過去(十)

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過去(十)

菜穂と結婚の約束。いや、婚約したと言い換えるべきだろうか。高校生としては重い約束に見えるだろうが、それは二人が望んだ結果なので重いとは感じなかった。お互い学校が別々の為、気まずさは特に感じずに過ごすことが出来た。この頃になると菜穂は進学の為、僕は就職の為、それぞれ将来に向けた動きをしないといけない季節になっていた。菜穂は自分の長所を更に磨きをかける為、予備校や校内の自習室に入り浸りの日々を送ることになる。僕はと言えば将来の生活の資金を貯める為、アルバイトを増やした。高校に入って興味本位でロボット研究部に所属していた僕は三年生に進級したことをきっかけに引退という形で部を去った。人型のロボットを製作し、ラジコンのように操縦してその完成度を競う部活であった。工業高校ならではの部活とも言える。引退した僕はネットの求人票を見てピザ屋でアルバイトを始めた。最初は主にピザを焼く裏方の仕事から始まった。  その時に出会ったのが和田秋章という男だった。同じ高校の同級生にも関わらず、お互いその存在は知らなかった。廊下ですれ違ったことはあるかも知れないがその程度だ。工業高校の場合、入学した時点で何科が決まるので三年間クラス替えはない。下手をしたら三年間存在を知らないまま卒業もあり得るのでバイト先で接触したのは何かの縁かも知れない。ちなみに僕は化学工学科で和田は都市工学科である。 「岡嶋って確かロボット研究部の人だよね」 「そうですけど」 「やっぱり。なんか見たことある気がして。こうして同じバイト先に入れたのも何かの縁だ。これからよろしく頼むよ」 「はい。こちらこそ」  お互いバイト初心者で同期ということもあり、すぐに打ち解けた。シフトが重なれば世間話をするくらいだ。そんなある日に和田はヒソヒソ話のように話を振ってきた。 「なぁ、岡嶋。久瀬ちゃんのことどう思う」 「どうって言われても」 「可愛いと思うだろ」 「まぁ」  噂をしているのは接客担当の久瀬琴葉だ。僕たちより一つ年下だが、彼女は一年以上ここでバイトをしている先輩だ。小柄で笑顔が眩しい女の子である。普段は仕事の為、ポニーテールに結んでいるが自然体にすると可愛い印象があった。 「実は俺、彼女目当てでここのバイト始めたんだ」 「そうなんだ」 「反応薄いな。お前も実はそうだろう?」 「僕はたまたまネットの求人を見ただけだよ」 「お前、久瀬ちゃんのこと狙ってないだろうな」 「狙ってないよ。第一、僕には彼女がいる」 「マジか。工業高校でどうやって作ったんだよ」 「中学までの同級生だよ」 「なるほど。それでか。なんだよ、地味そうに見えてやることはしっかりやっているわけだ。このやろう」  和田は先を越されていたのが悔しかったのか、僕を軽く小突いた。 「なら話は早い。俺は久瀬ちゃんに告白する」 「マジか。そんな度胸あるのか」 「今に見ていろ。彼女を作ってエンジョイしてやるからな」  そのように意気込んでいた和田だったが、数日後に撃沈したと報告を受けた。理由は既に彼氏持ちだった。つまり、彼女目当てで入ったピザ屋は最初から結果は決まっていた。 「岡嶋、俺はもう何が楽しくてバイトをしているのか分からなくなっちまったよ」 「和田。彼女作りの為にバイトをしに来たのか」 「野暮なことは聞くな。当然だろう」  格好良く言い切るが、内容としては実にダサい。僕が言うのも変であるが、もし菜穂がいなければ和田と同じように彼女作りに奮闘していただろう。工業高校の学生にとってそれは死活問題である。なんせ工業高校に在籍する男子生徒は九割を占めている。そのうちの一割いる女子生徒は彼氏持ちか或いは特殊すぎる性格の持ち主が多い。実際、工業高校で校内恋愛をするカップルは極めて少ない。学校以外で恋愛を求めるのであれば紹介やアルバイト先がベタである。そう考えると菜穂の存在に感謝するしかない。  とあるバイトの休憩時間のことであった。この日はたまたま僕と久瀬さんが二人きりになっていた。 「お疲れ様です」とお互い挨拶をした後、事務所内は無音だった。僕としては気不味かったが、なんて話題を振っていいか思い付かずにいた。 「彼氏いるんだね」と僕は無意識に発言してしまった。セクハラとも言える発言に思わず口を押さえた。 「あぁ、和田さんが言ったんですか?」と聞かれて僕は正直に頷く。 「いると言えばいますし、いないと言えばいませんね」と久瀬さんは曖昧なことを言う。いや、どっちだとツッコミを入れたかったが出なかった。 「私、正直、和田さんのことそんなタイプじゃないんですよね。ガツガツしてそうで女に飢えていると言いますか。付き合ったら絶対浮気しますよ。あの人」  久瀬さんは人が変わったように髪を掻き上げながら言った。初めてまともに会話をしたが、普段の清楚なイメージとは掛け離れていた。これが彼女の本当の姿というものだろうか。菜穂しかまともに女性を知らない為、そのギャップは怖いものでしかない。 