「ある冬のある日々の」

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 白い息が宙に舞う季節が今年もやってくる。  仕事が捗って特に残業もない今日は、7時前だというの殆ど社員が見えない。  珍しさに便乗して最後の一つをEnterキーで入れ込む。これで全部だ。普段ならここで伸びのひとつでもやっているところだが、あいにくとそんな余裕はない。鞄の中を意味もなく見つめて、早すぎる緊張を呑み下す。  落ち着くためにゆっくりと身支度を済ませて、けれど足早に下の階へと向かう。 「おお、高山お疲れ」  乾いた声が肩に掛かる。振り向くと上司が恰幅の良いお腹を前に押し出して、朗らかな笑みを浮かべていた。 「お疲れ様です、課長」  しまった、と思いながらも無視するわけにもいかず、焦りを背中に隠した。この上司とは若手時代から付き合いで、よく飲み会に誘ってくる。ありがたいが生憎と今日はマズい。 「どうだ? これから一杯」 「あはは……すみません。今日はその、大事な用がありまして……」 「なにかあるのか?」  予想通りの展開になってしまい、苦笑いで頭を悩ませる。 「そういうことをあまり詮索するのはNGですよ、課長」  きりっとした声が二人の間を割って出る。思わぬところから助け船が届いた。  同僚の霧島さん、髪からほんのりとした香水の匂いが違和感なく鼻を包み込む。  プライバシーってものがあるんですから、と言って彼女は軽く息を吐いて、課長をあしらえる。 「いや~、すまんすまん。堪忍!」  課長が薄毛の頭を掻きながら謝罪するのをよそに、彼女は横目で『頑張って』とウィンクしてきた。数少ない鼓舞の言葉に勇気づけられ、こくりと首を縦に振る。 「……ありがとう、霧島さん」  小さく言い残し後にする。今度なにか奢ろうと心の中で決意し、1階へのボタンを押す。数秒の後に扉が開くと颯爽とロビーへ。受付に軽く会釈して駐輪場へ向かう。  愛用のロードバイクに跨がり、どっしりと腰を据える。  冷たい空気が顔に触れて、マフラーが靡く。夜から雪が降ると今朝天気予報で言っていたのを思い出した。交差点を右に曲がり住宅街を抜け、駅沿いの道を通り過ぎる。イルミネーションを見に来たカップルが微笑ましく手を繋いでいた。  携帯の鳴る音が人混みに走る影を止める。メッセージをタップしてチャットアプリに飛ぶと、家の主人からいくつか通知が来ていた。  メールの内容はなんてことない、帰りの時間の話だった。  今から帰ると有無を伝え、再びペダルを踏み出す。  11月22日、今日は大学時代から付き合っている彼女の誕生日だ。  寄り道にケーキ屋に寄り、兼ねてから予約していたものを受け取る。自転車で坂道を駆け下り、彼女の待つ家へと向かう。寒いはずの冬風が熱を帯びた体には心地良い。期待と高揚が胸を織りなす緊張感が僕の小さな心臓を締め付ける。  今日、僕は一世一代の大勝負に出る。  彼女の生まれたこの良き日に。僕はプロポーズを仕掛ける。  頭の中で何度もシュミレーションをして、動作の確認を一個一個やっていると家にはあっという間に着いてしまった。  駐輪場に自転車を停めて階段を駆け上がる。蹴躓かないように注意して登り切ると、普段何気なく目にする家の扉がいつもよりずっと大きく見えた。  すかさず押さえつけていた緊張が鼓動を早めさせ、額を妙な汗が垂れる。  深呼吸、深呼吸と心の中で反芻し、肩を大きく上下させる。 「……よし、いける」  瞳を大きく見開き、ドアノブに手を回す。冷え切った握り手がゆっくりと回り、扉が開かれた。 「……た、ただいまぁ」 「あ、おかえり!」  甲高い声が耳を包む。明かりの点いた1LDKのリビングからエプロン姿の恋人が顔を出す。彼女が空野佳代。僕の恋人だ。身長も相まって年齢の割に少しばかり幼く見えるせいか近所ではよく兄妹に間違われる。 「はやかったんだねっ」  明るい笑顔を浮かべる佳代に目元が緩み、気合いが抜けそうになる。 「うん、今日は早めに切り上げてきた」  そんなに急がなくてもいいのにと、佳代はぼやくがそういう訳にはいかない。 「はいこれ、ケーキ買って来たよ」  右手に持った紙袋を佳代に渡す。彼女の好物の小豆が入った和風ケーキだ。気にいるだろうか、内心そわそわしながら佳代がケーキ箱を開けるのを眺めるが、淡い不安はすぐに消えた。 「わあ……ありがとう!」  意外にも喜んでくれたことにほっとしながら、彼女の朗らかな笑みに微笑み返す。 