現在(一)

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現在(一)

朝、携帯のアラーム機能で目が覚める。 「また、嫌な夢を見たな」  僕はベッドから重い身体を起こした。何日かに一度、彼女の夢を見る。彼女の夢を見るとその日の目覚めはあまり良いものではなかった。起きた時のこの虚しい気持ちから一日のスタートになると重い。  顔を洗い、歯を磨き、作業服を身に纏い、安全靴を履く。朝の一連の動作は慣れたものである。目を瞑ってもできてしまう。 「行ってきます」と僕は溜め息を吐きながら誰もいない部屋に向かって言う。当然、部屋の中からは返事は返って来ることはない。家を出た後はバイクにエンジンをかけてヘルメットを被る。何も変わらない毎日である。  高校を卒業した僕はそのまま新卒として自動車部品製造の会社に就職した。大手企業の系列会社でひ孫会社に当たる小さな町工場だ。人との関わりを極力避けたいと思い、製造業を選択した。いわゆるコミュニケーション障害というやつである。世間ではコミュ障と言われ、馬鹿にされている。人との挨拶や会話がまともに出来ず、相手からしたら不快な想いをさせてしまうことはしばしばある。話しかけられた内容に対してどう返せばいいか分からず思った事とは真逆のことを言ってしまい、口にすればトラブルを引き起こすちょっと変わった性格をしているのが特徴である。ただ、僕の場合はずっとそうであった訳ではない。あることを境に自ら人とのコミュニケーションを断ち切ったに過ぎない。 確かに物を相手にする仕事なので人との関わりは減ったが、全くないと言う訳ではない。挨拶や分からないことの質問など、最低限の会話はどうしても必要になる。それは社会で生きていく為には当然の義務のようなもの。その際は小声になりながら聞くことはある。唯一その瞬間は嫌だった。  だから、僕はこの世で存在を消したい。僕がいなくなっても誰にも存在を知らされることのなくなるべく人との関わりを避けてひっそりと姿を消す。誰の記憶にも僕の存在は残らないくらいにしたい。現に高校を卒業してから同級生との接触は一切ない。親とも関わりたくないので高校卒業と同時に自立を決意した。誰にも関わらないように。当然、両親には猛反対されたが、僕の強い気持ちに両親は心が折れた。父親は市役所に勤めている公務員であり、理想としては大学を出て公務員になってほしいと願っていた。しかし、僕はそれに反発し進学をせずにそのまま就職という父親の理想とは正反対の選択をして家族内ではギクシャクしてしまった。僕は逃げるように就職先を決めてそのまま会社の寮での新生活を送ることになった。たまに母親から電話やメールがくるが僕は無視している。毎日、仕事と寮を往復するだけの生活で充分だ。幸せとか希望とかそんなものは僕にとっては必要ない。  なぜなら近い将来、僕は世間を騒がせる大事件を起こすのだから。 「ゼロ災害でいこう、ヨシ! ご安全に!」 「ご安全に!」  朝礼でお馴染みの掛け声と同時に作業員はそれぞれ自分の配置に付いた。僕も他の社員と同様、自分の配置に向かった。その時だった。 「岡嶋。ちょっと良いかな?」  僕の背中に呼びかけるのは日沖班長だ。この会社では十五年目のベテラン社員だ。 「はい。なんでしょう?」 「岡嶋、この会社に入って何年だ?」 「八年です」 「そうか。実は少し相談があってな。そろそろリーダー業を覚えてもらいたいと思ってな。と、言うのもリーダーの池田が年内で退職することになって代わりをしてもらいたいんだ。次に勤務歴が長いのは岡嶋だからどうかと思ってな」  リーダーといえば班長の下の偉い役職であり、全ての工程が出来るのが最低限の能力である。欠勤者が出たらその工程に入る為には当然必要だ。その他にも社員の不安全の指摘やトラブル対応といった業務を課せられる責任重大の業務である。いわば班長の右腕という役職のことを示しており、現場の指揮者だ。責任が重くなると面倒なことになると僕はすぐに感じた。 「いや、でも僕にはまだ早いかと」と、何かを頼まれると否定から入ってしまうのが僕の悪いところの一つである。 「何を言っているんだ。岡嶋の同期の内田はもうリーダーだ。同期に抜かされて恥ずかしくないのか?」  日沖班長は僕を試すように言う。僕の同期は全員で四人いる。そのうちの内田に関しては少し前にリーダーになっていたのは僕も知っていた。今の僕は上の役職を目指すというよりも安定してある程度稼げていたらそれで良かった。だが、いつまでも平社員で断り続けると返って目立つ。今の僕の安定された生活に支障を引き起こしたくなかった。一応、引き受けて自分に合わなければ勝手に外されるだろうと会社が判断してくれると思った。ここは一つ引き受けるだけ引き受けて話を合わせることにした。 「分かりました。僕で良ければお願いします」 「本当か? 助かるよ。少し残業も増えるけど、大丈夫か?」 「はい。大丈夫です」  時間に関しては仕事しかしていない僕にとっては問題なかった。とにかく金がいる。残業代が必要だった。残業は苦ではない。給料が増えるのであればこの際、リーダーでも班長でもなれるものはなっておこう。僕は業務に取り掛かった。  基本、この会社は精密な機械を扱うので作業中は私語厳禁だ。その中で僕は検査工程に入っているので集中が途切れると不良品を見逃す恐れがある為、喋ることは禁止と言っても過言ではない。なお、コミュ障の僕には好都合だ。お気に入りの工程だが、自分の班の工程を習得するには泣く泣く離れることになるのはちょっぴり抵抗がある。 「お疲れ様でした。お先に失礼します」  全ての業務終了後、いつも通りの挨拶を済ませて僕は会社を退社する。結局、いつもよりも二時間程の残業を課せられることになった。新しい業務の習得に時間を費やしてしまった。リーダー業は先が長そうだ。疲れがドッと汗となって吹き出た。  幸い、金曜日ということもあり、明日から休日に入る訳で仕事をしていたら一番楽しい瞬間である。  酒も煙草もしない僕にとっては何が楽しみかと言えば食事である。と、言っても暴食をする訳ではない。僕はそこまで胃袋が大きくないのですぐに満腹になってしまう。なので、美味しい物をより多く食べる。普段はカップ麺や冷凍食品で済ませていたので休日だけはしっかりとした食事を摂りたいと思っていた。  今日は何を食べようか。それは今日の朝から決まっていた。寿司だ。勿論、回転寿司である。高級寿司なんてそんな贅沢はしない。  店内に入ると、一人と告げたら当然のようにカウンター席に案内される。男一人で店に入るのも当たり前になってきたところだ。座るや否やすかさずモニター画面で自分の食べたいものを注文する。基本頑張っても十皿で満腹になるので出来るだけ食べたい品を定める。サーモン、海老、マグロは絶対に外せない。厳選した品物で腹を満たした僕は満足げに帰宅する訳である。  そんな毎日を送る僕は誰にも言えない秘密があった。一人になりたい。人との関わりを断ち、コミュ障になってしまった大きな要因。  それらの全ての鍵は速水菜穂の存在だった。僕がこの世で最も大切な人であり、将来は結婚の約束をしていた。唯一、僕の救いだった存在だ。だが、彼女はもうこの世にはいない。彼女がいなくなってから僕は狂い出したんだ。
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