過去(十三)

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過去(十三)

僕は海辺の方に向かって走り出していた。周囲の人を搔き分けながら前に進む。強引に押したことで文句を言われることもあったが、聞こえないフリをして走り去る。僕には時間がない。一刻も早く菜穂の元に行かなくちゃならないんだ。 今、菜穂の元に行かなければ二度と会えない気がした。菜穂に会いたい。その思いだけが身体を動かしていた。  嫌な予感しかしない。菜穂の身に危険が迫っているのであれば僕は何が何でも助け出さなければならない。  「菜穂! どこだ。どこにいるんだ」  海辺付近に着くと僕は懸命に菜穂の名を呼んだ。  海辺は静まり返っており、波の音が鮮明に聞こえた。人の気配はしない。ここにはいないのだろうか。しばらく歩き、諦め掛けていたその時だった。僕は何かを踏んだ。それを拾い上げると僕は驚いた。それは菜穂が今日履いていた下駄にそっくりだった。 「なんでこれがこんなところにあるんだ」  僕は周囲を見渡す。そして、再び菜穂の名を何度も呼んだ。  会いたい。今すぐに菜穂に会いたい。そしてさっきの誤解を解いて伝えたい。菜穂が好きだ。この世で一番愛していると直接言いたい。それだけが僕の身体を動かしていた。 「どこだ。どこにいるんだよ、菜穂」  浜辺の砂に向けて拳を振るう。対して痛くない。痛いのは僕の心だった。 「助けて」  僕の耳にそう聞こえた。気のせいなんかではない。確かに聞こえた。  僕は見上げた。崖の上に誰かいる。暗くてよく見えないが菜穂のような気がした。  菜穂なのか。僕は崖の上に向かって走り出す。あそこに菜穂がいる。そう、信じた。 「菜穂!」  海辺から見た場所に辿り着くと誰かがいた。菜穂だ。いや、それだけじゃない。もう一人いる。奴は確か龍虎謙也だ。菜穂はロープで固定され、崖の先端にある木の枝に吊るされていた。菜穂の足元は宙に浮いており、下は断崖絶壁で海になっている。落ちれば助からない。菜穂の命綱は一本のロープのみだ。 「菜穂!」 「真斗!」  ようやく僕と菜穂は再会を果たすことができた。しかし、僕たちの間を阻む壁が立ち塞がる。 「やぁ、岡嶋君。随分早いご到着だね」 「龍虎! 菜穂に何をした」 「見ての通りさ。彼女の命は僕が握っている」  龍虎は果物ナイフを見せつけ、いつでもロープを切ることが出来るのをアピールする。 「菜穂から離れろ」 「おっと。離れるのは君の方だよ。岡嶋君」  僕が近づくと龍虎は素早く果物ナイフをロープに当てた。僕は思わず後ろに下がる。 「辞めてくれ。頼む」 「良い気分だよ。僕、今悪役に見えるかい?」  悪役ではなく悪魔に見える。よく平気でこんなことが出来ると思う。人間じゃない。 「何故、こんなことを」 「君は何も分かっていない。僕のこれまでの行いを邪魔したんだ。ただじゃ済まないよ」 「僕が何をしたって言うんだ」 「目障りなんだよ。君の存在も速水菜穂の存在も全て。これは復讐さ。僕は君たちを絶対に許さない」 「頼む。なんでもするから菜穂を助けてくれ」 「なら土下座しろや。額を地面に擦りつけるんだ。そして詫びろや。これまでの行いを謝罪して奴隷になることを誓え」  僕は全身が震えた。脅えているからではない。怒りで気が狂いそうになっていた。菜穂を危険な目に合わせたことに対しての怒りが今にも爆発しそうだった。だが、それでは菜穂は助けられない。  僕は膝を付いて額を地面に擦り付けた。 「申し訳ありませんでした。これまでの数々のご無礼をお許し下さい。菜穂を助けて下さい。奴隷でもなんでもやりますのでお願いします」  僕はプライドを全て捨てた。全ては菜穂を助け出す為に出来ることを全てやるつもりだった。 「ククク。惨めだね。見なよ、速水菜穂。これが情けない彼氏の姿だよ。笑えるだろ?」  龍虎は気が狂ったように笑いながら言った。僕は歯ぎしりをして耐える。 「全然笑えないわよ。真斗は立派だわ。情けないのは龍虎、あなたよ」 「なんだと?」 「菜穂! 挑発するな」と、僕は懸命に止める。 「やり方が卑怯なのよ。最初からそう。自分は強い壁に隠れて相手が弱ったところでいいとこ取りするだけ。一人じゃ何もできない。弱い者がすることよ」  菜穂は縛られながらも強気の発言をした。全く怖じ気ついていない。勇気ある発言だが、今の状況を把握してほしい。その発言は逆効果だ。 「どうやら僕を怒らせるのが楽しいようだね」  口調は穏やかだが龍虎の場合、表は穏やかに見えても裏では何をするかまるで掴めない。それが恐ろしいところでもある。そして、その行動は恐ろしいものに変わる。 「死ね」  龍虎は持っていた果物ナイフを菜穂の腹部に刺した。 「ぐっ」  一気に血が吹き出した。 「龍虎! テメェ!」  僕の感情が制御できなくなったその時だった。龍虎の脇腹に一本の矢が刺さる。その痛みでバランスを崩した龍虎は崖から転落し、海の中に消えた。
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