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己のSEIKOの針が、間もなく八時にさしかかりそうなことを確認すると、忍は、徐々にライトアップが消えゆくダウンタウンの街を静かに見下ろしている佳乃の右肩を軽く叩いた。
「そろそろ戻った方がいいんじゃないか?
部屋まで送るから……」
と、そこまで言いかけたところで忍は言葉を止め、瞳を細めた。
特に気に止める必要はないとは思うが、先程から彼女が一言も言葉を発しないことに疑問を覚えたのだ。
部屋から漏れる灯りがその横顔を照らしてはいるがそれはぼんやりとしていて、目を凝らしても表情までは読み取れない。
何か考え事にでも耽っているのだろうか。
そう忍が小首を傾げ、彼女の顔を覗き込もうとしたその時だった。
刹那、ひんやりとした涼しげな夜風が彼女の髪を揺らし、その頬を撫でた。
すると、伏せられていた長い睫毛が一つ瞬き、穏やかな微笑を浮かべた面持ちが、ゆうるりとこちらを向いた。
「……そうですね…」
そしてふと、何か言いたげにもう一度そのカーネーションが薄く開かれたが、それは束の間のことで直ぐ様元の微笑へと戻ってしまった。
「それじゃあ、お言葉に甘えて……送っていただけますか?」
そう、ベランダから部屋へと移動しながら、くるりとこちらを振り返り、はにかんだ笑みをもたらした彼女に、忍は僅かに口端を上げ目を細めた。
しかし、気のせいだろうか。
忍は、踵を返しこちらに背を向け、扉へと小走りに歩み寄る彼女から視線を逸らさず元のポーカーフェイスへと戻す。
_目元が、少し腫れていた気がする……
これは、己が逢っていない間、佳乃に何があったことを意味するのか。
忍は彼女が髪を切った理由、つまりはその背景に何となく見当がつき始めていたが、先にもそうだったように、やはり問いただそうとは思わなかった。
それは、彼女は己にとって他人だからである。
己と彼女が相容れることは、決してない。
そして、これから先もその考えが変わることはない。
-そう思っていた。
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