十歳の婚約

7/22
前へ
/22ページ
次へ
■■■ 翌朝、彼方はすでに動いていた。広い庭の裏側。壁を挟んで台所があるところの窓の下、身を縮め、耳の感覚に集中する。聞こえるのは炊事の音と噂話だ。 今日の午前は千秋は朝から仕事だった。そうなると彼方は関われないため、別方面から秘密を探る事にしたのだ。 女というものは同じく女と井戸端会議なるものをするらしい。その情報量が凄まじい事は彼方はよく知っていた。 台所には母達がいる。彼女達は千秋の世話をしているので雑談の中から秘密のヒントが得られるはずだ。 『美佳さん、今日来てるお客様はどういう方なの?』 さっそく聞こえたのは母の声だった。母は加々美家ではまだ新入りのため、一番よく働いている。 『政治家の人らしいですよ。私はよく知らないですけど』 若い女性の声。これは美佳のものだ。使用人の中で一番若い彼女は彼方母に敬語で接しつつ、仕事を教えていた。 二人はどうやら朝食の皿洗いと昼食のしこみをしているらしい。 『離れが燃えちゃったじゃないですか。それでその方、前に泊まられてたので気にかけていらっしゃったみたいです』 『えっ、あの離れは敦也さんの住処じゃないの?』 『昔は違ったんですよぉ。ここは行き来に不便だから占いに来るお客様が泊まれるようにしていた離れなのに、敦也さんが住み着いてしまって』 ぺらぺらと美佳が語る。その声は大げさに迷惑そうだ。 どうやら燃えた離れというのは客が泊まるための場であったらしい。 『掛け軸とかツボとか、調度品も高いの揃えてたんですよぉ。なのに全部燃えちゃったから被害総額がとんでもない事になるって孝子さん愚痴ってました』 『まぁ……庶民には想像つかない被害だわ。私なんて火事が起きたら逃げるだけで必死よ』 『ですね。私ら的には母屋まで燃えうつらなくて幸いでしたよ。もし燃えうつってお嬢様が逃げ遅れでもしたら……』 『……大変な事になっていたでしょうね』 深刻そうな母の声に彼方はうんうんと頷いた。 死人が出た上に被害総額も大きいが、離れだけが燃えたのは不幸中の幸いだった。 千秋に何か有ればこの家は大きな稼ぎ頭を失う。使用人達は職を失い、彼方と母も路頭に迷うかもしれない。 何よりあの繊細そうな見た目の千秋では、少しの煙を吸っただけで重症となりそうだ。 『……まぁ、もうこれ以上悪い事は起きないですよ。問題の離れが燃えてしまったんですから』 『問題、だったの?』 『ええ。私も孝子さんに聞いただけなんで詳しくはないんですけど……あの離れ、パワースポットっていうのかな。霊力か何かの溜まり場らしいんです』 孝子とは一番の古株の使用人の老婦人で、千秋の身の回りの事を世話をしていた。迷信や生活習慣などに厳しい人で、千秋はいつも小言を言われていた事は彼方も知っている。 『だから敦也さんも修行のつもりであの離れに住み着いたんだと思いますよ。居るだけでパワーアップ、みたいな?』 『はぁ、パワーアップ……』 『ただそういう場所って良いことも悪いことも引き寄せてしまうらしいんです。だから奥様もそこで亡くなったし火事も起きたとか』 彼方には迷信やそういった非現実的な事はいまいちぴんとこなかった。 何せ千秋の能力は霊力のようなものと関係がない。 しかし『奥様』という言葉にはひっかかる。 加々美家の奥様。千秋の母は亡くなったとしか彼方は聞かされていない。その人も離れで死んだという。 『奥様は、真冬にあの離れで水を被って亡くなられたらしいんです』 『水って、なんでまた真冬に?』 『そういう修行があるみたいですよ。滝行みたいなかんじでしょうか。奥様はお嬢様を生んでから未来予知の能力を無くしたそうで、取り戻したかったのでしょう』 彼方には初耳だった。どこか秘密の匂いがするのは不穏な出来事であるためだ。 千秋母は事故死のようなものだ。これについて千秋はあまり語らなかったが、そんな事は当然だった。母の死をすらすら語る娘などいるはずがない。
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

37人が本棚に入れています
本棚に追加