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過去(十二)
「菜穂」
菜穂と目が合い一瞬時間が止まった気がした。菜穂は歪んだ顔をした後、逆方向に向かって走り去っていく。
「菜穂。違うんだ」
僕は菜穂を追いかけようと走り出したその時、腕を全力で掴まれた。
「行かないで。てか、行かせない」
久瀬さんは全力で手を掴んで阻止した。
「どういうつもりだ。なんであんなことをしたんだ」
僕は怒鳴り散らした。その声に周囲の人は避けるように歩き去る。
「言ったでしょ。速水さんもあなたも嫌いだから。それともあなたたちの愛ってその程度のものだったんですか」
久瀬さんは試すように言った。僕はなんとか冷静さを保とうと堪えるが菜穂が気になり集中出来ずにいた。菜穂の元に一秒でも早く行きたかった。しかし、ここで話を付けなければいけない。
「菜穂と僕が君に何をした。何も危害を加えていない」
「確かに私に対しては危害を加えていない。でも関節的に私を苦しめた」
「どういうことだ。まどろっこしい言い方はやめてハッキリ言ったらどうだ」
「龍虎謙也」と久瀬さんは呟いた。
その名前に僕は聞き覚えがあった。確かその名前は……。
「かつて速水さんとあなたが関わって彼を追い込んだ。それは忘れたとは言わせないわよ」
「久瀬さんは龍虎と知り合いなのか」
「龍虎謙也は義理の兄よ。連れ子同士の家族。でも私は兄を愛している」
「ちょっと待て。だったらなんで苗字が違うんだ」
「戸籍は家族じゃないわ。でもそんなの関係ない。私たちは家族を超えた家族なんだから」
「それが本当だとして何故君がこんな酷いことをするんだ」
「あなたたちが邪魔さえしなければ私たちは一緒になれた。でもあなたたちが邪魔をしたせいで私たちは離れ離れになってしまった。それだけよ」
「そんなの勝手な逆恨みだ」
「知らないわよ。兄は最近ようやく務所を出たところ。兄も同じようにあなたたちが憎い」
「菜穂と関わりを持ったのは復讐する為だったとでも言うのか」
「えぇ、速水菜穂と岡嶋真斗の名前を知ったのは四年前。何も知らないフリをして後輩として速水さんに近づき、演技をしていた。あの人は何も知らずのただの後輩と思っているけどね。笑っちゃうよ。まさか恨まれているなんてこれっぽっちも知らないんだから」
「僕とバイト先が被ったのも意図的に仕組まれたことなのか」
「それはただの偶然。私がいたところにあなたがただ来ただけ。いつネタバラシしようかウズウズしていたけどようやく出来たみたい」
「随分、時間をかけたね。でも、誤解だ。僕たちは何もしていない。龍虎の行いはそれ相応の罰を受けるものだ。君も薄々分かっているだろう。龍虎は自分の立場を利用して制圧していたんだ」
「あなたはどうしてお兄ちゃんが権力を持っていたか知っているの?」
久瀬さんの発言に僕は考えさせられた。そういえば、龍虎は何故誰よりも上の立場にいたのだろうか。力は無さそうなのに自分より強そうな人を引き連れていた。なら、金か。
「かつて私の義理の父はスポーツジムの経営者でお金持ちだった。でも、それは四年前の話。会社は倒産し、お兄ちゃんも少年院に入って私たちの生活は苦しくなった。私は部活をしながらアルバイトをする日々を強いられた。まぁ今は落ち着いた頃ね」
「今の龍虎には権力は無くなったと言うことか」
「あなたたちのせいでね」
「あくまでも僕たちを恨むという訳か」
「えぇ、そうよ。良い時間稼ぎになったわ。いいの? 今頃、速水菜穂は兄に捕まっている頃かしらね。あははは」
久瀬さんは気が狂ったように大笑いをした。やられた。僕は取り返しの付かない事態に焦った。
「言え! 菜穂はどこに行った」
「さぁ、どこかしらね。今日は月が綺麗ね。海辺に行ったら綺麗に見えるかもしれないわね」
「どういう意味だ」
「行ってみたら? もしかしたらいるかもしれないわよ。は・や・み・さ・ん」
本当か、嘘か分からない言い方だったが、今だけ久瀬さんの言葉を信じたかった。いや、信じる以外選択がなかった。
「海辺だな」
僕は走り出した。一刻も早く菜穂を助ける為に全力で。
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