「よかった」 「あったりまえだよ! 切り分けてくるから、手洗ってね」  足早にキッチンへと戻ってしまう佳代を見届けて、ひとまずの緊張を解く。どっと疲れの出る感覚に襲われるがこんなのは序の口。本番はこれからだ。  リビングの丸テーブルに腰を下ろしながら彼女を待っている間、話を切り出すタイミングを見計らう。 「はい、できたよぉ〜」  キッチンから佳代の軽い足取りが姿を表す。皿に盛り付けたケーキを持って佳代が僕の隣に座った。眉唾を飲む音が、鮮明に聞き取れる。緊張が頂点に達して、もはやケーキどころではなかった。 「……さ、食べよっか」  にこりと微笑んだ佳代がフォークを手に持つ。青白く光る銀の先端が小豆の黒いヴェールを破ろうとしたときだった。 「か、かよっ!」  うわずった声にぴくりと彼女の手が止まる。きょとんした佳代は首を傾けたまま、こちらを見ている。 「き、君に言わなきゃいけないことが――」  佳代の吐息がすぐそこまで感じられる。もともと近かった佳代との距離をさらに詰めて、しどろもどろに言葉を紡ぐ。  本当はもう少し雰囲気のあるタイミングで言い出したかったけれど、僕にはそんな度胸はなかった。  いましかない。そう思って口を開いた。 「――恭介、あのね」  けれど言葉を最後まで言い終える前に彼女に先を越されてしまった。テーブルにゆっくりとフォークを置き戻し、儚く笑った。 「え? あ、うん」 「……私ね、今日病院行ってきたの」  その声音は先ほどとは違い、どこか陰鬱で。なんとなく嫌な予感がした。 「どこか、悪いの……?」  怪訝そうに眉をひそめる僕に、一瞬彼女の表情に影が生える。しかし、すぐに顔を上げて目を細めた。 「……うん、ちょっとね」  佳代は曖昧な返事をして、苦笑いを浮かべ、黙りこくってしまった。訳が判らないまま、重苦しい空気が流れる。数分後、吐き捨てるように唇が動いた。もうその声はかつてのものを知らず、言葉を終える頃には別のものになっていた気がした。 「……子宮がね、癌なの」  声が漏れた、気がした。理解が及ばなかった。『癌』その一言が妙に鮮明に残り、何回も頭の中で反芻する。それまで考えていた言葉も気持ちも。全てが消え去った。 「………え?」  口をわなつかせ、かろうじて出た言葉は、佳代の無表情な声でかき消された。 『子宮頚がん』――それは誰しも一度は耳にしたことがある病気だった。若い女性に多く見られ、早期発見であれば、治療がしやすく完治も見込める。  ただ進行具合によってはもちろん死に値することもある。そのため最近では検診を促進する運動も起こっている。年々その数は減っていっている、らしい、のだが。 「進行度はステージ3。ここまで来るともう、子宮を摘出するしかないらしいの」  子宮の全摘。それが意味することは自ずとわかった。頭が真っ白になる。戸惑いの猶予すら与えられなかった。 「あ、あはは……急に何言ってんだろうね。お、重すぎるよねこんなの……」  乾いた笑みに笑顔はない。彼女の顔を見る勇気がなかった。なんと声を掛ければ良いのかわからない。 「――そ、それで? 恭介は私になにかあるんじゃないの?」  思い出したように聞いてくる佳代は上辺の皮をかぶり、いつも通りの声音が聞こえる。吐息が優しく()りかかり、強制的に顔を上げた拳を握りしめる音がぎちぎちと生々しく感じる。いっそこの場で舌を噛み切って死にたいと思った。  辛かった。悲しかった。悔しかった。でもきっとおそらく、僕のことなんてどうでもよくて。  好きだったのに、幸せにしたかったのに。  違う。  ガツンと頭を思い切り殴られた気がした。怒りに似た嗚咽が佳代を見つめる。  なんで。なんで笑ってるんだよ。  よく見れば、その目元は腫れていた。その瞬間ボクはバカだと思った。   「――僕は……っ!」  それはきっと普遍的な怒りだった。いまどうするべきか、いまどうしなきゃいけないか。  正直頭は混乱していた。でも、僕の気持ちなんていまはどうでもよかった。佳代はボクのために強がってくれている。そんな自分が許せなかった。  今日、ボクはなにをするんだった?  人を愛するにのは責任がいるだなんて、昔のひとはよく言ったものだ。  だってそうだろう。ああ、だって。  気づけばボクは佳代を抱きしめていた。ボクより何倍も辛いはずの恋人は身体を強張らせ、きょとんとしている。 「恭介? い、いたいよ」  単純な仕草のひとつひとつが愛らしい。君の匂いが吐息が笑顔が、全部が。