「あ、岡嶋さん。今のは誰にも言っちゃダメだからね」と久瀬さんは笑顔で言った。あれ、急に僕の知る久瀬さんに戻った。 「うん。誰にも言わないよ。絶対に」  言ったら何をされるか分からない。僕はなるべく彼女とは距離を取ることにした。今はバイトに集中してお金を貯めることだけを考えるんだ。菜穂との華やかな同棲生活の為に。  しかし、それからと言うものの久瀬さんは何かと理由を付けて僕との接触が多くなるのが気になった。最初は仕事の話で教えてもらうことが多かったが、二人になると僕のことをよく聞いてくる。学校のことから始まり趣味や生年月日などの個人情報を質問される。ただ、職場で仲が良いくらいのものだった。特に意識はしなかったが周りから見たらそうでもないらしい。 「おい。岡嶋」と、僕は和田に呼び止められる。 「お前、久瀬ちゃんと付き合っているのか?」 「はぁ? なんでだよ。そんな訳ないじゃん」 「嘘付くな。最近、やたらと仲が良いし、俺を差し置いて。それに彼女がいるのに付き合うとかどんな神経しているんだよ」  和田は突っかかるように前のめりになりながら迫ってきた。 「待て、待て。落ち着けよ。僕と久瀬さんはそんな関係じゃない。僕は彼女を一番に考えているんだ。そんなことする訳ないだろう」 「本当か。嘘じゃないのか」 「本当だって」  僕の必死な説得に和田は身を引いた。大体、和田は振られた身だ。いつまでもどうかと思う。 「何をやっているの?」  そこに現れたのは久瀬さんだった。 「いや、なんでもないよ」と和田は手を後ろに回した。 「二人とも休憩交代だから店長が戻って来てだって」 「うん。すぐに戻るよ」  和田はにこやかに事務所を後にする。僕も続いて出ようとしたその時だった。 「今日、バイト終わったら話があるの。ちょっと付き合って」と耳元に囁かれた。  二十一時に本日のバイト業務が終わった後だった。僕は何故か近くのスーパーの駐車場に久瀬さんと二人でいたのだ。 「久瀬さん、話っていうのは?」  僕は少し警戒しながら聞いた。 「また店長に怒られちゃった。私が注文を間違えてクレームきて店長が謝罪することになって怒鳴られてもう散々だよ」  何だ。愚痴を聞いて欲しかっただけか。僕は安堵する。 「次から気をつけたらいいよ。ミスなんてしない人はいないし」 「全然分からない。私、可愛いから許されると思うのにどうして怒鳴られるんだろう。魅力がないってことかな?」  急に何を言い出すかと思いきや、久瀬さんは自分のミスは認めない。むしろミスは許されるものと勘違いしている様子だった。 「どうだろうか」と僕は当たり障りのないことを言ってみせる。用が済んだなら帰りたい。だから僕はそろそろ帰らないかと促す。 「一つ、言いたいことがあります」  久瀬さんは僕の背中に向かって言う。振り向いたところでこう言われた。 「岡嶋さん。私と付き合わない?」  冗談に聞こえたが、真剣な眼差しでこちらを見ていた。一瞬、間が空いた後に僕は答える。 「君には彼氏がいるんだろう。その人を大事にしなよ」と少し迷惑そうに言ったのだ。 「あれは嘘。本当に愛している人なんていないよ。だから付き合わない?」 「ごめん。君には言っていなかったけど、僕には彼女がいるんだ。本当に愛している大切な人。だから君とは付き合えない」 「あれ、振られちゃった。初めてだよ、私を振っちゃう人。そんな人もいるんだね」  久瀬さんは特に悔しそうな感じもなく仕方がないという素振りだった。 「本当にごめん。これまで通りバイト仲間として仲良くしよう」 「はぁ? そんなことできる訳ないでしょ? 振られたなんて私のプライドはどうなるの? 惨めだねって頭の片隅に思われながら過ごさなきゃいけないの? ありえない」  久瀬さんは頭を抱えるように吐き捨てた。やはり女は怖い。どのみち彼女がいなかったとしても僕は久瀬さんとは付き合うとはないだろう。「はぁ、うざ」と暴言を吐きながら久瀬さんは帰っていく。その後、久瀬さんはバイト先に姿を表すことはなかった。  ちなみに今回のことは菜穂には一切報告していない。理由は菜穂に心配をかけたくないからだ。  しかし、久瀬さんが姿を消して二ヶ月後の七月のことである。  自動二輪の免許を取得した僕は動く範囲が広がり、ピザ屋では出前を担当するようになった。そんな中、ある一軒のマンションに出前を届けた時である。 「デリバリーピザです」 「はい。ご苦労様です」  出迎えた人物に僕は驚きが隠せなかった。そこには久瀬さんの姿があったのだ。 「久瀬さん。どうしてここに?」 「どうしてってここ、私の実家ですよ」と、久瀬さんは悪意ある表情を浮かべた。 「琴葉ちゃん、ピザのお金」  更に奥から来た人物にも僕は驚いた。 「え? 嘘。真斗、どうしてここに?」  そこには菜穂が驚いたように立ち尽くしていた。思いがけない鉢合わせに僕は状況が全く掴めなかった。
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