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忍はカーテンの隙間から
差し込んだ日の光りによって、うっすらと
両目を開いた。
起きるのが気だるげで右手を目元に
当てがったが、今朝はいつものそれとは
違う。
今まで裏社会という束縛の中で生きてきた忍を見出だし、生きる価値を与えてくれた
彼女が、隣で眠っているからだ。
己の生きる世界と、彼女の生きる世界は
違うのだ。
だがら互いは決して、相容れない。
そう思っていた。
だがそんな頑なな忍の心に、いとも容易く
彼女は入り込んできた。
忍とは生まれ育った環境も境遇も、全く
違うのに、不思議と彼女の言葉は心に
染み込んだ。
そんな彼女と日々を過ごすうちに、
気付けば忍の心は彼女に浚われてしまっていた。
そして遂に昨晩、彼女と忍は互いに想いを
確かめ合い、結ばれた。
安らかな幸福感に包まれながら、もう一眠り
しようかと瞳を閉じた忍だったが、ふと
隣で眠る彼女の様子が気になり、そちらの
方向に寝返りをうった。
「………………は?」
数秒の沈黙を経て、忍の口から渇いた声が
漏れた。
その目に映るのは、皺が寄り乱れた純白の
シーツのみだった。
彼女の姿は、ない。
ひょっとしたら、どこかへ出掛けたのかも
しれない。
そう思い、忍は枕元のスタンドに置いてあるスマホをおもむろに手に取り、彼女との
トーク画面を開いたが、新着のメッセージは
なかった。
眉を寄せ、スマホをスタンドに置き直すと、
忍はベッドから立ち上がり新しいバスローブを身に付ける。
そしてやけに静まり返った室内を見渡した。
ひとまずシャワーでも浴びておこうと、一旦
その場から立ち去った忍だったが、数分後
着替えて戻ってみても、彼女の姿は
なかった。
今朝目覚めてから、どれくらいの時間が
経っただろうか。
忍は黒のYシャツの袖口を折り曲げながら、
ベッドに備え付けられているデジタル時計を
眺めた。
忍が目覚めた時は、7時を少し回っていた
だろうか。
_ざっと1時間か……
今、デジタル時計に表示されている数字は
8:03である。
「はぁ……」
軽くため息をつき、忍はベッドの彼女が
寝ていた側に腰かける。
彼女が戻ってこないことに対して、あまり
陰鬱にならなかったのは、
時計がデジタルなので嫌な秒針の音が
しなかったからだろう。
コチ、コチと一定のリズムを刻む、アナログ時計独特の秒針が、忍は嫌いだった。
一刻一秒、周りは少しずつだが確かに変化
していっている。
人も、物も。
だが己は違う。
己の生きる世界は、決して周りの変化の渦に
巻き込まれることはない。
色褪 せたから変わりたいとは、例え
口が裂けても一生言えない。
そう思ってきた忍を変えたのが、他でもない
彼女だったのだ。
嫌だ、と忍は首を横に振る。
そんな彼女を何があろうと手離したくは
ない。
「覚悟しておけって言っただろう……」
忍は両手を額に当て、その両腕で隠された
唇が震えぬよう、ゆっくりと噛み締める
ように、彼女の名を紡いだ。
「佳乃……」
翌日、彼女、つまり京極佳乃の遺体が、このホテルから歩いて数分の、都内の公園にある一本の満開の桜の木の下で発見された。
その桜の種類は、ソメイヨシノだった__。
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