1.出会い

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忍が結城家に移り住んだ翌日、事件は早速 起きた。 それは父、つまり昨日のスーツの男と 義母、つまり昨日の着物の女、そして まだ3歳の弟・尊と一家揃って朝食をとって いた時だった。 カチャリとナイフを動かしていた手を止め、 義母は凍った瞳を忍に向けた。 「あなたにこの家でのルールを説明するわ」 忍は口に運びかけていた鶏肉の切り身を、 フォークと共に静かに下ろす。 「ルール?」 まさかこの後、理不尽な揶揄(やゆ)を 浴びせられるとは思わず、忍は小首を傾げて 義母を見上げた。 そんな忍に、義母は張り付けたような笑みを 浮かべる。 「えぇ、そうよ。 お友達と遊ぶ時に決めるでしょ?」 「今は食事中だ。話は後にしろ」 そうピシャリと義母の張り付いた笑みを 一瞬にして強張らせたのは、他でもない 一家の主・父だった。 箸を動かし器用に(さけ)の小骨を 皿の端にやる姿に、義母は声を上げる。 「大体子供がいたなんて、私は 聞いてないわよ!?」 「話してないからな」 そう再び冷静に答えた父の視線の先は、まだ 義母ではなく鮭に向けられている。 そのほんの一瞬も視線をこちらに向けようと しない態度に、更に義母の眉が つり上がった。 「どうして降ろさせなかったのよ!? ……いいえ、違うわね……」 すると途端、義母はその勢いのまま父が身に付けている柄物のネクタイの端を、自身の方へと引っ張り寄せた。 「どうして避妊しなかったのよ!!?」 その凄まじい剣幕に、忍は思わず握っていた フォークを床へと落としてしまった。 ガチャン! 無機質な音が空間を切り、二人の視線が 同時に忍へと向けられる。 「あ……ごめんなさ…」 「うわぁぁぁぁあ!!!!」 遂には弟の尊も泣き出してしまい、その悲鳴にも近い泣き声が、一気に忍の耳を つんざいた。 そんな尊につられたかのように、忍の両目 にも徐々に涙が溢れてくる。 _泣きたいのはこっちだよ…… 忍は、次々と止めどなく溢れて頬を伝う 涙を拭うこともせず、事の発端である義母を きつく睨み付けた。 「……何よ、その目は…」 父のネクタイを握りしめていた右手を緩め、 義母は怒りで血走った瞳を忍に刺す。 「……っ……!」 噛み締める唇から(にじ)んだ血の味が、舌先に伝わる。 だが今は、そんなことよりも目の前の 義母の方が余程、気持ちが悪かった。 「愛人の子供のくせにっ!!」 そう叫んだ義母の右手が、勢いよく風を 切った。 _叩かれる……っ! そう思った忍が反射的にぎゅっと両目を 瞑った、その時だった。 「やめて、お母さん!」 その声に、恐る恐る両目を開いた忍の前に 立ち塞がっていたのは、なんと尊だった。 「尊……」 義母は驚きのあまり両目を大きく見開き、 その右手は力を失くしたように垂れ下がる。 「ケンカは、ダメ……」 泣き濡れた顔で震えながらも、だがはっきりとそう言い切ったその後ろ姿に、忍は母以外 で初めてすがりたいと思ってしまった。 「……う……っ……」 渇ききった頬に、再び涙が一筋伝う。 母の葬式では異様なまでに静まり返った空間に響くのが嫌で、堪えていた嗚咽も 今になって漏れた。 「う…ぁ……っ!」 忍はきつく両目を瞑り、歯を喰い縛る。 _もう二度と泣かないから…… 天国ではなく恐らく地獄へ行ってしまった であろう母に、忍は最初で最後の我儘(わがまま)を心の中で叫んだ。 _だから今日だけは、思い切り 泣かせてよ……! 途端、張り裂けんばかりの咆哮(ほうこう)に近い忍の泣き声が、一気に部屋中を 覆い尽くした。 「う…ぁぁぁぁああ―――――!!!」 後から後から、涙は止めどなく溢れて忍の 胸を切り裂いていく。 何故己がこんな目に遭わなければならない のか。 悪いのは既婚者と関係を持ってしまった 母ではないか。 そう母を憎む思いが溢れる一方、 どうせなら己も道連れにして、あの世へ 行ってほしかったのに……。 と、もう二度と逢いたくても逢えない母を 心のどこかで恋しく思う己もいた。 すると突如、忍の顔に柔らかなものが 押し付けられた。 何事かと目をぱちくりさせる忍の鼻腔(びこう)に、ふわりと柔軟剤の香りが(くすぐ)る。 「……お兄ちゃん」 耳元で聞こえる、尊の声音がこそばゆい。 抱き締められていると分かるまで、数秒 かかった。 「もう、大丈夫だよ……お兄ちゃん」 _これからは僕がいるから…… そう聞こえたのは、忍の気のせいだろうか。 喉元を突っ掛かり上手く言えない礼の 代わりに、忍は思い切りその小さな背を 抱き締め返した。 この出来事から7年後、忍と尊は父も含め、この家に住む人間が、極道と呼ばれる世界に 属していることを知った。 そしてこの世界に属さない人間は、彼らを 酷く倦厭(けんえん)しているということも。 しかし、気さくで人懐っこい性格に成長した 尊は、本当にそんな危ない世界にいるのかと 疑われる程、分け隔てなく周囲と接した。 一方忍は、周囲が理解できないのは当然と 考え、自分から友人や恋人などの特定の関係を作ることを避けた。 そのせいで孤立はしたものの、尊の存在や 皮肉なことに性別関係なく慕われたので、 いじめのような深刻な問題には発展せずに 済んだ。 そして今年、尊は22歳、忍は25歳となる。
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