウスと結婚することになっても、多分私はニロのことが……。
<なにがあってもセルンは私の傍にいてくれる?>
不安げにそう問うと、
「あったりまえだろ?」
迷うことなくセルンは即答してくれた。
そして嘘ではないと訴えてくるその真顔をみて、胸がポカポカと暖かくなった。
ただの護衛ではない。やっぱりセルンは特別だ……って、え?
礼を書き記そうと手を動かしかけた時、突然セルンの胸に引き寄せられた。
「……この鼓動を聞こえるかい、お嬢?」
鼓動……? と不思議がった刹那、ドクンドクン、と密着している耳に脈打つ心臓の音が鳴り響いた。時を同じにして、頭上に柔らかいものを押し当てられ、かっと頬に熱が持ちあがる。
き、急になに…っ
当惑していると、セルンの柔らかい声がふってきた。
「オレはお嬢に心臓を誓ったからさ。いやでも死ぬ時まで一緒にいるよ」
な、なるほど。そういうことね。……びっくりしたわ。
セルンは私に心臓を誓ったから、なにがあっても私の傍にいてくれる。
束縛しているようで申し訳ないけれど、これ以上心強いことはないわ。
「あり、がとう。……セルン」
頑張って声をだした。
「いいんだよ」
そう呟くと、セルンは私の頭をなでてから、しばらくその上に唇を重ねた。
セルンにとって、私はまだまだ子どもに見えるから、こんなことをしているのだろう。少し過保護な部分もあるが、セルンは心底から私を大事に思ってくれる。
ニロのことで彼に呆れられると本気で悩んでいたのがバカみたいだ。
もっと早くセルンに打ち明ければよかったと、安堵が胸いっぱいに広がった。
安らぎを覚え深く息を吸うと、どこからともなく甘美な香りが空気の中に混じった。これはセルンの匂いだ……甘いのになんだか落ち着くわ。
このままずっと彼に頼り続けてもいいのかな……?
三日もちゃんと眠れなかったせいか、セルンの腕の中ですっかり気持ちよくなった。そうして、船体に打ち付ける波の心地いい音に耳を澄ませながら重たい瞼を閉じた。
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