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1話 アンジェの事情
――その日、駐在外交官の令嬢アンジェは友人達とのお茶会を終えて家に戻った。美味しいお菓子に楽しいお喋り。だが、次の瞬間にその余韻を吹き飛ばしたのは父の言葉だった。
「アンジェ、すぐに荷物をまとめて弟のライナスと妹のルシアを連れてこのへーリア帝国から出なさい。明日、朝にでも。私は後から向かう」
「どうしてです?」
「とにかく命令だ」
「では……せめてユーリに帰国の挨拶を。彼にはお世話になりましたもの」
「――ならん!」
そのまま、アンジェは双子の弟妹を連れて大国へーリア帝国から、母国エレトリア王国へと戻った。……それが、父との最後となるとは知らずに。
***
親愛なるユーリへ
エレトリア王国の王太子襲撃事件はそちらでも大変な噂になっているのね。……って私も事件のことは新聞で読んだだけだけど。外交官だった亡きお父様がいたら大騒ぎだったでしょうね。でも、ハンティントンは田舎だからのんきなものよ。私はそれよりも明日のパンとスープをどう用意するかの方が大問題。
ブラッドリー叔父様は相変わらず毎月雀の涙ほどのお金しかくれません。日々大きくなっていく弟のライナスと妹のルシアの今後が心配です。
へーリア帝国での幸せな日々が懐かしいです。乳母達の目を盗んで入り込んだお庭であなたと会った日の事もちゃんと覚えてます。私が男の子で、あなたが女の子なら良かったのに、とよく言われましたね。
今も私、男の子だったら良かったと思っているわ。そしたらこのハンティントンの領地を継ぐことができたのですから……。
愛をこめて アンジェ
アンジェは幼馴染みに向けた愚痴っぽくなった手紙を書くのをやめた。そろそろ買い物に出ないといけない。
「ライナス、ルシア」
アンジェは今年九歳になった双子の弟妹の名を呼んだ。癖のある黒髪の男の子が兄のライナス、赤みがかった金髪の女の子が妹のルシアだ。ライナスが少しわくわくしながらアンジェに問いかける。
「お姉様、お出かけ?」
「ええ。人混みでのお約束をあなた達は覚えているかしら」
「しっかりお姉様とルシアの手を握ってそばをはなれない!」
「正解。では参りましょう」
こうして三人は家を出た。と、いってもその家は廃屋も同然で、元はハンティントン家の屋敷の庭師の使っていたものである。隙間風や雨漏りがひどく、とても住めたものではない。
なのにアンジェの叔父のブラッドリーは屋敷の離れどころかここ以外に住む事を許さなかった。母屋に近づけば、叔父にむち打たれるどころか庭番に銃を突きつけられた事もある。だからアンジェ達は屋根があるだけマシなここに住むしかなかったのだ。
「お歌を歌おう、姉様」
「いいわよ」
暗い表情が顔に出てしまったのだろう。ライナスはそう言って歌いながらアンジェと妹ルシアの手を握った。この健気で愛らしい二人の為に、アンジェはなんとか堪えなければ、と思った。
産後の肥立ちが悪く生後すぐに母を喪い、そして一年前に父を亡くした彼らにとってアンジェは唯一の家族なのだから。
「まずはパン屋さんね」
そう言ってアンジェは弟妹の手を引いて町へと向かった。
***
「あれが、アンジェ・ハンティントン……」
メイドもおらず日々の買い物を自らするアンジェ達の姿を物陰からじっと見つめる人物がいた。彼の名はルーカス・エインズワース。その彼の耳に町の人々の囁き声が聞こえて来る。
「男爵家のお嬢様が自分で買い物ですって」
「ご兄弟までつれて……乳母はいないのかしら」
彼らは彼女の非常識な行動を咎めるもの半分、気の毒がるもの半分といった感じだ。ルーカスはアンジェをよくよく観察した。
明るい金髪をシンプルにきっちりと結い上げ、青い瞳の視線の先は優しく小さな子供達に注がれている。だが、ドレスは流行遅れで生地は毛羽立ち、レースがとれかけているのがここからでもわかる。
「……痩せていてみすぼらしいが、いい眼をしている。また会おうアンジェ」
ルーカスはそうつぶやくと、物陰から姿を消した。
***
「これはおまけだよ」
「まあ、いいの?」
パン屋にひとつパンをおまけされたアンジェはパッと顔を輝かせた。パンひとつでそんな顔をするアンジェをパン屋の親父は気の毒に思った。
「ああ……あんた大変だろう……? いつも来てくれるしさ」
「助かります……感謝を」
うやうやしく正式な礼をされたパン屋は照れくさそうに頬を掻いた。
「さて……フロッグさんのとこにいかなきゃ」
アンジェは町の片隅の店に行く。そこは雑多ながらくたが置かれた奇妙な店だった。
「やあ、アンジェのお嬢」
「こんにちは、フロッグさん」
フロッグと呼ばれた男はこの町のなんでも屋、便利屋のような事をして生計を立てていた。今は壊れた錠前を直しているところだったらしい。
「こちら、三点の翻訳をしました」
「ああ、ありがとう。また依頼が来ているよ。手紙の翻訳だ」
「それくらいなら今ここで」
アンジェはその依頼を心良く引き受けた。
「助かるよ。あんたは仕事を選ばないし、早いし、字も綺麗だ」
「ふふふ、ありがとうございます」
「じゃあ、ぼっちゃんじょうちゃん。からくり人形をみせてやろう!」
「わあ!」
ライナスとルシアがからくり人形に気を取られているうちに、アンジェはささっと手紙を翻訳した。内容はハンティントン名産のワインを送るように、といった他愛のないものだ。
アンジェから手紙を受け取ったフロッグは金をアンジェに渡す。
「はい。これ翻訳の代金だよ」
「ありがとうございます」
「あんたも……お嬢さんなのに、こんな事しないといけないなんて大変だね」
「生活の為ですから……それでは失礼いたします」
飢えて死ねといわんばかりの僅かな金しか叔父から与えられていないアンジェにとって、ここでの翻訳で手に入る小遣いはまさに生命線だった。
「いつもより少し多い……」
フロッグの心付けだろうか。アンジェはこれでチーズかハムを買い足そうと思った。
「さあ、行くわよ。ライナス、ルシア」
「うん……でも姉様、ルシアが……」
ルシアはフロッグの店の向かいの菓子屋の窓に貼り付いていた。そこには色とりどりのキャンディが並んでいる。
「きれいよ、お姉様。だいじょうぶ、見てるだけよ」
「ルシア……」
無邪気な顔で振り向いたルシアを見たアンジェはたまらず菓子屋のドアを開いた。
「すみません、キャンディを二つください」
「いいの……? お姉様」
不安そうな顔のライナスとルシアにキャンディを渡しながら、アンジェは微笑んだ。
「昨日も一昨日も二人は書き取りをしっかりしたのになんのご褒美もなかったからね。いい子はキャンディを貰えるものなのよ」
「わーい」
アンジェはキャンディに大喜びする二人を見ながらハムは諦めることにした。
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