桜色した憂鬱

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桜色した憂鬱

 瞳ちゃんにクビを言い渡された後、少し意気消沈した状態で地下室までやってきた。  お義父さんが地下室と言う時は、決まって採血室だ。  僕は一月に一度、瞳ちゃんの飲み水――ないし飲み血の為に献血を行なっている。これも仕事のうちだ。  当然、仕事じゃなくてもやるけどね。 「ははははは! そうですか、クビを言い渡されたんですか!」  お義父さんはカラカラと朗らかに笑った。 「あと、僕の血は一番美味しくないとも言われました」 「おや、そうですか。それはよかったじゃないですか。ふふっ」 「全然よくありませんよ」  何を思って良いと言っているのかがまるで分からない。  もしかして、美味しくないと言われて若干ぞくぞくしたのがバレてるのか? 「なら、今のこの行為は無駄になっちゃいますかね?」  現在、僕は献血の真っ只中だ。  身体中の血液がどんどん吸い取られていく。 「……お義父さん、もし瞳ちゃんが僕の血はマズくてもう吸いたくないって言ったら……」 「そんな事言わないと思いますけどね。でもまあ、もし本気で嫌なら献血は止めにしましょう」 「お願いします。それで、クビの件なんですけど、僕明日から……」 「来てくださいね?」  笑顔でそう言うお義父さん。  ……来て、いいの? 「えっと……」 「いいですか夏池君? 瞳に、貴方をクビにする権限はありません。その権限があるとしたら私のみです」 「まあ、そうでしょうけど」 「私がクビと言わなければ、君はクビになりません」  確かにその通りだ。  瞳ちゃんは雇用主じゃないから、僕をどうこうする事なんて出来ないんだ。 「あのですね、夏池君。あの子は、瞳は生き返った時からずっと、君に会いたそうにしていました。今もそうです」 「……それなら、いいんですけど」  瞳ちゃんは結構素直じゃない所があるせいで、どこで本気で拒否してるんだか分からない事がある。  それだけがちょっと厄介だ。  ……むしろそれが良いとも言える。 「あー、相変わらず、献血すると力抜けますね」  献血も終了間近。身体全体のパワーが低下するのを感じていた。  これもなんだかんだで結構気持ちが良い。 「おや、でしたら車で送りますよ?」 「え、いや、そこまでしてもらうのは……」  お義父さんは僕の腕から針を抜き、注射用の保護パッドを採血した箇所に張る。  それが終わってから周囲をきょろきょろ見回して、僕の耳元でそっと囁いた。 「君に話があります。できれば、瞳の耳に完全に届かない場所で」 「……わかりました」  何か、重大な話があるんだろう。  クビだなんだというレベルではない、別次元の話が。  そう考えるとちょっと怖いけど、仕方ない。送って頂こう。 「さて、ではお給金です。お受け取り下さい」  お義父さんは、給料が入った封筒を懐から取り出して僕に差し出した。 「ありがとうございます」  お礼を言いつつ受け取り、鞄に詰める。  金を通帳に入れてもらわないのは、親に直で金を渡すからだ。  お義父さんからしたら、手渡しも通帳に入れるも手間はあまり変わらないらしい。 「うん。それじゃ行きましょうか」  地下室から出て、一階へ。  玄関にたどり着くと、そこには車椅子に座る瞳ちゃんが居た。 「……なによ、帰るの? 終業時間はまだ先じゃない」  瞳ちゃんは、いつも通り不遜な表情でいる。 「うん。今日は帰るよ。また、明日来るから」 「こなくていいから。言ったでしょ? クビよクビ。アンタなんてクビ」  お義父さんは苦笑いするだけだ。 「まあ、なによ。夜道には気をつけなさい」 「うん、ありがと。気を付けるよ。それじゃあね」 「瞳。ちょっと遅くなるから、先に寝ておいで?」 「はいはい」  僕は、玄関の扉を開けて歩き出したお義父さんの尻を追い、足を踏み出した――その時。 「……太陽」  瞳ちゃんの出した、か細い声に僕は振り向いた。  お義父さんは、さっさと先に駐車場へと歩いていってしまう。  二人のどちらを優先するか少しだけ迷ったが、そんな必要はそもそも無かった。  僕が選ぶのは、いつだって瞳ちゃんだ。 「…………ちょっと、膝を立てなさい」  彼女は僕のそばに近寄り、膝立ちを指示してくれた。  仕方がないので言われた通りに動く。 「もう、ここには二度と、来ちゃ駄目なんだからね……」  ――ちゅっ。  ほんのりと、淡くて甘い――キスだった。  瞳ちゃんはそっと、僕の唇に己の桜色のそれを押し当てた。 「……さよなら」  ういーんと音を立てて、瞳ちゃんは自分の部屋へと去っていった。  彼女の言動には、矛盾が孕んでいた。  僕は、なんとなしに自分の唇を指でなぞった。  指に感じる異物――それは、唇の皮。  十中八九、瞳ちゃんの唇の皮だ。 「うらはらだ……」  贈られた彼女の唇の皮が、どうにも愛おしくて仕方が無かった。
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