0.発端

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忍はそんな彼の視線を受け止め、静かに男の 真正面へと歩み寄る。 「分かった。……そんなことで済むなら 容易いご用だ」 そしてゆらりと顔を上げたが、何故か彼は 忍に手を上げようとはしない。 「……おい」 _聞こえてるのか……? そう眉を(ひそ)め訝しんだ忍が、その 垂れ下がった右腕を無理やり掴もうとした、 その瞬間だった。 ガッという鈍い音が隣から発せられた。 一体何が起こったのか、この状況をのみ込めず硬直状態に陥った忍は、やっとのことで 首だけをそちらにぎこちなく向ける。 「な……っ……!?」 そこには赤くなった左頬を押さえ、僅かに よろめいた尊の姿があった。 _男が殴ったのは、なんと忍ではなく尊 だったのだ。 「……っ……どういうことだ!?」 何故己ではないのか。 訳が分からない忍は、思い切り男の胸ぐらを 掴みかかる。 だがそんな忍の、血走りながらも戸惑うように揺れる瞳を見下ろしたその面持ちは、酷く 気だるげだった。 男は、すっかり闇に溶け込んでいるスーツ パンツのポケットに左手を押し込む。 そして取り出したアンテナの付いたリモコンを握ったその手を、忍の真正面に突きつけた。 _まるで自身の義理堅さを見せ付けるかの ように。 忍はそんな彼から一瞬たりとも目を逸らさないまま、黙って怒りに震える右手でそれを もぎ取った。 ややあって男は口を開く。 「そりゃどうせ殴るんなら、“次期組長”に 決まってんだろ」 その言葉に、忍のつり上がっている右眉が ピクリと僅かながら動揺を現した。 同時に、男の胸ぐらを掴んでいた右手も 緩む。 そんな忍をニヤリとほくそ笑み、彼は素早く その右腕を振り払った。 解放された男は、放心状態で突っ立ったままの忍の回りをゆっくりと歩き始める。 「知ってるぜ……お前が組長の実子じゃないことくらい……」 「…………」 忍は何も言わず、つくった両拳の震えを必死に抑えるように唇をきつく噛み締めた。 「だから組長の奥さんに 嫌われてんだろ?」 続けざまに「哀れだなぁ~」とぼやいた彼は、更に追い討ちをかけるように忍の 見開かれた瞳を覗き込む。 その両目は、恐ろしい程静まり返った闇夜に 良く映えていた。 「で一番哀れだよ。お前」
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