2.BLと林檎うさぎ

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だがこちらに向けられたままのこそばゆい 視線に気付き、忍は再び佳乃に視線を 合わせる。 まだ何かあるのだろうか。 するとそのアーモンド形の瞳が一つ 瞬きし、 *カーネーションの色合いに似た、 ふっくらとした唇が薄く開かれた。 「あの、それ……」 病院服から覗いた華奢な手首と共に、白い 右手が忍の奥にあるものを指し示す。 忍も彼女の視線を辿り、己の後ろをゆっくりと振り返った。 そこにはまだ皮がついたままの切り分けられた林檎が、白いまな板の上に無造作に 乗せられている。 これがどうかしたのかと、忍はもう一度 彼女へと視線を戻す。 そんな忍の視線を受け、佳乃は小さく口元に笑みを湛えた。 「一切れ頂いてもいいですか?」 「……!?」 少し驚き一つ瞬きをした忍をよそに、彼女は その視線を自身の隣のベッドにいる男の子 へと移す。 「真尋(まひろ)君、来週とても大きな 手術を控えてるので、食事制限が明日から 厳しくなるんです」 時々呼吸器を口元に当てながら、すー… はー…と呼吸を繰り返す彼は小学生らしいが、おそらくまだきちんと学校には 通えていないだろう。 忍はほんの僅かにだが、その苦し気な様子が 己のまだ幼かった頃と重なって見え、チクリと良心が痛んだ。 「だから……」 再び佳乃へと視線を戻す。 「がその手術前の “最後の晩餐”……みたいなものですかね?」 そして彼女は真尋に「おいで」と手招きすると、忍が手渡した包丁で林檎を器用にうさぎ 形に切り、その小さな手のひらにそれを 乗せた。 「お姉ちゃん、ありがと!」 にかりと無邪気な笑顔を綻ばせた彼に、佳乃もにこりと微笑み返すと、 「林檎持ってきてくれたのは、この お兄ちゃんよ」 と忍の方へとその両肩をそっと押しやった。 そこで当然ながら、その笑顔は忍にも向けられたわけで、思わずどぎまぎと視線を 泳がせてしまう。 こんなにも無邪気な笑顔を、これまで誰か に見せられたことがあっただろうか。 そして己は誰かに見せたことがあった だろうか。 「ありがと、お兄ちゃん!」 こちらを見上げるキラキラとした眩い瞳に 加え、その弾んだ高い声音を受けた忍は、 頷き“あぁ”と応える代わりに、真尋のつむじから綺麗に伸びるストレートの黒髪を くしゃりと撫でた。 しばらくすると彼は照れくさそうに右頬を ポリポリと掻き、 「えへへっ!こしょばいよ、お兄ちゃん!」 あまりにも気持ちが良い感触に、つい何度も くしゃくしゃとその髪を撫で回していた忍は、慌てて我に返り右手をポケットに 突っ込んだ。 その一連の忍の所作をしばらく眺めていた 佳乃はふわりと笑みを溢し、弥生はというと 尊に向かって、 「お兄さん、可愛過ぎません!? あれでおいくつですか?」 と今度は別のことに萌え始めていた。 そんな朝の日差しが差し込む、騒がしくない 程度に賑やかなこの病室の心地は、満更でも ないと忍は少しだけ思った。 少なくとも時間だけは、 忌まわしい己の属する世界から抜け出すことが出来るのだから。 ふと左下から視線を感じ、そちらに目を 向けると、車椅子から佳乃がこちらを 見上げていた。 「……?」 どうかしたのかと小首を傾げた忍に、彼女は ちょいちょいと右の手首を曲げ、しゃがむように合図する。 佳乃によく似合うその仕草に戸惑いつつ、 忍は彼女の目線に合わせてしゃがみこんだ。 すると彼女は自身の唇に右の人差し指を 当てると、 「今日真尋くんが林檎食べたこと、誰にも 言わないでくださいね?」 少し困ったように眉を寄せ、目尻を下げる。 「もし先生に知られたら、叱られるのは 真尋くん本人なんです」 そこで少し慌てたように佳乃は人差し指を 唇から外した。 「あ、違うんです!お兄さんを責めてる わけじゃなくて……その……」 わたわたと両手を忙しなく動かし、そう 言い淀む彼女の可笑しな様子に、忍は思わず ふっと笑みを溢す。 「分かりました。あぁ、あと……」 申し訳なさそうに「助かります」と一礼し、 車椅子を動かしかけたそれを引き止める。 「忍、で構いません。……俺の呼び方」 一瞬、その唇を“え”の形にすぼめ、少し驚いたように目を見開いた佳乃だったが、それは ゆっくりと柔らかな微笑みに変わり_ 「はい。……忍、さん」 このやり取りが、彼女と交わした最初の 会話だった。
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