1.出会い

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傷ひとつ見当たらない、白い扉に良く映えた 銀の引き戸を押し、結城忍(ゆうきしのぶ)は病室に足を踏み入れた。 その瞬間、一斉にこちらに向けられた視線は よそに、忍は革靴の音を鳴らしながら室内の 奥へと歩み寄る。 その音に気付いた一人の男が、窓に 向けられていた顔を忍にやり、微笑んだ。 「兄貴」 そのいつも通りの声音に安堵すると、忍も 軽く口端を上げて応じた。 「大丈夫か?」 頭の周りを包帯で巻かれている、その様を 心配そうに窺いながらも、忍の視線はどこか 怯えるように泳いでいる。 そんな兄を切なげに見上げながら、 結城尊(ゆうきとうる)は口を開いた。 「……母さんなら、今日はもう来ないよ」 「……そうか」 やっと心から落ち着いたように息を吐き、 忍はベッドの側にある椅子に腰かけた。 そしてこちらに顔を向けた忍に、尊は 恐る恐る話を切り出した。 「見舞いくらい、母さんも許してくれても いいと思うんだけどな……」 そんな弟の思いにじんわりと温かみが 心に広がり、僅かに柔らかな笑みを浮かべた 忍だったが、その表情は一瞬にして陰った。 「駄目だ。 “あの人”だけは俺を一生認めないだろう からな……」 _存在そのものでさえ 辛うじて、その言葉は呑み込めた。 心から慕う兄に、そんな表情をさせた母に 堪りかねた尊は、思わず声を上げる。 「“あの人”って……。 今もまだ“義母さん”って 呼ばせてくれてないのか……!?」 はぁっと呆れ返ったような息を吐き、皮肉 めいた笑みを溢した尊に、 「止めろ、尊」 忍は間髪入れずに冷静な口調で言い放った。 「お前の気持ちはありがたいが、もう 無理だ。これから何年経とうがな」 努めて落ち着き払ってそう返した忍だが、 怒りとも哀しさとも片付かない、固く 握られた両拳の震えは、止めることが できなかった。 * * * 19年前 忍の母の葬儀を簡単に済ませた親戚の一家は、訝しむ忍を無理やり車に押し込めた。 勢いよくアクセルが切られて着いた所は、 重厚な門構えが特徴の、いかにもお屋敷と いった古風な家だった。 インターホンを鳴らし、親戚の男が何故か 軽く会釈しながら話し込む様子を、忍は 不思議そうに車の窓から見つめていた。 やがてその男は忍が乗っている側の扉を 開けると、「降りて」と無機質な声を 発した。 小首を傾げて車から降りた忍を出迎えたのは、スーツに黒のネクタイを合わせて 身に付けた男と、同じく黒の着物を身に 付けた女だった。 「忍君、お二人にご挨拶して」 何故か先程とはうって変わり、猫なで声で 親戚の男は忍の両肩に手を置いた。 忍はくりんと瞳をスーツの男に向けると、 「初めまして。 染井(そめい)忍と申します。 どうぞ、よろしくお願い致します」 と丁寧に礼をした。 だがスーツの男は眉間に皺を寄せ、こう 言い放った。 「違う。 今日からお前の名前は、結城忍だ」 その射抜くような鋭い目付きに、忍は思わず 一度、唾をのみ込む。 「……は、い……分かりました……」 カラカラに渇ききった喉から押し出した 声は、掠れた。 「いい子だ」 ゆっくりと伸ばされた右手が、忍の髪に 触れる。 忍はただただ、息を圧し殺すことだけに 努めた。 子供心なりにだったが、忍はこの状況の意味をおぼろ気に理解していた。 目の前のこのスーツの男が己の父である こと。 その隣で忍を静かに睨む着物の女は、母を 善くは思っていないこと。 そして己は、二人から歓迎されない 招かれざる客であること。 だがこれはまだ、ほんの地獄の始まりに 過ぎなかった__。
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