好きだ好きだ、好きだ。 「――佳代」  それまで考えていたことは消え、頭の中は空っぽだけど。けれど、まだ言い残したことがある。 「伝えたいことがあるんだ」  身体を離し、膝を曲げる。ポケットに入ったものを掲げる。  手のひらサイズの、僅か10㎝にも満たない小さな……けれども、重い、重い箱がゆっくりと開かれる。 「………っ!」  緊張や恥ずかしさは心のどこかに置いてきてしまって。ただ機械のように腕を動かし、絞り出た気力で想いを伝える。 「………こ、これって――」 「佳代、今日は君に伝えたいことがあるんだ」  精一杯の笑顔はぐしゃぐしゃで、きっと格好悪いんだろう。  数秒間の沈黙。その小さな間にいくつもの葛藤があった。決断するには短すぎて、僕一人には重すぎるものだった。けれど。  この想いは、これだけは。伝えなくてはならない。  僕の大好きな君へ。いまにも消えそうな愛する君に。 「僕と……」  心臓が脈打つ。見せかけのポージングは早くも崩れそうだった。慣れない姿勢は痛くて辛い。  好きだ、好きだと思考が巡る。頭の中はただそれだけで。ただそのために息をする。  流れ込んでくる感情。過ごしてきた日常。思えばいろんなことがあった。そうして過ごした日々だけ、僕らは強く結ばれた。  膝が軋む。身体の髄がボロボロになって今にも崩れそうだった。ただその一瞬を叶えるために。ただその一瞬に報いるためにすべてを生きる。 「僕と、結婚してください」  数秒にも満たない告白だった。 言葉にすれば呆気なかった。でもそれ以上に気持ちはまっすぐで、君を見据える。 「……………」  くしゃりとした笑顔が涙に変わる。本当は喜んで欲しかったけど、いまはその表情さえ愛おしい。躊躇ったりはしなかった。癌だと知らされて、少しの迷いもなかったかと言われれば嘘になる。  けれど、ああ、けれども。 「……私、赤ちゃん産めないよ……?」  掠れでた感情はまだその影を見せず、躊躇いを向けてくる。  それでも構わないと優しく答える。君が、君だけがいればそれでいい。 「僕は君が好きなんだ」  飾りのないまっさらな全て。たったそれだけ。言葉足らずかもしれないけど、僕等にはそれだけで充分だった。 「でも、死んじゃうかもしれない……」 「……っ、たとえそうだとしても、君が瞳を閉じるその日まで、僕の全てを持って君を幸せにする」  言葉は勝手に出た。考えても無駄だとわかったから。だから待った。僕の精一杯の気持ちを、ただ彼女に伝えて。 「……指輪、はめて」  数秒後、数分後。いやそれ以上に長い時間だったかもしれない。零れ出た弱々しいその言葉は、それでも鮮明に聞き取れた。  目を見開く。白い腕が伸ばされ、細い指が露わになる。項垂れたような仕草に息を呑みながらそっと指輪を取り出す。震える指が彼女を捉え、やさしくゆっくりと、けれどもしっかり指輪をはめる。 「うん、綺麗」  彼女の頬が赤く染まる。ああ、微笑ましい。その笑顔がどれほど僕を救うのか、君の存在がどれほど僕に影響を与えるのか。胸が熱くなった。気を抜けば倒れそうだった。 「……佳代」  名前を呼ぶと泣きそうになった。でも泣くわけにはいかなかった。必死で涙をこらえる僕の唇を彼女がそっと奪った。 「ありがとう、愛してる」  彼女のその笑顔が、僕の心を優しく抉る。 「……っ、……僕も、君を愛してる」  絞り出た最大の愛情は弱々しく。嬉しいのに。哀しくて。  雪の降り積もる夜のなか、こうして誰かのささやかな愛が報われた。  二人は結ばれた。永遠に離れることはなく。  おそらく彼らの選んだ道は長く、険しく、悲しいのかもしれない。それでも彼は最後まで彼女を愛し続けた。本当に最後の最後まで。  好きだった人がいた。でも君とはもう会えなくて。僕の記憶のなかの愛しい君。それでも僕らは、少なくとも僕は幸せだった。君がいてくれた日々がなにより大切だった。  今年も冬がやって来る。ひとりぼっちで寂しいけれど、あの幸福に満ち足りた時間を思い出して、生きていく。  ねえ、君はどうだった?  時計の針が12時を告げる。すっかり眠ってしまった青年の肩にそっと毛布が掛けられた。優しい吐息が彼を包み込んで、満ち足りた夜へと(いざな)う。  ささやかな奇跡は1日のその10,000,000の1の時間。  私も幸せだったよ。  けれど魂だけになっても。誰かを愛する気持ちは尊かった。
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